【第37話】打診
「いやー、悪いな。映画の公開も近づいてるっていうのに、わざわざ時間作ってもらって」
酔っぱらった客の話し声が幾重にも飛び交う居酒屋チェーンで、私は津島さんと向かい合って座っていた。テーブルの上には、ドリンクも料理も何も置かれていない。私たちはまだ入店したばかりだった。
「いえいえ、そんな。でも、それは津島さんだって一緒じゃないですか。今日も九時過ぎまで仕事してたんでしょう? 大変ですよね」
「いやいや、真鍋だって同じくらいまで働いてただろ。大変なのはどっちも同じだよ」
そんな会話を私たちが交わしていると、店員が私たちのテーブルにやってきて、注文したばかりの生ビールの中ジョッキを置いた。私たちはそれを手に取り、乾杯をする。小気味いい音が浮かんで消える。
中ジョッキを傾けると、強い苦味が舌と喉を刺激して、普段あまりお酒を呑まない私は、思わず少し顔をしかめてしまう。そんな私にも、津島さんは相好を崩すことはなかった。
「で、真鍋。最近、どうなんだよ、そっちは。うまくいってるのか?」
その津島さんの訊き方は、心配よりも純粋な興味が上回っている様子だった。自分は西宝に勤めているという上から目線も、わずかにだが感じられる。
それでも、私は平然とした表情で答える。
「はい、おかげさまで。いよいよ映画の公開も近づいて、宣伝に劇場営業にSNSの運用と、ありがたいことに忙しくさせてもらってます」
「そっか。『いつの日か青かったねと思い出す』だったよな。俺も予告編見たぜ」
「そうなんですか。どうでしたか?」
「ああ、面白そうだなって思ったよ。なんていうか切実な感じが出ててさ。良い予告編だと思った。それに最後には木蓮監督のコメントも載ってただろ。よくコメント取れたよな」
「それはまあ、ちょっと伝手がありまして」
「そうか。でも、良い具合に実際の映画が観たくなる予告編だったよ。あれを見て、映画が気になる人もきっといるんじゃねぇかな」
「はい。私もそうなることを願ってます」
その私の相槌は、本心に違いなかった。『いつの日か青かったねと思い出す』の予告編は、先ほど見た限りではもう二百回再生を数えていた。どれくらいの頻度でかかっているのかは分からないが、新宿武蔵野館をはじめとした上映館も、映画の前に他の映画と合わせて流してくれていることだろう。
私たちの誰にとっても良い出来だと思える予告編が少しでも効果を生むよう、私は願う一方だ。
「ところで、津島さんたちの方はどうなんですか? いや、もちろん元から忙しいのは分かってるんですけど、私たちと同様映画の公開が近づいてきて、ますます忙しくなってるんですよね?」
津島さんから近況を訊かれたからには、私からも訊かないと失礼に当たる。でもそれ以上に、私は純粋に今の西宝がどうなっているのか知りたかった。
私や出水さんが配給・宣伝部から抜けてもう半年が経つ。きっと状況も少しは変わっていることだろう。
「ああ、そうだな。お前の想像してる通り忙しいよ。劇場営業やSNSの更新は、別の社員がやってくれてることを抜きにしても、各所に宣伝物を出稿したりとか、番宣のためにテレビ番組への出演をキャストに頼んでみたりとか、井山監督のインタビューを準備したりとか、そういった調整が日々山のようにあってな。最近は毎日残業してるよ。休みも週に一回しか取れないしな」
「そうですか。やっぱり大変なんですね」と相槌を打ちながら、私は少し羨ましさのようなものを感じていた。
epoch makingはまだ立ち上げてから時間もあまり経っていないから、西宝のようにそこまで方々に強力なコネクションがあるわけではない。宣伝にかけられる予算だってずっと少ないだろうし、テレビ番組への出演なんて夢のまた夢の話だ。ポスターや予告編といった宣伝物が人目に触れる機会も、比較にならないほど『世界が変わる朝に』の方が多いだろう。
もちろん、それだけ業務量は増えるから数人体制でも決して負担は減らないけれど、それでも私たちにはできない大規模な宣伝を打てることは、私にとってはいくら羨んでも足りないほどだった。
「まあな。でも、大変なのはいつものことだし、もうすっかり慣れちまったよ。それにお前や出水さんが二人して抜けた直後は、もっと大変だったからな。単純に人手が足りなくて、もうてんてこ舞いって感じだったよ」
「そうだったんですか。やっぱり出水さんが抜けた穴は大きかったんですね」
「いや、それもあるけど、お前が抜けた穴もちゃんとあったよ。俺たちの部署で一番後輩だったとはいえ、それでもいなくなるとここまで影響があるのかって思った」
