22.このままで終わるつもりはありません(グレン視点)
寮の廊下は、いつもと変わらぬざわめきに満ちていた。
行き交う生徒たちの足音と、途切れ途切れの会話。
その中を抜けて、自室の扉の前で足を止める。
ほんの一瞬だけ、手が動かなかった。
それでも、ゆっくりと取っ手を押し下げる。
扉を開けた瞬間、見慣れたはずの空間が視界に広がった。
「……ああ、戻ってきたんだな」
同室の相手が、机から顔を上げてそう言った。
驚いた様子はない。ただ、少しだけ怪訝そうにこちらを見ている。
「少し、事情があって」
それだけ答えると、相手は短く「そうか」とだけ返した。
それ以上は聞かれなかった。
部屋の中へと足を進める。
扉を閉めると、外のざわめきが遠ざかる。
静かな空気が落ちてきた。
視線を巡らせる。
狭い部屋だった。
ベッドと机と、最低限の収納。
自分に与えられているスペースも、決して広くはない。
それなのに……なぜか、がらんとして見えた。
足音がやけに響く。
置かれているものの少なさではなく、何かが抜け落ちたような空虚さ。
しばらくその場に立ったまま、何もせずにいた。
──戻ってきた。
それだけのことのはずなのに、妙に現実味が薄い。
ゆっくりと、息を吐く。
父が強欲であることは、知っていた。
けれど──ここまでとは思っていなかった。
いや、違う。
思っていなかったのではない。
考えないようにしていただけだ。
魔力が強いからと引き取られたことも。
その後の扱いも。
最初から、わかっていた。
自分は、使える駒として見られているだけだと。
それでも──どこかで、都合よく切り分けていた。
そこまで露骨なことはしないだろう、と。
そんな期待が、なかったとは言えない。
だが、現実は違った。
あれが、父の考えだ。
ためらいもなく、公爵家に食い込もうとする。
そのために自分を使うことに、何の躊躇もない。
胸の奥に、鈍い重みが沈む。
目を伏せる。
──やはり、そういうものか。
納得しているはずなのに、わずかに遅れて痛みが来る。
それを押し込めるように、静かに息を整えた。
ノエリアさまの婿など、大それた望みだ。
そう思う。
そう思っているはずなのに、胸の奥がわずかに軋む。
自分は──できることなら、ノエリアさまの、カルディナート公爵家の家臣として迎えてもらい、あの方を支えていきたいと考えていた。
隣に立つのではなく、その一歩後ろで。
それが、自分に許される立ち位置だと。
婿などと、分不相応なことは──。
そこで、思考が止まる。
本当に、そう言い切れるのか。
公爵家の実権がどうのなどは、どうでもいい。
そんなものに価値を見出したことはない。
けれど。
ノエリアさまの隣に立つことを、あの方と同じ景色を見ることを──。
本当に、望んでいなかったと言えるのか。
視線を落とす。
答えは、出ている。
だからこそ、言葉にできない。
……それでも。
ゆっくりと息を吐く。
ノエリアさまに迷惑がかからないように。
そのために、公爵邸を出た。
あれは、間違っていない。
正しい選択だったはずだ。
そうでなければならない。
自分の立場を、わきまえなくてはならない。
そうでなければ──あの方の隣に立つどころか、足元をすくってしまうことになる。
拳をわずかに握りしめて、すぐに力を抜いた。
翌朝、教室の扉を開けたとき、すでに何人かの生徒が席についていた。
いつもと変わらない光景のはずなのに、足が一瞬だけ止まる。
視線を上げた先に、ノエリアさまの姿があった。
すでに席に着き、手元の資料に目を落としている。
こちらに気づいた様子はない。
……いや。
気づいていないはずがない。
それでも、顔を上げない。
こちらも、声をかけることができなかった。
自分の席へと向かい、静かに腰を下ろす。
それだけで、やけに時間がかかったように感じた。
しばらくして、ノエリアさまがゆっくりと顔を上げる。
視線が、合った。
ほんの一瞬。
それだけで、すぐに逸らされる。
沈黙が落ちる。
やがて、ノエリアさまが先に口を開いた。
「……リーヴは、いつものように温室にいるわ」
淡々とした声音だった。
「でも……出て行くときの様子は、あまり元気がなかったけれど」
その言葉に、胸の奥が重く沈む。
視線を落とした。
「申し訳……ございません……」
言いかけて、言葉が途切れる。
それでも、どうにか最後まで絞り出す。
ノエリアさまは一瞬だけ目を細め、それから小さく首を振った。
「……あなたが謝ることではないわ」
はっきりとした声音だった。
その一言が、かえって逃げ場を失わせる。
何も言えず、ただ沈黙だけが残る。
同じ教室にいるはずなのに、距離だけが不自然に広がっていた。
そのとき、教室の入口がわずかにざわめいた。
振り返るまでもなく、気配でわかる。
王太子ローレンス殿下が姿を現した。
周囲の空気がわずかに引き締まり、視線が自然と集まる。
堂々とした足取りで教室へ入り、そのままノエリアさまのほうへと向かっていく。
身分としては、最も高い位置にいる存在。
──あの方にふさわしいのは、あれほどの立場なのだろう。
無意識のうちに、周囲へと視線を巡らせる。
騎士団長の息子。
宰相の息子。
魔術師団長の息子。
名だたる家の令息たちが、この場に揃っている。
誰もが、ノエリアさまと並び立つことを許される側の人間だ。
それに比べて──自分は、子爵家の庶子に過ぎない。
並ぶことを許される立場ではない。
ここにいること自体が、どこか場違いに思える。
視線を落とす。
──それでいいのか。
胸の奥で、わずかに引っかかるものがあった。
ノエリアさまが、自分を信頼してくださっていることは──間違いではないはずだ。
それを、自惚れだと切り捨てることはできない。
ならば。
自分は、どうすればいい。
何もできないまま、距離を取って、それで終わりにするのか。
ふと、昨日の光景がよぎる。
小さな手が、こちらへと伸ばされていた。
届かないまま、空を切ったその手が、頭から離れなかった。
ゆっくりと息を吸い込む。
──いや。
これで終わりになどできない。
自分には、まだできることがあるはずだ。
あの方の隣に立つために。
その資格に届くために。
今のままで終わらせるつもりはない。




