【第56話】迷い
「まあ、そんなすぐに答えを出せっていうのも難しいか。『いつの日か青かったねと思い出す』は理歩ちゃんが見つけてきて、買い付けも中心になって行った映画だもんね。その分だけ、私たちより思い入れもあるだろうし。安心して。私たちは理歩ちゃんの考えを無視してまで、無理やり決めたりはしないから。またちゃんと考えて、答えを返してくれればいいよ」
「あ、あの、私、明日休みなんですけど……」
「分かってる。だから、答えは水曜以降でいいよ。それに、元々これは私たちだけで決められる話でもないしね。プロデューサーの長谷川さんや國武監督にも、ちゃんと話を通しておかないと」
「分かりました。明日も使って、じっくり考えたいと思います」
「そうだね。でも、無理して空気読まなくていいからね。嫌なら嫌で、はっきりと言ってくれればいいから。そのときはまた話そう」
私の気持ちにも、出水さんはある程度の理解を示してくれている。それでも、私は嫌だとはなかなか言いづらいなと感じてしまう。
言うまでもなく、『いつの日か青かったねと思い出す』が今以上の観客動員と興行収入を達成することは、私たち全員の願いだ。これは千載一遇のチャンスだということも、私はしっかりと分かっているつもりだ。
だけれど、やはり私はまだ頷くことはできず、自分の仕事に戻ってからも、どうすればいいのかばかりを考えてしまう。出水さんたちは出水さんたちで、私の意見を即座に否定することはしないだろうけれど、それでも私には、やはり少し考える時間が必要だった。
結局、その日のうちに答えはまとまらずに、私は夜の九時を過ぎてからオフィスを後にしていた。家へと帰りながらも、明日は休みだというのに、私の気持ちはあまり弾まない。
それは家に帰ってからも、明日もSNS運用の仕事はしなければならないからではなく、突然の西宝からのオファーに、戸惑っている部分があったからだ。
もちろん、これは『いつの日か青かったねと思い出す』という作品が持つ力と、私たちの地道な仕事が評価されたことには違いない。だから、素直に喜べばいいのだ。
でも、それが分かっていても、私はどこか釈然としない感じを抱えてしまう。意地の悪い言い方をすれば、西宝は『いつの日か青かったねと思い出す』の人気に便乗しようとしている。そんな印象さえ、私は感じてしまっていた。
近所のラーメン屋で夕食を済ませた私は、家に帰るとメイクを落としシャワーを浴びてから、再びノートパソコンに向かっていた。SNSで、今日最後のエゴサーチをするためだ。
タイトルやハッシュタグで検索すると、二時間ほどの間に『いつの日か青かったねと思い出す』についての投稿は、また増えていた。一つずつ読んでいくと、観た後の評価はこの日も、概ね好評で占められていた。
わざわざ平日に映画館に来て『いつの日か青かったねと思い出す』を観てくれたことだけで、私には感謝の思いしかないのに、好評を見るたびに私は一人一人に面と向かってお礼を言いたい気持ちになる。
いいね! やリポストをしながら、私はある投稿に目が留まった。そこには「『いつの日か青かったねと思い出す』を、もう一回観たい」と書かれていた。その言葉に、私は胸を貫かれる思いがする。
いくら金曜から上映館数は二七館に増えるとはいえ、それでもまだまだ『いつの日か青かったねと思い出す』が観られる機会は、決して多いとは言えない。まだ上映できていない県だって、いくらでもある。
その人たちに届けるにはやはり上映を拡大する必要はあって、その意味では今回の西宝からの話は、渡りに船と言える。少し考えるだけでも西宝からの話に応じる妥当性は、私にもひしひしと感じられる。
それでも、私は映画の前に西宝のロゴが表示されるところを、頭に思い浮かべてしまう。それが私には、私たちと長谷川さんや國武さんたちとの関係に水を差されるようで、あまり歓迎できない。
たった一人の感情論だし、こう思ってしまうのが情けないことは私も分かっている。だけれどその思いは、私には決して無視できなかった。
そうして、私がパソコンでエゴサーチを続けていると、不意にスマートフォンが着信音を鳴らした。少しびっくりして画面を見ると、電話をかけてきたのは津島さんだった。このタイミングで電話をかけてきたということは、用件は一つしかないだろう。
私は、スマートフォンを手に取った。今電話に出ないと罪悪感が残って、寝つきが悪くなりそうだと感じた。
「はい、真鍋です」
「おう、真鍋か。悪いな、こんな遅くに電話かけちまって。今って少し話せるか?」
