29.もう、お互いに避けるのはやめましょう
「私が、あなたに戻ってきてほしいの」
言ってしまってから、自分でも驚くほど緊張した。
グレンは目を見開いたまま、何も言わない。
腕の中のリーヴだけが、そんなことにはお構いなしにグレンへ手を伸ばしていた。
やがて、グレンが小さく息を吐く。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、少し困ったように笑った。
「嬉しいです。本当に」
「そう」
返事をしながら、ほっとしている自分に気づく。
私は、グレンがどうしたいのかを聞いた。
グレンは戻りたいと言った。
けれど、今は戻れないとも。
「すぐには戻れないという話は、わかったわ」
「……はい」
「でも、それと学園で距離を置くことは別でしょう?」
グレンが瞬きをした。
「公爵邸に戻れない事情があるのはわかる。でも、だからといって、学園でまでお互いに避ける必要はないと思うの」
「それは……」
グレンが言葉に詰まる。
私だって、グレンと距離を置いていた。
彼のためにはその方がいいと、自分で決めて。
けれど、それがグレンの望んだことではなかったのなら、続ける理由はない。
「だから、もうやめましょう。……お互いに避けるのは」
しばらく黙っていたグレンが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
「あなたも、それでいい?」
「はい。僕も、そうしたいです」
「なら、決まりね」
リーヴがグレンの胸元へ身を寄せる。
先ほどからずっと抱いてもらっているというのに、まだ離れる気はないらしい。
「ずいぶん懐かれたわね」
「……僕のせいですから」
「何が?」
「急にいなくなったのは僕です」
グレンがリーヴの頭を撫でる。
リーヴは気持ちよさそうに目を細め、その手へ頬を寄せた。
どうやら、まだしばらくは離してもらえそうにない。
「リーヴ」
呼んでみても、こちらを見ようともしない。
「……完全に無視されたわ」
グレンが吹き出した。
彼がこうして笑うのを見るのは久しぶりだ。
私もつられて笑ったところで、少し離れた場所から教師の声が飛んできた。
「カルディナート嬢! そろそろ戻ってください!」
「はい!」
返事をしてから、グレンを見る。
「行きましょうか」
「はい」
グレンがリーヴを私へ返そうとする。
けれど、リーヴは服を掴んだまま、頑として離れなかった。
「……リーヴ」
さすがに私が名前を呼ぶと、ようやくこちらを見る。
「グレンも一緒に戻るのよ」
しばらく考えるように私とグレンを見比べてから、リーヴは渋々といった様子で手を離した。
「そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいでしょう」
抱き上げると、リーヴはすぐに肩越しにグレンを見る。
「また会えますよ」
グレンがそう言うと、ようやくリーヴは前を向いた。
言葉の意味がわかっているのかどうかは知らない。
けれど、先ほどまでよりは機嫌がよさそうだ。
私はリーヴを抱き直し、グレンと一緒に集合場所へ戻った。
集合場所へ戻ると、すでにほとんどの生徒が集まっていた。
私たちの姿に気づいたローレンス殿下が、こちらを見る。
目が合った。
……気まずい。
つい先ほど、私は殿下に、もう好きではないとはっきり告げたばかりだ。
そのうえ、話を切り上げてグレンのところへ来た。
今もグレンと一緒に戻ってきたところである。
気まずくならない方が難しい。
「カルディナート嬢」
けれど、ローレンス殿下の声音は普段と変わらなかった。
「先生が結果を確認されるそうだ。杖を持ってきてくれ」
「わかりました」
私も普段どおりに答える。
周囲には大勢の生徒がいる。
教師もいる。
こういう場所で殿下が王太子としての振る舞いを崩すことはない。
穏やかな表情も、落ち着いた声も、いつもどおりだ。
ただ、いつもどおりに見せているだけだということくらい、私にはわかる。
あまり思い出したくもない過去だけれど、前世の記憶を取り戻す前の私は、殿下のあとを散々追いかけ回していたのだ。
今の殿下が機嫌を損ねていることくらいはわかる。
