【第9話】シネマート
上田での二日間に渡った映画祭が終わって、東京に戻ってきても、私たちの仕事はひっきりなしに続いていた。
最初の頃はメールを送ることに終始していた私も、西宝で何本もの映画の宣伝プロデューサーを担当してヒットに導いてきた出水さんが設立した会社であることが大きかったのか、いくつかの制作会社では次の段階である、直接訪問を行えるようになっていた。
とはいっても、まだ何の実績もない私たちがすぐに制作中の作品や進行中の企画を教えてもらえるほど、現実は甘くはない。まずは顔を知ってもらって、関係性を構築するところからのスタートだ。
それでも、今までオフィスにこもっている時間が長かった私にとっては、制作会社の人と話しているだけでも一歩前進した感覚がある。私たちの会社に興味を持ってくれる人も何人かいて、たとえ地味な道のりだったとしても、そこを一歩一歩歩めている感覚が私はあった。
ゴールデンウィークには、私は東京で開催されていた二つの小さな映画祭を訪れていた。それぞれインディーズ映画とドキュメンタリー映画が中心となっていて、私は連日何本もの作品を見て、いくつかの作品の監督やプロデューサーとも顔を合わせた。配給会社の人間から声をかけられたということは、相手が期待することは一つだ。
でも、私は「この作品を配給するかどうか、検討させてください」と言いながらも、そこにさほど強い熱量がこもっていないことを感じてしまう。買い付けたい映画の候補を増やしておくのに越したことはない。それでもどの作品を見ても、誰と話していても、上田で観た『いつの日か青かったねと思い出す』と天秤にかけている自分がいることは、私には否定できなかった。
ゴールデンウィークが終わると、カレンダーはあっという間に五月の半ばに入る。今月末に予定されている買い付け会議に向けては、そろそろ提案したい映画を決めて、プレゼン資料等の作成に取りかからなければならないだろう。
それでも、私はまだどの作品を提案するかを決めかねていた。候補はいくつかに絞れているものの、最後の決断がどうしてもできない。
自分の提案次第で、その作品の運命が変わってしまう。映画を買い付けるプレッシャーを、私は初めて感じていた。
私が決めかねているうちに、あっという間に五月は後半に突入した。
その日、休みだった私は気分転換にと映画館に出かける。地下鉄からJRに乗り継いで、到着したのは新宿駅だ。いくつものシネコンやミニシアターが立ち並ぶ新宿の街で、今日の私の目的地はシネマート新宿だ。この映画館は韓国映画をはじめとしたアジア映画を中心に上映していて、その中には他ではなかなか上映されていないような映画もある。
今日私が観るのも、まさにそういった映画だ。SNSで相互フォローをしている人が、「この映画面白そう!」と予告編を投稿していて、それを見た私も同じように感じていたのだ。観ている人はSNSでも少なかったけれど、でも評判は軒並み高くて、私の期待は日に日に高まっている。
エレベーターを六階で降りると、少し手狭なロビーが私を迎える。座れる椅子は少ないが、それでも入場開始時間に合わせて来たから、問題はない。
事前にインターネットで購入していた座席を、鑑賞券に発券する。そして、上映中の映画のポスターや今まで上映された映画のステッカーが賑やかな廊下を通って、私は劇場内に入った。真ん中に近い席に座る。
公開初週の平日の昼間という時間帯もあって、観客の姿はまばらで二〇人ほどしか入っていない。だけれど、全国でも数館ほどでしか上映されていない韓国映画だから、この入り具合を私は妥当だと思う。
今ここにいるのは本当に映画が好きな人たちばかりだろう。劇場内には映画に期待する空気が充満していて、私もドキドキしてくるようだった。
映画が終わって場内が明るくなったとき、客席には映画を観終わった後特有の心地よさが漂っていた。緊張から解放されたかのように空気が緩んでいるのは、今上映されたのがサスペンス映画だったからだろう。
SNSでの世論操作を題材としたその映画は、二転三転する展開に緊迫感があり、どんどんと大きくなっていくスケールが手に汗を握った。私もいくつかのSNSでアカウントを持っている以上、まったくの他人事ではなくて、身につまされる感覚がある。
それでも、エスカレートしていく展開や俳優の迫真の演技に、私は確かに面白いと感じた。特にクライマックスの盛り上がりは顕著で、観た人からの評判が良いのも存分に頷ける。他にいくつも公開されている映画から、この映画を選んで観に行った自分を褒めたくなるくらいだ。