「はい、大丈夫ですけど。もしかして津島さんって、今仕事が終わったばかりだったりしますか?」
「ああ、そうだよ。『世界が変わる朝に』の仕事もまだまだたくさんあるし、次の二月に公開される映画の仕事も、徐々に増えてきててな。ありがたいことに、忙しい毎日を送らせてもらってるよ」
「そうですか。夜遅くまでお疲れ様です」
「ありがとな。でも、いつものことだから俺は全然大丈夫だ。週に一日はちゃんと休めてるしな。それより真鍋たちの方はどうなんだよ? 忙しくしてるのか?」
津島さんが私たちの近況を尋ねてくるのは、話の流れからしても実に自然なことだったし、私も違和感を感じない。
だけれどそう訊かれると、私はかすかに息を呑むような心地がした。津島さんが電話をかけてきた理由が想像通りな予感がして、思わず構えてしまいそうになる。
「は、はい。おかげさまで忙しくさせてもらってます」
「そっか。『いつの日か青かったねと思い出す』、評判いいもんな。俺もたまにSNSで感想を検索してるんだけど、それでもほとんどが好評だし、フィルマークスの平均評価だってまだ四以上を維持できてるんだろ? 観客動員数や興行収入も公開規模に比べて健闘してるし、何より七〇パーセント超えの高い着席率は純粋に羨ましいよ。どうだ? 結構映画館の側からも問い合わせとか、来てるんじゃないか?」
「ま、まあ、それはありがたいことに。おかげさまで金曜からはまた上映館数も増えますし、検討してくれている映画館も含めて、これからも増えていきそうな感じです」
「そっか。それは何よりだよ。あくまで俺個人ではって話だけど、ミニシアターに観客が入ってくれるのは、俺としても嬉しいからな。シネコンももちろんだけど、ミニシアターこそ大事にしなきゃって俺は思ってるから」
「あっ、このことはよそには言うなよ」津島さんは少し焦ったように、そう付け足していた。私としては別に言ってもいいじゃないかと思うけれど、それでも西宝にいる津島さんには、津島さんの立場があるのだろう。私も「分かりました」と理解を示す。
それでも、私の心臓はまだ強く波打っていた。津島さんが次に何を言うかが、それとなく予測がつく気がする。
「それでさ、今日ウチの加納部長から、お前らのとこに連絡行っただろ?」
津島さんが口にした話題は、私が抱いていた予測から少しも外れていなかった。私はスマートフォンを手にしながら思わず身構えてしまう。
このタイミングで津島さんがただ世間話や近況報告をするためだけに、電話をかけてくるはずがなかったのだ。
「は、はい。来ました」
「ああ、単刀直入に訊くわ。真鍋、お前『いつの日か青かったねと思い出す』を、全国のSEIHOシネマズで上映してみる気はないか?」
津島さんは回りくどい話をしなかった。直接的に訊かれて、私は少し返事に詰まってしまう。まだ答えは出ていなかったし、心の準備も不完全だった。
「……あの、津島さん。どうして私に訊くんですか……? 私、何の決定権も持ってないですよ」
「そりゃ俺だって、まずは出水さんに電話かけたよ。そしたら、お前がまだ答えを考えてる途中だって言うからさ。それにあの映画はお前が買い付けや配給を提案したんだろ? だとしたら、一番思い入れもあるはずだと思ってな」
「津島さん、もしかして私を説得しようとしてます……?」
「まあ、正直そういった思いもないとは言いきれないな。加納さんは『いつの日か青かったねと思い出す』をSEIHOシネマズで上映して、より多くの人に観てもらいたいみたいだし、その考えには、俺も賛成してるから」
「……津島さん、こんなこと言いたくないんですけど、わざわざ個人的に電話をかけてきて、私が引くとは思わなかったんですか?」
「何だよ。お前、引いてるのか?」
「は、はい。まあ、ほんの少しだけは……」
「そっか。まあそりゃそうだよな。俺がお前の立場だとしても、俺も同じように思ってるだろうし。なりふり構っていられないのか。必死かよって感じだよな」
「い、いえ、別にそこまでは……」
「いや、いいよ。俺だって、自分が買い付けて公開にまで漕ぎつけた映画が、いきなり大手企業の手にかかる。それに対する抵抗感は想像できるから」
「じゃ、じゃあ、そこまで分かってるならどうして電話してきたんですか……?」
「そりゃ、俺だって『いつの日か青かったねと思い出す』を、もっと大々的に上映したいからに決まってんだろ。実はさ、今日の午前中に俺たち『いつの日か青かったねと思い出す』を観に行ったんだよな。加納さんに言われて。わざわざ新宿武蔵野館まで」
(続く)




