『追憶file.柏木孝治⑺─俺が俺であるために─』
──その日の夜 午後七時。
柏木はまだ聞きたいことが山ほどあった。
それに何より、三年間探し続けてようやく掴んだ手掛かりを簡単に手放したくなかった。
そこで青年の傷が治るまで、自宅にいてもらえないかと交渉した。
青年にとっても身を隠せる場所が必要だったため、『警察には自分の存在を明かさないこと』を条件に了承したのだった。
しばらくして、柏木が夕食を作り終える。
「おーい、晩飯できたぞー!」
柏木の呼び掛けに、寝室から青年が出てきた。
そしてその姿を見た瞬間、柏木は「あっ」と声を上げた。
「そうだ!すげぇ大事なこと聞くの忘れてた!」
「お前、名前なんて言うんだ?」
青年は一瞬黙った。
そのまま椅子に腰を下ろし、少し嫌そうな顔をしながら答える。
「名前は……組織に入った時に捨てた」
「俺のコードネームは『アイズ』だ」
「同志たちにもそう呼ばれていた」
「嫌なら、好きに呼べ」
「ふーん……そうなのか」
柏木は頭を掻いた。
「まあ、その辺は色々あるんだろ。無理に聞く気はねぇよ」
そして笑う。
「俺のことは柏木って呼んでくれ」
「敬語もいらねぇ」
「……って、元々あんまり使ってなかったな」
柏木は苦笑した。
「ともかく、これからよろしくな」
「アイズ」
そう言って手を差し出す。
アイズはその手をしばらく見つめていた。
そして少しだけ視線を逸らす。
「……なんだよ」
「握手なんてしたことねぇのか?」
「うるさい」
少し不機嫌そうに言いながらも、アイズはゆっくり手を伸ばした。
その表情は、どこか照れくさそうだった。
そして二人の手が、静かに重なった。
──一月五日。
年末年始休暇の間、柏木とアイズは同じ屋根の下で生活を共にしていた。
最初は必要最低限の会話しかなかった二人だったが、一緒に食事をして、他愛のない話をして、時には口喧嘩もしながら、少しずつお互いのことを知っていった。
柏木には悲願があった。
最愛の妻・沙織の仇である【SENSE】を捕らえること。
そしてアイズにもまた、強い願いがあった。
《アイズ》の被験者として過酷な人生を強いられた元凶──【SENSE】を壊滅させること。
抱えている傷は違っていても、その痛みの重さはきっと同じだった。
同じ痛みを知る者どうし。
いつしか二人の間には、確かな信頼が芽生えていた。
年末年始休暇が終わり、柏木は久しぶりに出勤していた。
「さてと……休みボケしないうちに仕事モードに戻るか」
そう呟きながらデスクの整理をしていると、一通の手紙が目に留まった。
「……これは」
柏木はその手紙を手に取る。
見覚えがあった。
それは三年前、定年の日に山崎から渡された手紙だった。
『この先、柏木君が何かを成し遂げたいと思う日が必ず訪れる。その時に開けて読みなさい』
あの日の山崎の言葉が脳裏をよぎる。
柏木はしばらく手紙を見つめていた。
そして静かに息を吐く。
「……山崎さん」
柏木は意を決すると、ゆっくりと封を開けた──。
──午後八時。
予報では晴れだったはずなのに、外では雨が降っていた。
柏木が自宅へ戻ると、机の上に一枚のメモが置かれていた。
そこには、見慣れた字で短く書かれている。
『短い間だったけど世話になった。
奥さんのことは本当に残念だったが、【SENSE】のことは諦めて、お前は平穏に生きろ 柏木』
いかにもアイズらしい文章だった。
短く、不器用で、どこか相手を気遣っている。
柏木は最後まで読み終えると、紙を握る手に自然と力が入った。
「……なんでだよ」
低く押し殺した声が漏れる。
「なんで急に……」
次の瞬間だった。
柏木は勢いよく部屋を飛び出していた。
廊下へ靴音を響かせ、そのまま雨の夜へ飛び出していく。
──沙織の墓がある墓地付近。
ザァァァ──。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
冷たい雨が容赦なく体を打ち付ける。
それでも柏木は走り続けた。
(お前も俺と同じじゃなかったのかよ……!)
(【SENSE】のせいで、人生を奪われたんじゃねぇのかよ……!)
(壊滅させたいって言ってたのは嘘だったのかよ……!)
(やっと……)
(やっと見つけたと思ったのに……!)