だから、私は満足した気持ちのまま劇場を出ることができた。ロビーの空いている椅子に座り、一息ついてからSNSに感想を認める。映画の余韻が尾を引いて、その感想は十数行にもわたった。
映画のハッシュタグをつけて投稿して、私は立ち上がってエレベーターに向かおうとする。
そのときだった。ロビーに面しているスタッフルームのドアが開いたのは。思わず目を向けた私は、出てきた人物に驚いてしまう。
そこには紺のスーツに身を包んだ、立石さんが立っていた。
「で、どうだったの? 真鍋さん、今観た映画は。面白かった?」
シネマート新宿でばったり会った私たちは、近くにあったコーヒーチェーンにやってきていた。私はまだ昼食を食べていなかったし、出水さんも一時間ほどなら余裕があるという。
私たちのテーブルの上には、二人分のコーヒーとパンケーキが置かれている。メープルシロップとクリームがかかったそれは、食べると何種類もの甘さがこれでもかと口いっぱいに広がり、上品な苦みのあるコーヒーとよく合った。
「はい。面白かったです。サスペンス映画なんですけど、SNSでの世論操作っていう日本でもありそうなテーマを描いていて。どんどんとエスカレートしていく展開には、思わず息を呑みました」
「そっか。よかったね。いや、その映画は私も気になってたんだけど、なかなか観に行く時間がなくて。でも、今の真鍋さんの話を聞いたら、余計観に行きたくなったよ」
「はい。評判もなかなかいいので、ぜひ」
「うん。頑張って時間作ってみるよ」と頷いた立石さんの表情から、本当にその映画に関心を持っていることが、私には窺えた。
いずれ立石さんも観てくれたら、私たちはその映画について存分に語り合うことができるかもしれない。その日が私には待ち遠しく思えた。
「ところで、立石さん。スーツ姿ってことは、シネマートに営業に来たんですよね? どうでしたか? 何か手応えとかはありましたか?」
「うん。まあ今日は名刺を渡して、少し話して顔を覚えてもらうことがメインだったんだけど、それでも支配人さんの反応は悪くなかったよ。『頑張ってくださいね』って、声かけられちゃった。まあ、私たちがまだ事業を始めたばかりで、下駄を履かせてもらってた部分はあるかもしれないんだけど、それでも軽くあしらわれることはなくて、今はホッとしてる」
安堵したように表情を緩めている立石さんを見て、私も「それは良かったですね」と頷きながら、同じようにホッとした思いを感じていた。相手も大人だから、そんな冷たくあしらうようなことは滅多にしないだろうけれど、それでも自分に対してどんな印象を抱いているのかは、言葉の節々から覗く雰囲気や声色、些細な表情の変化から分かることだろう。
それでも、立石さんの口調からは支配人の方との顔合わせは本当にうまくいったようで、私もこれからの展開に期待が持てるようだった。
「ねぇ、そういえばもうすぐだよね。買い付けしたい作品を決める会議」
それからも私たちは、コーヒーを片手にパンケーキを食べながら少しなんてことのない話をしていたけれど、立石さんがその話題を出したとき、それがいくら自然なものでも、私の動きは少し止まってしまう。
今の時点ではそれが私と立石さんの間の最大のトピックだと分かっていたし、その話題が出ることも私は当然予想していたけれど、私は「そうですね」としか返事ができない。その話題に対する準備を、私は驚くほどにできていなかった。
「真鍋さんはさ、どういう映画を提案したいかって、もう決まってたりするの?」
立石さんからすれば、それはなんてことのない疑問だったのだろうけれど、それでも私は言葉が胸に刺さる感覚がして、一瞬返事に詰まってしまう。ここで「はい、決まってます」と答えても虚勢だと見抜かれそうなことは、わずかに生まれた間によって、決定づけられたようにも思える。
だから、私は正直に答えるしかなかった。
「……い、いえ、まだ決まってないです」
「そうなの? もう会議、来週の月曜だよ? そろそろ決めないとヤバくない?」
「そ、そうですよね……。いや、何作品かに絞れてはいるんですけど……」
立石さんの心配している目が、私には痛ましく感じられてしまう。少しでも逃げ道のようなものを作りたくて、私は半ば無意識のうちに口を開いていた。
「あ、あの、立石さんはもう提案する映画って、決まってるんですか?」
(続く)




