『追憶file.柏木孝治⑸─柏木の決意─』
──沙織の殉職から二年後 三月末。
山崎は定年退職の日を迎えていた。
沙織の葬儀後、謹慎から復帰した柏木は、以前とは別人のようになっていた。
仕事は変わらず完璧にこなしていた。
だが、それだけだった。
以前のように同僚と笑い合うこともなければ、自分から会話をすることもない。
必要最低限の言葉だけを口にして、毎日をただ機械のように繰り返していた。
まるで時間だけが動き続け、柏木だけが二年前に取り残されたままのようだった。
最終出勤日。
山崎は柏木の元を訪れた。
「久しぶりだね、柏木君。
顔色が悪いが、体調は大丈夫かい?」
柏木の目の下には濃いクマが浮かび、頬も少し痩せこけていた。
「あ……山崎さん。お久しぶりです……」
柏木は顔を上げた。
「今日はどうされたんですか……?」
その声には、かつての覇気はまるでなかった。
「いや、特別用事があるわけじゃないんだ」
山崎は苦笑する。
「私も今日で定年することになってね。
最後に関係者へ挨拶をして回っているんだよ」
「……もう定年ですか」
柏木はぼんやりと呟いた。
「早いものですね……」
少しの沈黙。
「沙織がいなくなって……もう二年か……」
柏木の視線は窓の外へ向いていた。
「山崎さん……俺はいったい、何をしているんでしょうね……」
その目には何も映っていなかった。
山崎は静かに柏木を見つめる。
そして懐から、一通の手紙を取り出した。
「柏木君」
柏木へ手渡す。
「今はまだ開けなくていい」
「この先……君が何かを成し遂げたいと思う日が、必ず訪れる」
「その時に開けて読みなさい」
「きっと君の助けになってくれる」
柏木は手紙を受け取ると、ゆっくり顔を上げた。
山崎は昔と変わらない笑顔を浮かべる。
そして柏木の肩を軽く二度叩いた。
「じゃあね、柏木君」
そう言い残し、山崎は歩き出した。
柏木は何も言えなかった。
ただ去っていくその背中を、黙って見つめ続けていた。
──沙織の殉職から三年後。
十二月二十四日。
沙織の命日を迎えた柏木は、仕事を定時で切り上げ、墓参りに来ていた。
山門をくぐり、墓前に線香を供える。
そして静かに手を合わせた。
─────
どれくらい時間が経っただろうか。
十五分ほど経った頃、柏木はふいに人の気配を感じた。
視線だ。
辺りを見渡す。
だが、誰もいない。
「……気のせいか?」
そう呟いた、その時だった。
何かに引き寄せられるように、柏木は本堂へ足を向けていた。
ゆっくりと扉を開く。
中は薄暗く、数本の蝋燭の灯りだけが揺れていた。
奥まで進んだ柏木の視界に、ペットボトルや空き袋が映る。
「誰かいるのか……?」
ゴミを拾い上げた瞬間だった。
ブォッ!
「なっ!?」
突然、横から拳が飛んできた。
咄嗟に腕で受けたものの、不意を突かれた柏木は体勢を崩し、そのまま床へ倒れ込む。
すぐに立ち上がり、相手を睨んだ。
そこにいたのは二十歳前後の青年だった。
全身傷だらけで、息も荒い。
「はぁ……はぁ……しつこい奴らだ……」
「いい加減、俺たちのことは諦めろ」
「これ以上やるなら……今度は容赦しねぇ」
柏木は眉をひそめた。
「いや、待て」
「俺はただ墓参りに来ただけだ。
お前のことなんか知らねぇよ」
両手を上げ、敵意がないことを示す。
だが青年は警戒を解かなかった。
「……嘘は言ってねぇみたいだな」
「だが、お前は何者だ?」
「俺の視線に気付いてここへ来ただろ?」
「違うか?」
「偶然だよ」
柏木は懐から警察手帳を取り出した。
「俺はただのしがない警察官──」
言葉が止まる。
青年の瞳。
それが、血のように赤く染まっていた。
「……お前、その"眼"……」
柏木の表情が変わる。
「まさか……【SENSE】か?」
「!!」
今度は青年が目を見開いた。
「やっぱり組織の関係者か!」
怒声と共に再び襲い掛かる。
柏木も応戦した。
しかし──
(速い……!)
拳が当たらない。
自分の動きが読まれているようだった。
「ぐっ……!」
(なんだこれは……)
(まるで全部見透かされてるみたいじゃねぇか……!)
その時だった。
「ちっ……!」
青年が突然頭を押さえる。
赤かった片目が黒へ戻り、鼻血が流れていた。
柏木は見逃さなかった。
懐へ飛び込み、拳を顎へ叩き込む。
「がっ……!」
青年はそのまま崩れ落ち、動かなくなった。
「はぁ……はぁ……」
柏木は殴られた頬を押さえた。
「痛ってぇ……」
そして倒れた青年を見る。
「お前が善人だろうが悪人だろうが関係ねぇ……」
「三年間……どれだけ探しても【SENSE】の情報は出てこなかった」
「ずっと探してた……」
死んでいた瞳に、少しずつ光が戻っていく。
「やっと見つけた……」
「【SENSE】に繋がるかもしれねぇ手がかりを……」
柏木は本堂の入口に腰を下ろした。
三年ぶりに煙草を取り出し、火をつける。
一口吸った瞬間。
「ゴホッ……ゴホッ!」
盛大にむせた。
「ああ、ちくしょう……!」
涙が零れる。
「煙が目に染みるぜ……」
そして柏木は笑った。
本当に、久しぶりだった。
最後に笑った日が思い出せないくらいに。
「ごめんな、沙織……」
柏木は夜空を見上げた。
「ずいぶん……みっともない姿を見せちまった」
「三年も待たせたけど……やっと決心がついたよ」
ふと後ろを振り返る。
そこには気を失ったまま倒れている青年の姿があった。
柏木は少しだけ笑った。
「たぶん、お前がくれたクリスマスプレゼントのおかげかな……」
再び空を見上げる。
「だから安心して天国から見ててくれ、沙織」
「俺は必ず【SENSE】を捕まえて、壊滅させる」
力強く言い切ったあと、柏木は少しだけ困ったように笑った。
「……だからさ、俺がそっちに行った時は、めいっぱい褒めてくれよな」
「お前がいないこの世界でも……俺は精一杯、生きるから」
少しだけ声が震える。
「だから……たまには沙織に甘えたって……いいだろ?」
夜空を見上げる柏木の頬を、一筋の涙が静かに流れ落ちた。
その時だった。
柏木の周囲を、ふわりと優しい風が包み込む。
まるで誰かが、そっと頭を撫でてくれたような温かい風だった。
(ええ、ちゃんと見てるから)
(こっちで再会した時は、いっぱい甘やかして、いっぱい褒めてあげるわ)
(だから──あなたは、しっかり生きなさい)
柏木は静かに目を閉じた。
不思議と、もう涙は出なかった。
そして小さく笑う。
「ああ……約束だ。──────みせるよ」
──最愛の人を亡くした柏木は、止まったままだった時間を、ようやく動かし始めた。
夢か現か。
久しぶりに聞いた沙織の声は、変わらず勇ましく、そして、とても優しかった──




