第185話 雪夜と礼里
桐原礼里が、高橋雪夜の前に立った。
その瞬間、雪夜の胸は大きく跳ねた。
動悸が止まらない。
視線を合わせようとしても、どうしても合わせられなかった。
礼里は、そんな雪夜を見て、少しだけ口元を歪めた。
「……久しぶりだな、雪夜」
「……そうだな」
雪夜は、短く答えるのが精一杯だった。
礼里は肩をすくめる。
「つれないねぇ。久しぶりに幼馴染が来たっていうのに、そんな態度なんてさぁ」
「……なんの用だよ」
「なんの用って、偵察だよ。次の対戦相手を見るのは当たり前だろう」
礼里は軽い口調で言う。
「それに、久しぶりに幼馴染の顔を見に来たってところだよ」
「……そうか」
雪夜は、それ以上何も言わなかった。
だが、礼里は引かなかった。
「雪夜」
少しだけ声色が変わる。
「その態度は何? 視線も合わせないようにしてさぁ……まだ、あの時のことを恨んでいるの?」
雪夜の拳が、わずかに震えた。
「……勝ち逃げしたくせに、偉そうに来るなよ」
その言葉に、礼里は目を細めた。
「勝ち逃げ、ねぇ」
そして、わざとらしく笑う。
「私に勝てなかったことを、未だに根に持ってるなんて……小せえ男だなぁ」
その瞬間。
雪夜の拳が、はっきりと震えた。
だが、雪夜が何かを言うより先に――。
「おい」
低い声が割って入った。
高柳龍二郎だった。
「あんた、少し言い過ぎじゃないか」
礼里は龍二郎を見る。
「部外者は黙ってなよ」
「引けないな」
龍二郎は一歩も退かなかった。
「雪夜は俺の親友だ。仲間を侮辱されて、黙っているわけにはいかない」
礼里は、面白そうに笑った。
「へぇ……雪夜にも親友がいたんだ」
その言葉に、雪夜の表情がわずかに強張る。
「中学の時、あんな仕打ちを食らったのに……親友ねぇ」
龍二郎の目が鋭くなった。
「おい……雪夜を侮辱するな」
「侮辱?」
礼里は首を傾げる。
「いや、事実を言っただけだよ」
その場の空気が一気に張り詰めた。
気づけば、東鶴間高校野球部の面々が周囲に集まっていた。
高柳冬美が、慌てたように声を上げる。
「駄目だよ、兄さん……こんな時に、争い事なんて……」
龍二郎は視線を礼里から外さずに言う。
「俺は……手は出してないぞ」
すると、今度は桐原礼二が間に入った。
「礼里。そのへんにしておけ」
礼里は少しだけ不満そうに兄を見た。
「……分かったよ、兄さん」
それ以上は何も言わず、桐原兄妹は帰ろうとする。
だが、去り際――。
礼里は振り返った。
「次の試合……うちが勝たせてもらう」
そう言い残し、礼里は礼二と共に東鶴間高校を後にした。
しばらく、誰も口を開かなかった。
重い沈黙。
その中で、小山唯が不安そうに雪夜へ近づいた。
「……雪夜。何があったの?」
雪夜は少しだけ間を置き、首を横に振った。
「……いや、何もなかったよ」
新井元気が困ったように笑う。
「雪夜と礼里ちゃんって……昔から仲が悪かったもんなぁ」
「そうだな……」
雪夜は、ただそう答えた。
その声には、疲れが滲んでいた。
龍二郎が静かに聞く。
「雪夜……大丈夫か?」
雪夜は、無理に笑った。
「大丈夫だよ……庇ってくれてありがとう、龍二郎」
龍二郎は当然のように言った。
「当然だろ。親友なんだから」
その言葉に、雪夜は一瞬だけ目を伏せた。
嬉しかった。
だが、それでも胸の奥に残った痛みは消えなかった。
礼里との再会。
あの頃の記憶。
そして、次の相手が城南ヶ丘学園高校であるという現実。
東鶴間高校野球部の空気は、少しだけ暗いものになっていた。




