【第38話】半年
津島さんが提示した条件はいずれも魅力的で、私のことを理解していると思えるようなものだった。私が雑用ばかりの仕事に不満を持っていたことも、今すぐにはepoch makingを抜けられないこともちゃんと分かっている。
給料だって、正直に言えばepoch makingに移って、西宝にいた頃よりは下がった。何より西宝にはスタートアップであるepoch makingとは違って、大企業の歴史と安定感がある。客観的に考えてみれば、西宝に戻るのがいいと、誰もが口を揃えて言うはずだ。
私は束の間迷ってしまう。津島さんの言う通り、自分は西宝に戻るべきではないのかと。
だけれど、考えているうちに私にはepoch makingのメンバーの顔が浮かんでくる。出水さん、四谷さん、立石さん、木蓮さん。
四人と一緒に過ごした、仕事をした時間は私にとっては少しも軽くない。むしろたった半年とは思えないほど、濃いものだ。
私が西宝に戻ると言ったら、四人はどんな顔をするだろうか。それは考えるまでもなく、分かることだ。
私はビールジョッキに手を伸ばす。そして、残っていた中身を飲み干すと、その勢いに乗るようにして口を開いた。
「津島さん、ありがとうございます。津島さんがそこまで社員としての私を必要としてくれていること、本当にありがたく感じています」
「そうか。じゃあ……」
「はい。ですが、すいません。私は津島さんの話を受けて、西宝に戻るわけにはいきません」
私はきっぱりと口にした。私がこれからも働きたい場所はepoch makingでしかありえなかった。
決然と断られたのにも関わらず、津島さんの表情にはさほどショックを受けている様子は見られない。「それは、どうしてだ?」と、あくまでも冷静に理由を尋ねている。
私は思ったまま、澱みのない口調で答える。
「確かにこれからの人生を考えたら、安定している西宝で働くのがいいのかもしれません。でも、私はepoch makingでの今の仕事に、大きなやりがいを感じているんです。小規模な映画だからこそ、監督やキャストとの距離もより近いですし、SNS等での宣伝を通してじわじわと『いつの日か青かったねと思い出す』の名前が広がっている実感があるんです。それに、同僚もみんないい人で仕事に対する熱意があって、一緒に働いていて充実感があるんです。だから、私はこれからもepoch makingで働いていきたい。それが今の私には、何よりも優先すべきことなんです。だから、津島さんの話をお受けするわけにはいかないんです」
そう言った私に、津島さんは小さく息を吐いていた。さらに一口ビールをあおっている。そして、ビールジョッキを置くと、素面のような表情で言った。
「そっか。ウチには戻ってきてくれないか」
「はい。たいへん心苦しい限りですが」
「いいよ、謝らなくて。俺も、今のお前ならそう言うんじゃねぇかなって、薄々分かってたし」
津島さんの言葉が意外で、私は思わず「そうなんですか?」と訊き返してしまう。断られたのになお、津島さんは飄々とした表情をしているように見えた。
「ああ。だって、お前がepoch makingでの仕事に満足してるんだろうなってことは、今日会ったときから、話してる最中にも感じられたし。何よりスタートアップには社員数も多くない分、ウチみたいな大企業よりも濃い団結があるしな。それを持ち出されたら、対抗できないなっていうのは俺も思ってたし」
「すいません。津島さん。ご期待に添えなくて」
「おいおい、さっきの威勢はどこに行ったんだよ。お前はこれからもepoch makingで頑張るんだろ。一応はライバル企業って立場だけど、俺も応援してるからさ」
「はい。津島さん、今までありがとうございました。入社したときから、右も左も分からない私の面倒を見てくださって。津島さんがいてくれたおかげで、今の私があります。感謝してもしきれないくらいです」
「よせよ、水臭い。今の俺たちは、同じ日に配給する映画が公開されるライバルなんだからよ。その気持ちは胸の中にしまっとけよ」
「はい。津島さん、私負けませんから。『いつの日か青かったねと思い出す』は津島さんたちが配給する『世界が変わる朝に』に、評価の面でも興収の面でも絶対に勝ってみせます」
「言うなぁ。言っとくけど俺たちも負けねぇから。『世界が変わる朝に』はヒットして当然だと思われてる。だから、プレッシャーも絶対に俺たちの方が大きい。俺たちは何としてもそれを跳ねのけて、『いつの日か青かったねと思い出す』が目じゃないほどの、評価と興収を成し遂げてみせるよ」