「そうだったんですか。私、雑用くらいしかしてなかったと思うんですけど、それでも影響はあったんですね」
「ああ、そういった仕事も結局は誰かがやらなきゃいけないからな。もちろん、その後に中途採用で新しく人を入れたけど、それまでは今以上に残業をしなきゃいけないほど大変だったよ」
軽く愚痴るように言う津島さんの言葉を聞きながら、私は少しだけ嬉しくもなっていた。別に「ざまあみろ」とまで思っていたわけではない。
それでも、私も西宝の配給・宣伝部の一員として欠かすことができない仕事をしていたのだと改めて知られて、表情も少し緩んでいくようだ。雑用ばかりの仕事でも、必要だったのだ。
津島さんの表情も柔らかく、「何笑ってんだよ」と言われなかったことに、私は安堵する思いを抱いていた。
それからも、私たちは運ばれてくるサラダやポテトフライ、枝豆に焼き鳥といった料理をビールとともに食べながら、和やかに話した。話題は最近の仕事のことから、今観ようと思っていたり気になっている映画のことなど、仕事以外の話に逸れていく。
私たちは映画の公開を来月に控えて、お互いに忙しい。だから、束の間の息抜きができているようで、私も心地よく感じられる。濃い味付けの料理も口に合ったし、ビールのアルコールもそういった気分に拍車をかける。
私たちは話しながら時折笑うことさえできていて、私は少し迷ったけれど、津島さんからの食事の誘いに応じてよかったと思えていた。
「ところで、真鍋。話題は変わるんだけどさ」
津島さんがそう言ってきたのは、私たちが乾杯をしてから一時間ほどが経った頃だった。津島さんの表情は相変わらず柔らかかったから、私も気兼ねなく「何ですか?」と応じる。
津島さんはその言葉に似合わない軽い調子で続けた。
「最近ウチの部署さ、一人辞めたんだよ」
「へぇー、そうなんですか」そんな気楽な返事をするくらいには、私はビールに酔い始めていた。津島さんも穏やかな表情を崩していない。まるで明日の天気を尋ねるかのように口にする。
「だからさ、お前よかったらウチに戻ってこないか?」
津島さんはなんてことのない口調で尋ねていたけれど、その言葉を聞いたとき、私は頭と身体に回り始めていたアルコールがすっと引いていくような感覚を味わった。状況がすぐには呑みこめず、「どういうことですか?」と訊き返してしまう。
「別に言った通りの意味だよ。ウチの部署に最近退職者が出て、それで今よりいっそう忙しくなってる状況なんだ。だから、お前はウチでの勤務経験もあるし、うってつけかなと思って、今こうして声をかけてるわけなんだけど」
「えっ、津島さん。それ本気で言ってます? ていうか、お酒呑みながらする話ですか?」
「ああ、本気だよ。こんなことラインや電話で言うわけにはいかないだろ。直接会って話さなきゃと思ってな。実は今日お前を呼んだのも、そのことを伝えるためっていうのが大きいんだ」
津島さんの表情はいつの間にか真剣さを帯び始めていて、私の頭を揺さぶった。
本来なら、私に迷う理由なんてないはずだ。私がepoch makingに移ったのは、出水さんに声をかけられたこともあったが、西宝での雑用ばかりの仕事に嫌気が差していたことも大きい。
それでも即座に首を横に振れなかったのは、提案してくれたのが他ならぬ津島さんだったからだ。津島さんは、私が入社したばかりのときから面倒を見てくれた、西宝にいた頃の私にとっては最も身近な先輩だ。その津島さんから必要とされているという事実に、私の心はわずかにでも揺らいでしまう。
「まあ、お前が前にウチにいたときは、俺たちも悪かったなって思ってるよ。誰でもできるような雑用しか任せてなくて、あれじゃあやりがいが感じられなくても不思議じゃないからな。だからさ、もしお前がウチに戻ってきたときにはもっとやりがいのある仕事を任せたいと思ってる。劇場営業とかSNSの運用とか。そういった業務だって、お前は出水さんのところでやってきてるんだろ?」
「確かに、それはそうですけど……」
「ああ、別に今すぐってわけじゃないんだ。もちろん俺たちとしては、明日からでも戻ってきてくれた方がありがたいんだけど、それでもお前も今は『いつの日か青かったねと思い出す』の仕事に忙しいだろうからな。だから、ウチに戻ってくるのは映画が公開されて少し時間が経って、業務が落ち着いてきてからでもいい。それまでは何とか俺たちで頑張るから」
「いえ、でも……」
「ああ、それともちろん給料は、お前が前にいたとき以上の金額を出すから。部長にもそうかけ合ってみる。約束するよ。お前が出水さんのところでいくらもらってるのかは知らないけれど、それでもウチはそれ以上の給料を払うって」
(続く)