まあ、当然でしょうね。
あれだけ言われて、まったく何とも思わない方がおかしい。
とはいえ、私から何かを言うつもりはなかった。
殿下が人前ではいつもどおりに振る舞うというなら、私もそうする。
わざわざ刺激する必要はないし、だからといって機嫌を取る必要もない。
プライドの高い子どもを相手にするとき、怒っているからといって何でも言うことを聞いていては、ろくなことにならない。
言いたいことがあるなら、自分から言えばいいのだ。
「殿下、こちらでよろしいですか?」
「ああ」
私は杖を差し出す。
殿下はそれを受け取ると、私の分と自分の分を揃えて教師のもとへ向かった。
その日のフィールドワークは、予定どおり終了した。
私たちの杖にも特に問題はなく、他の組も大きな失敗はなかったらしい。
帰りの馬車では、さすがに疲れたのか、リーヴは籠の中ですっかり眠っていた。
今日はずいぶん動き回ったものね。
私は揺れる葉を眺めながら、昼間のことを思い返す。
グレンは戻りたいと言った。
公爵邸にはまだ戻れない。
グレンのお父さまの問題も残っている。
けれど、お互いに距離を置くのはやめると約束した。
明日、学園でグレンと顔を合わせたら、今度は普通に話そう。
そして翌朝。
教室へ向かう途中で、前方に見覚えのある背中を見つけた。
グレンだ。
向こうも私に気づいた。
ここ数日は、顔を合わせてもお互いに距離を取っていた。
けれど今日は、グレンも足を止めないし、私も進路を変えない。
そのまま近づいていくと、グレンが口を開いた。
「おはようございます、ノエリアさま」
「……おはよう、グレン」
以前と変わらない挨拶だった。
「今日は少し早いのね」
「次の授業で使う資料を確認しておきたくて」
「そうなの」
「ノエリアさまも今日は早いですね」
「私はいつもこれくらいよ」
「そうでしたか?」
「そうよ」
そんな他愛もない会話をしながら、並んで教室へ向かった。
その日だけではなく、それからも私たちはお互いに距離を取らなくなった。
廊下で会えば挨拶をする。
授業の前後に顔を合わせれば、以前のように言葉を交わす。
公爵邸にいた頃のように、毎日のように長い時間を一緒に過ごすわけではない。
公爵邸へ戻る話については、私からも急かさなかった。
戻ってきてほしいという気持ちは伝えた。
グレンも戻りたいと言ってくれた。
今すぐには戻れないというのも、グレン自身が出した答えだ。
公爵邸に戻ることについては、グレンから話すまで待つことにした。
一方で、ローレンス殿下との間には、別の意味で気まずさが残っていた。
「おはよう、カルディナート嬢」
「おはようございます、殿下」
教室で顔を合わせれば、いつもどおり挨拶をする。
他の生徒が話しかければ、殿下はいつもの穏やかな笑みで応じる。
教師に呼ばれれば、王太子らしく堂々と受け答えをする。
私に対しても、人前では態度を変えない。
けれど、先日のことを気にしているのはわかった。
こちらをじっと見ていることもあれば、何か言いかけてやめることもある。
それでも、私は何も聞かなかった。
殿下が自分から何も言わないのなら、私から聞き出す必要はない。
以前の私なら、殿下の機嫌が悪ければ理由を考え、どうすれば機嫌を直してもらえるか悩んだかもしれない。
今となっては、ずいぶん面倒なことをしていたものだと思う。
私は殿下の母親ではない。
いや、母親だったとしても、何も言わずに不機嫌になっている子どもの機嫌を、毎回こちらから取ってやるつもりはないけれど。
本人が話したくなったら、そのとき聞けばいい。
そうして一週間が過ぎ、次のフィールドワークの日が近づいてきた。
「さて」
授業の終わり際、教師が教壇から私たちを見回した。
「次のフィールドワークについて説明する」
教室のあちこちで、筆記具を取る音がする。
前回は、精霊の泉群で杖の魔力を調整した。
次は、その杖をさらに仕上げていく段階になるらしい。
「次回は、杖の心核を強化する。前回より扱う魔力も強くなるから、指示は必ず守るように」
教師の声に、生徒たちが揃って頷く。
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