津島さんの目は力強くて、『世界が変わる朝に』に大きな自信を持っていることが窺えた。それを目の当たりにすると、私の中でも対抗意識がさらに膨らんでいく。
評価は言わずもがな、興収だってロングランを続けられれば、最終的に『世界が変わる朝に』を上回る可能性だって、まったくないわけじゃない。
そして、私は『いつの日か青かったねと思い出す』ならそれができると、心から信じていた。國武さんたちの想いが凝縮された作品が、観客に受け入れられないわけがない。
「津島さんの鼻を明かせる日が楽しみです」そう言いたい気分にさえ、私は駆られていた。
Youtubeに投稿された『いつの日か青かったねと思い出す』の予告編は、それからも少しずつ再生回数を伸ばしていて、公開されてから一週間も経たないうちに、千回再生を突破していた。國武さんたちが人生に影響を与えた三本の映画について語る動画や、その週に公開された映画のレビューをする動画も、着々と再生回数を重ねてきている。
公開まで一ヶ月を切ってエックスやインスタグラムに毎日している投稿も、着実に反応は増えてきた。
じわじわと『いつの日か青かったねと思い出す』の名前が広まっていることに、私もSNSを運用していて徐々に手ごたえを得られるようになる。映画の公開が近づいてきて日々忙しくなっていく仕事にも、充実感を感じられた。
映画の公開まであと三週間ほどとなった水曜の夜。私は三度新宿武蔵野館にいた。
いや、私だけではなく、私たちがといった方が適切だろう。休みの立石さんを除くepoch makingの全員が、この日の上映終了も近い新宿武蔵野館に集合していた。
もちろん、連れ立って映画を観に来たのではない。今日は『いつの日か青かったねと思い出す』の三回目にして、公開前最後の試写会が行われる日だった。
この日最後の上映が始まって、観客も来なくなった売店に受付として立ちながら、私は背筋を伸ばす。
今日の試写会はメディア関係者やライターの人もいるけれど、それ以上に一般の映画ファンが多数を占めている。私がエックスやインスタグラムを通して、映画が好きそうでフォロワー数も比較的多いアカウントに、招待のダイレクトメッセージを送っていたためだ。タブレット端末に表示されている名簿も、本名よりもアカウント名の方が多い。
もちろん、どのアカウントを招待するかは、私も出水さんに相談した。それでも中心となってメッセージを送ったのは私で、今回の試写会の成否は私にかかっていると言っても過言ではない。
だから、私は受付に立ちながらも、プレッシャーを感じてしまう。実際に映画ファンの投稿は、同じSNSにいる映画ファンにとって、その映画を観るかどうかの何よりの指標になる。それが『いつの日か青かったねと思い出す』のような小規模な映画なら、口コミの重要性はなおのこと大きかった。
参加者と思しき人は、上映が開始される二〇分ほど前から、ぽつぽつとやってきていた。その中には老いも若きも男性も女性も色々な人がいて、映画ファンの裾野の広さを私は感じる。私が学生のときから映画を観るときの参考にしていたアカウントの人もいて、その中の人はこんな感じの人なんだということも、口には出さないけれど思う。
そうして、一人また一人と参加者がやってくる度、私は緊張で喉が渇くような心地を味わう。今日は國武さんや長谷川さんは来ないから、映画の感想を一身に受けるのは私たちだ。
果たして今日の参加者は、『いつの日か青かったねと思い出す』にどんな感想を抱くのか。そう思うと私は、ふとした瞬間に声が裏返りそうにさえなっていた。
参加者の全員がしっかりと上映開始までにスクリーンにやってきて、映画は予定通りの時間に上映が始まった。
映画が上映されている間、念のためにスクリーン内で待機している四谷さんを除いて、私たち三人はロビーで大人しく待つしかない。上映に影響のない範囲で少し喋りもしたが、それでも話題は早くに尽き、私たちはそれぞれスマートフォンを見ることで時間を潰す。
そうしている間も私の鼓動は速まって、なかなか落ちつかなかった。
今日の参加者の多くは、私が声をかけている。だからこそ、私は万が一うまくいかなかったときのことを考えてしまう。今日観てくれた人からの評価を、誰よりも気にしてしまう。
そんな私を気遣ってか、出水さんや木蓮さんは「大丈夫だよ」という声をかけてくれたが、それでも私が抱く心配は止まなかった。
(続く)




