表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/21

【第15話】誠意は


 長谷川さんからのメールを見たときに抱いた懸念を、私は今日の仕事の間中ずっと引きずっていた。パソコンに向かっていても、誰と話していても、常に頭の一部分は本当に買い付けられるのだろうかという心配に占められていた。何をしていても完全には身が入らず、オフィスにいる時間が何倍にも引き延ばされているように感じられる。


 それでも、私は何とか表情には出さず(と自分では思っているつもりだ)、夜の七時を回る前に退勤していた。電車に乗って自宅に帰っている間も、私の心はソワソワして落ち着かない。


 するべきではないと分かっていても、本当は今すぐ長谷川さんに電話をして話を訊きたい気分だった。


 それでも、私はその気持ちをどうにか抑え、自宅に辿り着く。


 するとその瞬間、心の枷が取れたかのように、私は急にいてもたってもいられなくなった。部屋着に着替えるよりも先に、スマートフォンを手に取る。


 長谷川さんに電話をするべきではない。だとしたら、この状況で私が電話をかけられる相手は、一人しかいなかった。


 正直、相手が電話に出てくれるかどうかは分からない。それでも、私は電話が繋がるように繰り返される呼び出し音に願う。


 すると、五回ほどのコールを経て、電話は繋がった。「もしもし」と、聞き覚えのある声が聞こえてくる。私は逸る気持ちを抑えるように、なるべく落ち着いた口調を心がけた。


「もしもし、國武さんですか? 今、お時間大丈夫ですか?」


「はい、大丈夫です。でも、もうすぐ家を出るところなので、手短にお願いできますか?」


「これからご夕食ですか?」


「いえ、バイトです。コンビニの夜勤で。夜の八時から、朝の五時までです」


「そうですか。それは大変ですね」


「はい。今の私の状況だと、映画だけで食べていくことはとてもできないので。でも、真鍋さん。世間話がしたくて連絡してきたわけではないですよね?」


 國武さんの声色からは、少し急いている印象が窺えた。現に、時刻はもう夜の七時半を回っている。いくらバイト先のコンビニエンスストアが近くにあっても、そろそろ家を出なければならないだろう。


 私は焦らないよう自分に言い聞かせながら、用件を切り出した。


「はい。あの、昨日長谷川さんの方にはメールで、『いつの日か青かったねと思い出す』の買い付けに関する契約書を送らせていただいたのですが、國武さんもご覧になりましたでしょうか?」


「はい。長谷川さんからメールで転送されてきて、昼間のうちに目を通させていただきました。劇場配給権やソフト化権等を合わせて、買い付け金額が一五〇万円プラスアルファ。『いつの日か青かったねと思い出す』にこれだけの評価をしてくださったこと、とてもありがたく感じています」


「……ですが、すぐに私たちのお話を受けてはいただけないんですよね?」


「それは、私たちにも少し考える時間が必要ですから。大事な大事な作品を人様に預けるからには、それくらいは当然ですよ」


「……國武さん。私、長谷川さんから伝えられたんです。『いつの日か青かったねと思い出す』は、他の配給会社からも声をかけられているんですよね?」


「……ま、まあ、それはありがたいことにそうですね」


 國武さんは、否定しなかった。長谷川さんの名前を出されたからには、否定のしようがないと思ったのかもしれない。


 それでも、私の頭の中を改めて「どうしよう」という思いが駆け巡る。どうやったら私たちepoch makingと契約を結んでくれるだろうか。私の頭はそのことだけで占められ、これ以上ないほど単刀直入な言葉となって現れてしまう。


「國武さん、私たちを選んでくださいますよね……?」


 言ったそばから、もっと婉曲的な言い方はできなかったのかと、私は自分で恥ずかしくなってしまう。こんなの國武さんに圧をかけているだけだ。


「それはまだ、何とも言えないです。これは私だけで決められる話ではないですし。もちろん私も意向は伝えますし、長谷川さんもそれを最大限に汲んでくれるとは思いますが、それでも最終的な決定権は、プロデューサーである長谷川さんにあるので。申し訳ないのですが、私の一存だけでどうこうなる話ではないです」


「いえ、謝らないでください。國武さんたちに考える時間が必要なのは当然ですし、むしろ私の方こそ決定を迫るようなことを言ってすみませんでした」


「真鍋さんの方こそ、謝らないでくださいよ。実際、私も真鍋さんたちからとても魅力的なオファーをいただいて、本当に嬉しく感じています」


「でも、考える時間が必要だというのは、他社が提示したオファーも、また同様に魅力的だったということでしょうか?」


 私の疑問に、國武さんはすぐには答えなかった。そのわずかな沈黙に、私はその配給会社が提示した条件を、それとなく察してしまう。


 おそらくその配給会社が提示した契約額は私たちと同等か、もしくはそれ以上だ。そうでなければ、國武さんはここまで悩んではいないだろう。


 提示した契約額で劣っているかもしれないのに、こうして考えるテーブルに上げてくれている。それだけでも私たちにとってはありがたかったが、それでも「ごめんなさい」と断られてしまったら何の意味もなさない。


「……すいません。それについては返事を控えさせていただけますか?」


 國武さんは束の間の沈黙の後にそう答えていて、それが私にはほとんどYESに近い響きを持って聞こえた。


 やはり他の配給会社から提示された条件は、それだけ魅力的なのだろう。契約額が作品に対する評価だとすれば、その会社は『いつの日か青かったねと思い出す』を、私たち以上に評価していることになる。それはまだ配給の実績がない私たちには、きわめて致命的なことだ。


