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第186話 雪夜の謝罪

 桐原兄妹が帰った後。


 東鶴間高校野球部のグラウンドには、気まずい空気が残っていた。


 誰もが、先ほどのやり取りを見ていた。


 高橋雪夜と桐原礼里。


 二人の間に何かがあることは、誰の目にも明らかだった。


 だが、それを簡単に聞ける雰囲気ではなかった。


 しばらく沈黙が続く。


 その中で――。


 雪夜が、ゆっくりと頭を下げた。


「……みなさん」


 声が震えていた。


「迷惑をかけて……すいませんでした」


 その姿を見た高柳龍二郎が、すぐに言った。


「謝るなよ、雪夜」


 雪夜は顔を上げない。


「お前が悪いわけじゃない」


「……でも」


 雪夜は、拳を握りしめる。


「あの時、龍二郎が間に入ってくれていなかったら……どうなっていたか分からなくて……」


 その言葉に、周囲の空気がさらに重くなった。


 雪夜自身も分かっていた。


 あの瞬間、自分は冷静ではなかった。


 怒り。


 悔しさ。


 悲しさ。


 過去の感情が、一気に噴き出しそうになっていた。


 その時、キャプテンの進藤竜也が静かに口を開いた。


「雪夜」


「……はい」


「顔を上げてくれ」


 雪夜はゆっくりと顔を上げる。


「……キャプテン」


 進藤は、責めるような顔はしていなかった。


 ただ、真剣な目で雪夜を見ていた。


「正直、何があったのかは分からない」


 進藤は一度言葉を切る。


「だが、争い事はしないでほしい」


「……はい」


 雪夜は唇を噛んだ。


「すいませんでした……」


 進藤は少しだけ目を細める。


「さっき、お前があの子を殴りそうに見えた」


 雪夜の肩がわずかに震えた。


「どうなんだ?」


 少しの沈黙。


 そして――。


「……もしかしたら」


 雪夜は苦しそうに答えた。


「そうかもしれません」


 進藤は、怒らなかった。


 ただ、静かに頷いた。


「だったら……よくこらえてくれた」


「……キャプテン」


 雪夜は目を見開いた。


 責められると思っていた。


 怒られると思っていた。


 だが、進藤は違った。


「理由が言えないなら、言わなくていい」


 進藤は優しく言う。


「でも、話したいなら聞くから」


 そして、少しだけ笑った。


「僕たちは……仲間だからね」


 その言葉に、雪夜の表情が崩れた。


「……キャプテン」


 声が震える。


「みなさん……本当に、すいませんでした」


 次の瞬間、雪夜の目から涙がこぼれた。


 我慢していたものが、限界を迎えたようだった。


 その涙を見て、伯方歩夢が慌てて近づく。


「雪夜さん、泣かないでください」


 歩夢の声も少し震えていた。


「雪夜さんの悲しい顔を見ると……私も悲しくなります」


 雪夜は涙を拭いながら、歩夢を見る。


「……歩夢」


 そして、弱々しく笑った。


「ごめんね」


 その横で、龍二郎が静かに言う。


「雪夜」


「……うん」


「お前は一人じゃない」


 龍二郎は真っ直ぐ雪夜を見ていた。


「それだけは言っておくぞ」


 雪夜は周囲を見渡した。


 高柳龍二郎。


 進藤竜也。


 伯方歩夢。


 そして、東鶴間高校野球部の仲間たち。


 誰も雪夜を責めていなかった。


 誰も雪夜を突き放していなかった。


 ここにいる全員が、雪夜のことを仲間だと思ってくれていた。


「……みなさん」


 雪夜はもう一度、深く頭を下げた。


「ありがとう……ございます」


 この時、雪夜は再認識していた。


 自分には、頼りになる仲間がいるのだと。


 なお、その日の練習は早めに切り上げることになった。


 雪夜だけではない。


 野球部全体が、練習に集中できる精神状態ではなかった。


 九条咲はしばらく選手たちの様子を見ていたが、やがて静かに言った。


「今日はここまでにしよう」


 誰も反対しなかった。


 準々決勝を前にして、東鶴間高校野球部には新たな不安が生まれていた。


 それでも――。


 高橋雪夜は一人ではなかった。

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