三年間。
柏木は嫌というほど思い知らされてきた。
自分一人では何もできないことを。
沙織も守れなかった。
仇すら追えなかった。
そんな自分の前に現れた、たった一つの希望だった。
もし今ここで、その希望まで失ったら──
きっと自分は、もう二度と立ち上がれない。
理由なんて分からなかった。
だが気付けば、柏木の足は自然と沙織の墓へ向かっていた。
そして山門をくぐり、墓地へ足を踏み入れたその時だった。
雨の向こうに、一人の人影が見えた。
沙織の墓の前。
傘を差したアイズが、静かに立っていた。
「……アイズ!」
柏木は雨も構わず駆け寄る。
そして胸ぐらを掴み、叫んだ。
「おい!あのメモはいったいどういうことだ!」
「はぁ……はぁ……!」
「俺は……俺はお前と……!」
息が乱れる。
だが言葉は止まらない。
「アイズと一緒なら、必ず【SENSE】を捕まえられると思ってたのに……!」
「何でだよ……!」
ザァァァ──。
傘が手から離れ、地面を転がった。
アイズは何も言わない。
ただ静かに柏木の手を解くと、《アイズ》を発動させた。
赤く染まった瞳が、真っ直ぐ柏木を見つめる。
その表情は、今までにないほど真剣だった。
「……確かに、お前は優秀な警察官かもしれない」
雨音の中、アイズは静かに言った。
「だが、それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない」
赤く染まった瞳が柏木を見据える。
「俺を見てみろ」
「常人にはあり得ない異能を持った"化物"だ」
「こんな"化物"を作っている、頭のイカれた連中が相手なんだぞ」
アイズの声はどこまでも冷静だった。
「今のお前に……いったい何ができる?」
怒っているわけでもない。
見下しているわけでもない。
ただ、残酷な事実を並べているだけだった。
「奥さんの仇を討ちたい気持ちは分かる」
「だが連中は、人を人とも思わない。
命がいくつあっても足りねぇよ」
アイズは視線を落とした。
「連中の相手は、俺みたいな"化物"で丁度いい」
「だからお前は……奥さんの分まで平穏に生きろ」
柏木は何も言わなかった。
ただ俯いたまま、雨音だけが二人の間に落ちる。
やがて雨足が少し弱くなった。
そして──
「……違うんだ」
柏木が静かに口を開いた。
「もちろん仇を討ちたい気持ちもある」
「今の俺じゃ何もできないことも分かってる」
ゆっくり顔を上げる。
「それでも俺は、やらなきゃならねぇんだ」
柏木の目には迷いがなかった。
「俺が『柏木孝治』であるために」
「ここで諦めたら……それこそ俺は死んじまう」
胸の奥に閉じ込めていた想いが、少しずつ溢れ出していく。
「それに俺は沙織と約束したんだ」
「信じられないかもしれねぇけど、お前と初めて会った夜……俺は沙織の声を聞いた」
「沙織が……止まっていた俺の時間を動かしてくれた」
柏木は拳を握り締めた。
「だから俺は誓ったんだ」
「"『勇敢』に生き抜いてみせる"って」
「この約束だけは……絶対に破れねぇんだよ!」
一筋の雫が頬を伝う。
雨か涙か、自分でも分からなかった。
アイズは何も言わない。
ただ黙って、柏木を見つめ続けていた。
「……組織の闇に踏み込んだら、もう戻れない」
「本当に死ぬかもしれないんだぞ」
「そうかもしれねぇな」
柏木は笑った。
不思議と、吹っ切れたような顔だった。
「でも、この三年間……俺は死んでいたようなもんだ」
「それに比べたら大したことじゃねぇ」
そして真っ直ぐ見据える。
「だけど死ぬつもりもねぇ」
「必ず【SENSE】を捕まえてみせる」
赤い眼光にも、一切怯まなかった。
数秒後。
アイズの瞳が、ゆっくり黒へ戻っていく。
アイズは足元へ転がっていた傘を拾った。
軽く振ると、水滴が散る。
気付けば雨は止んでいた。
「……分かった」
アイズは小さく笑った。
「もう何も言わねぇよ」
そして手を差し出す。
柏木は嬉しそうにその手を握った。
「よろしく頼むぜ、アイズ」
柏木は笑う。
「いや──"相棒"」
柏木は肩の力が抜けたように息を吐いた。
まるで胸に重くのしかかっていたものが、ようやく消えたようだった。
そしてふと、疑問が浮かぶ。
「そういえば……何でお前、ここに来たんだ?」
アイズは小さく笑うと、沙織の墓へ向き直って静かに手を合わせる。
「お前の奥さんに挨拶してたんだよ」
そして、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「あと──"許可"を貰いにな」
「あんたの旦那を、しばらく借りることになるってな」
「……お前」
柏木は眉をひそめた。
「まさか俺を試してたのか?」
アイズは軽く背伸びをした。
「ははっ、半分な」
「柏木を巻き込みたくない気持ちも本当だった」
「覚悟も知りたかった」
そして柏木を真っ直ぐ見た。
「でも、お前の覚悟は十分伝わったよ」
アイズは笑った。
「それに俺には『先見の明』があるんだ」
「だから俺が選んだお前なら、きっと大丈夫だ」
その言葉を聞いた瞬間だった。
柏木の脳裏に、ある日の記憶が鮮明に蘇る。
『──私は『先見の明』をもって、あなたを選んだ』
同じだった。
沙織が言った言葉と。
柏木は笑っていた。
だけど──頬を伝う涙だけは止まらなかった。
「お、おい、急にどうしたんだ?」
アイズが戸惑ったように顔を覗き込む。
「……すまん」
柏木は涙を拭いながら笑った。
「何でもねぇよ。少し……昔を思い出しただけだ」
夜空の雲は、いつの間にか晴れていた。
──傷を抱えた二人は、本音をぶつけ合った。
未知なる敵へ立ち向かうため。
互いの痛みを知った二人は、本当の意味で"相棒"となった──




