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第159話 雪夜と咲

 県大会が近づく中――東鶴間高校野球部は、今日も練習に励んでいた。


 夕暮れ。


 練習を終えた部員たちは、それぞれ帰路につく。


 そんな中、高橋雪夜だけは部室に残っていた。


 机の上にはノートが広げられ、そこには細かく個別メニューが書き込まれている。


 誰にどんな練習が必要か。


 守備。


 打撃。


 走塁。


 それぞれの弱点と長所。


 雪夜は静かにペンを走らせていた。


 その時――部室の扉が開いた。


「雪夜、まだ残っていたのか」


 入ってきたのは、監督の九条咲だった。


 雪夜は顔を上げ、少し笑う。


「はい……県大会も近づいてきたので、個別メニューを考えていました」


「そうか……」


 咲は雪夜のノートを見る。


 細かく整理された内容に、小さく息をついた。


「お前に負担をかけてすまないな。本当は私が考えないといけないのに……」


「いいんですよ」


 雪夜は、すぐに首を横に振った。


「監督の手伝いが出来るなら、喜んでやります。それに……今日は、あまり早く帰りたくなかったので……」


 その言葉に、咲は少しだけ表情を変えた。


「……なにか、あったのか?」


 雪夜は少し黙ったあと、小さく笑った。


「……新井元気と、小山唯が……いちゃついているのを、あまり見たくなかったんです」


「ああ……」


 咲は思い出したように頷く。


「あの二人、付き合っていたんだっけな」


「そうです」


 雪夜は静かに答えた。


「まあ……あの二人をどうこう言うつもりはありません。愚痴は、僕らしくないですから……」


「……愚痴なら、聞くだけはできるが……」


 咲は少し遠慮がちに言った。


 だが雪夜は、やわらかく笑う。


「やめておきます。人の悪口を言うのは、好きではないから……」


「そうか……」


 咲は少しだけ寂しそうに笑った。


「つらいことがあったら、なんでも言ってくれ」


「ははっ……ありがとうございます」


 静かな空気が流れる。


 部室の窓から差し込む夕陽が、二人を赤く染めていた。


 そして――。


 咲は少し迷ったあと、口を開いた。


「……なあ、雪夜……」


「はい、なんでしょうか」


 雪夜が顔を上げる。


 咲は、一瞬だけ視線を逸らした。


「……小山唯のことが……好きなのか?」


 言った瞬間、咲は後悔した。


(これ……監督として聞く話ではなかったか……)


 だが、雪夜は怒ることなく、小さく笑った。


「……昔のことですよ」


「そうか……」


 咲は胸の奥が少し軽くなるのを感じながら、言った。


「すまないな、変なことを聞いて……」


「いいんですよ」


 雪夜は穏やかに答える。


「恋愛より、野球をしているほうが、楽しいですから」


「……私は」


 咲は、思わず口を開いていた。


「私は、雪夜と一緒にいる時が、一番楽しいけどな」


 ――言ってしまった。


 その瞬間、咲の心臓が大きく跳ねた。


(な、何を言っているんだ私は……!)


 これではまるで、雪夜を特別に思っているようではないか。


 咲は慌てそうになる。


 だが――。


 雪夜は、少し驚いたあと、優しく笑った。


「僕も、監督といると……楽しいですよ」


 その言葉に、咲は何も言えなくなった。


 胸の奥が、妙に熱い。


 それから――。


 咲は雪夜を車で家まで送っていた。


 車内には、静かな空気が流れている。


 だが、不思議と居心地は悪くなかった。


「監督、ありがとうございます。こうして送ってくれて」


「気にするな」


 咲は前を向いたまま答える。


「私は雪夜と話せて、楽しいから」


 雪夜は少し笑った。


「そうですね……僕も、監督と話をしているのは、楽しいと思っています」


 その言葉に、咲は内心、喜んでいた。


 やがて車は、雪夜の家に着く。


 雪夜は車を降りる前、小さく頭を下げた。


「監督、また明日……」


「ああ……また明日」


 雪夜が家へ向かって歩いていく。


 その背中を見送りながら、咲は車を発進させた。


 夜道を走りながら、咲は考えていた。


(私といると、楽しいか……)


 その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


(私は、雪夜といられるだけで……それだけでいいはずなのに……)


 それなのに。


 胸の奥が、こんなにも苦しい。


(……なんだろう、この気持ちは……)


 この時――。


 雪夜と咲は、お互いのことを想っていた。


 だが二人とも、まだ知らない。


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