「分かりました」と返事をしながら、私は内心焦る。言葉だけで示せる誠意には、限界があった。


「あ、あの、真鍋さん。そろそろ私、失礼していいですか? もう家を出ないといけないので」


「は、はい。そうですよね。お忙しい中、わざわざ電話に応えてくれてありがとうございました」


「いえ、私も真鍋さんと久しぶりに話せて嬉しかったです。真鍋さんたちからいただいたオファーも出来る限り、前向きに検討させていただきます」


「はい、よろしくお願いします」


「ええ、では失礼します」


 そう言って、國武さんは電話を切った。私はもう鳴らなくなったスマートフォンを手に、しばし立ち尽くす。


 それとなくでも他社のオファーを知った今、私たちはどう太刀打ちすればいいのだろう。まだ何の実績もない私たちが契約を勝ち取るためには、何ができるだろうか。


 私は軽く途方に暮れてしまう。もう夕食時でお腹も空いているはずなのに、食欲もあまり湧かなかった。





 國武さんと電話をした内容は、さっそく次の日に長谷川さんから送られてきたメールで、確定事項に変わった。


 そのメールは端的に言えば、もっと契約額を上げてほしいという要求だった。長谷川さんが提示した契約額は二〇〇万円で、私はそれがもう一つの配給会社が提示した金額なのだろうと察する。


 私はすぐに、オフィスを外していた出水さんに電話で報告する。電話に出てくれた出水さんは、私が長谷川さんからのメールの内容を知らせると、明らかに声のトーンを落としていた。電話の向こうで渋い表情をしているのが目に見えるかのように。


「どうしましょう……?」と焦る私にも、「契約額のことは、私から長谷川さんに交渉してみる」と出水さんは言ってくれたけれど、それでも私の心は静まらない。最初の一五〇万円でも、今のepoch makingが提示できる最高額に近いことは、私にも察せられていた。


 その翌日は、私にとっては休日だった。それでも、現状ではゆっくりと羽を伸ばすことは、私にはできるはずもない。


 出水さんが長谷川さんと何を話すのか。どうやったら私たちは、『いつの日か青かったねと思い出す』を買い付けることができるのか。目を覚ましたときから、頭はそのことばかりを考えてしまう。たとえ今の私にできることは、ほとんどなかったとしても。


 スマートフォンを見ていても、本を読んでいても私は落ち着かない時間を過ごす。一日はただ家でじっとしているのには長すぎて、私は午前一一時を回る前に家を出ていた。もともと今日はそうする予定だったし、家でサブスクのドラマを見る気分にも私はあまりなれなかった。


 渋谷へと向かうには、私はただ一本の地下鉄に乗っているだけでよかった。十数分かけて渋谷駅へと到着し、迷路のように入り組んだ地下のホームを抜けて、地上に出る。適当に目についた牛丼屋で少し早めの昼食を食べると、私は再び駅の方へと向かう。


 今日の目的地であるBunkamuraル・シネマは、宮益坂口から目と鼻の先にあった。以前はBunkamuraに向かうには少し坂道を上らなければならなかったのだが、現在は改築工事のため長期休館中だ。だから、こうして駅を出てすぐのところにあると、私は助かる思いがする。


 一階のチケット売り場であらかじめ買っておいた電子チケットを発券し、エレベーターに乗る。


 そして、七階で降りると灰色のカーペットが私を迎えた。よくあるようなレッドカーペットではなくて落ち着いた色調のカーペットが、シックな色合いの内装と合わせて、大人の雰囲気を醸し出している。ロビーにいるのも私よりも年上に見える人が大半だ。その穏やかな空間が、かえってこれから上映される映画への期待を高める。


 私がこれから観るのは作品を発表する度に、世界の映画祭で称賛を受けている監督が手がけた中国映画だ。三つの街を舞台に二一世紀に入ってからの中国の変動を描くこの映画もまた、かのカンヌ映画祭のコンペティション部門に出品されている。私もいくつか監督の過去作を観ているから、公開が決まってからずっと楽しみにしていた。


 だから、初日は無理でもなるべく早いうちに観たくて、今日やってきているのだ。


 私が少しロビーに展示された本を見ていると、タイミングよく館内には開場のアナウンスが鳴る。平日とはいえ公開初週だから観客もなかなかに多く、私は少し並んでから劇場内に入った。


 劇場内は、舞台のあるホールのような独特な意匠が目を惹くゆとりのある空間で、私は少し後方の真ん中寄りの席に座った。劇場内にこれから上映される映画への期待がじわじわと漂っているなか、私は上映時間までスマートフォンを見て時間を潰す。


 そうしていると、ふと通路を人が通る気配がした。顔を上げた私は、その人物に思わず目を留めてしまう。


 やってきたのは、四谷さんだった。私と同じく今日休みなのは聞いていたが、まさか都内で何十と上映されている映画の中から、私と同じ映画を同じ回で観るなんて。私は、その偶然にかすかに驚く。


 でも、四谷さんはチケットを見ながら自分の座席に向かっていて、私の三列ほど前の席に腰を下ろしてからも後ろを振り返ってはいなかったから、私が同じ劇場内にいると気づいてはいないようだ。


 私としてもわざわざ声をかけるのは気が引けたので、そのまま映画が始まるのを待つ。後ろから四谷さんの頭が見えるのは、上映中も少し気になってしまいそうだなと思いながら。



(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