【第63話】誰一人欠けてても
そう言った出水さんに、私はやはりかと思う。腹は空いているが、少しなら持ってくれるだろう。
「はい」と頷いた私は、これ以上の残業代が発生しないようにタイムカードを押してから自分の席に戻り、出水さんから缶コーヒーをもらった。出水さんが口をつけていたのを見て、私も一口口にする。
微糖の程よい甘味は、飲みやすい温度にまで下がっていたこともあって、舌を通って私の心身を癒やした。
「なんかこうしてるとさ、西宝にいたときのことを思い出すよね」
わざわざそう言ったのは出水さんの方からで、私と同じような思いを抱いていることが察せられた。場所は違えど、今と同じようなシチュエーションは、私にも身に覚えがある。
「そうですね。去年の年末だから、ちょうど一年くらい前のことですね。出水さんが私に『会社を作るから、一緒に来ない?』って誘ってくれたのは」
「そうだったね。そのときのことは、今でも昨日のことのように思い出すよ。だって、この一年あっという間だったもんね」
「はい。特にepoch makingができてからは、本当に時間が瞬く間に流れていきました。もちろん色んなことはあったんですけど、それでも気づいたら今になってるってことは、それだけ充実してたんだなと思います」
「そうだね。私も正直なところ、ここまで会社を続けるだけで精いっぱいだったんだけど、今振り返ってみると、どの時間も楽しかったって思えるよ。みんな私が期待してた以上の働きをしてくれてるし、それは理歩ちゃんだってそう。理歩ちゃんがいなかったら、この会社は成り立ってないとすら思うよ」
「ありがとうございます。でもそれは四谷さんや立石さん、木蓮さんにも言えることじゃないですか。今の五人で誰一人欠けてても、私たちはここまで来れてないですよ」
「うん。もちろん、それはそうなんだけど、私は理歩ちゃんには特別に感謝してるから。だって『いつの日か青かったねと思い出す』を買い付けたい、配給したいって提案したのは、理歩ちゃんでしょ? で、その『いつの日か青かったねと思い出す』は多くのお客さんに受け入れられて、こうやって明日からは、全国のSEIHOシネマズでも拡大公開されようとしてる。もしも私たちが買い付けて配給してたのが『いつの日か青かったねと思い出す』じゃなかったら、ここまでのことにはなってないって私は思ってるから」
「出水さんにそう言っていただけるのはありがたいんですけど、でもそれはやはり『いつの日か青かったねと思い出す』という作品そのものが良かったおかげですよ。私はただ観て、いいなと思って提案しただけですから」
「ううん。それ自体が凄いことなんだよ。だってどんな作品に出会うかは、それこそ運が絡む要素も大きいんだから。それに理歩ちゃんには『いつの日か青かったねと思い出す』をいいなと思うだけのセンスや、先見の明があった。やっぱり私が見込んだ通りだよ。あのとき理歩ちゃんに声をかけて、本当に良かったよ」
「いえいえ、それも大げさですって。きっと『いつの日か青かったねと思い出す』を観たならば、出水さんも買い付けたいって思ったでしょうし。それに、あの上田での映画祭に連れていってくれたのも、出水さんじゃないですか」
「いいや、大げさじゃない。だって、『いつの日か青かったねと思い出す』に出会ったのは、他でもない理歩ちゃんなんだから。それに買い付けるときも、理歩ちゃんは國武さんに何度も声をかけてくれたみたいだし、それに公開が決まってからも、SNSで色んな投稿をしてくれたでしょ。『いつの日か青かったねと思い出す』に言及してくれた投稿にいいね! をつけるのも積極的にやってくれて。こうやって『いつの日か青かったねと思い出す』がさらに規模を拡大して公開できるようになったのも、理歩ちゃんの力は決して小さくなかったと私は思うな」
「ありがとうございます。でも、それは色々偶然的な要素もありましたし、全部が全部私の手柄ってわけじゃないですよ」
「いや、私はそれも必然だったと思ってるから。理歩ちゃんをはじめとして、私たち全員が『いつの日か青かったねと思い出す』を届けたいと全力で仕事に取り組んだ結果、引き寄せられたものだと思ってるから。だから、私も理歩ちゃんも含めて、epoch makingの全員を誇りに思うよ。本当にこの五人で働けて良かったって、思ってる」
「出水さん……」
「それでどう? 理歩ちゃん。いよいよ明日から『いつの日か青かったねと思い出す』は全国のSEIHOシネマズでも拡大公開されるわけだけど、今の気分は」
「それはもちろんドキドキしてますよ。これで今まで届かなかった人にも、『いつの日か青かったねと思い出す』は届くんですから。どんな風に受け止められるんだろうと思うと、今から緊張してくるようです」
「そうだね。私もドキドキしてる。でも、都内のいくつかのSEIHOシネマズの様子を見たら、明日の回は前売りだけでも結構な席数が埋まってきてるみたいだし、きっと今までよりもさらに多くの人が観てくれるよ」
「そうですね。私もSNSやエゴサーチをしていて、そんな気配は感じてます。もちろんどんな評価を下されるかは気になって仕方ないんですが、それでもこれまでの評価を見る限り、そんな悪い評価にはならないんじゃないかって思ってます」
「うん。私も『いつの日か青かったねと思い出す』には、自信を持ってるから。きっと良い評価をしてもらえるはずだよ。それにさ、理歩ちゃん。ここまで来たら、週末の興収ランキングの一位を獲りたいよね」
「はい。私も何としてでも獲るつもりでいます。もちろん、これは私たちだけの力でどうにかできる話ではないんですけど、それでも一位を獲れるように引き続き明日からも、私にできることは全部やりたいと思ってます」
「うん。その意気だよ。でも、あまり無理しないでね。疲れたり辛いと思ったら、すぐに私たちに言ってくれていいんだからね。私たちだってエゴサーチぐらいはするし、理歩ちゃんが頑張ってるのは、私たち全員が分かってるから」
「ありがとうございます。無理のない範囲で頑張りたいと思います」
そう私が口にすると、出水さんは何がおかしかったのか、よりいっそう表情を緩めてみせた。どこか出水さんのツボに入ったかは分からないけれど、私も釣られるようにして小さく笑う。
缶コーヒー片手に、とりとめのない話をする私たち。オフィスは柔らかな雰囲気に包まれていて、私は空腹さえも忘れてまだ、帰りたくないなとさえ感じていた。
そうして迎えた、拡大公開の日。私は気持ちが逸るあまり、残業で疲れているはずなのにそれほど深くは眠れずに、朝の六時には目を覚ましてしまっていた。
さほど寝られなかったはずなのに、頭はなぜか冴えていて、二度寝もできそうになかった私はスマートフォンを手に取って、『いつの日か青かったねと思い出す』のエゴサーチをする。最後にチェックしたのは、昨日の日付が変わる頃だというのに、それでも『いつの日か青かったねと思い出す』に関連した投稿は、何件も出てきた。「気になる」「土日に観にいく」といった投稿に私はいいね! をつけていく。
もちろん、私は毎朝欠かさずエゴサーチをしているけれど、検索結果として表示された投稿の数は、朝六時の段階でも今までにないほど多くて、日中はどのようになるのかといった予兆も私に感じさせていた。
そして、それからもエックスを見たり朝食を作って食べたりしていると、時刻は朝の八時を迎えた。となると、私がすることはSNSの確認しかありえない。
エックスやインスタグラムを開くと、朝の八時に予約投稿していたSEIHOシネマズでの拡大公開が今日から始まるという投稿はどちらにもしっかりとなされていて、私はひとまず胸をなでおろす。
エックスには國武さんや浦田さん、佐伯さんが集まった短いコメント動画。インスタグラムには何枚もの映画のスナップ。それらには投稿した直後から、すぐにリポストやいいね! といった反応がつけられていた。
それは通知欄を読み込む度に増えていき、『いつの日か青かったねと思い出す』が情報解禁した頃と比べると、あっという間に一〇〇を超えるいいね! に私は隔世の感すら抱いてしまう。新宿武蔵野館等で頻繁に満席になっていることもあって、注目度も高いのだろう。
私は今日以降への胸いっぱいの期待を持って、家を出ることができていた。
出社してメールの確認や返信等といったルーティン業務を済ませた私は、忙しそうに電話をかけたりパソコンに向かったりしている出水さんたちを横目に、三度エゴサーチを行う。そろそろいくつかの映画館では、今日最初の回の上映が始まる頃だ。
検索すると「これから観る」といった文言と一緒に、SEIHOシネマズのチケットや劇場の入り口前のポスターを撮影した写真もいくつも投稿されていて、早くも私はSEIHOシネマズで拡大公開した効果を思う。いいね! をつけながら「どうか楽しんでくれますように」と心の中で祈る。
もちろん『いつの日か青かったねと思い出す』の出来は信頼しているけれど、それでも平日の最初の回に来るような人たちにどう受け止められるかは、蓋を開けてみなければ分からなかった。
(続く)




