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【書籍化・コミカライズ決定】ワンオペ母が悪役令嬢になったら、攻略対象が地雷にしか見えない件  作者: 葵 すみれ
第二章 杖作成

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22.このままで終わるつもりはありません(グレン視点)

 寮の廊下は、いつもと変わらぬざわめきに満ちていた。

 行き交う生徒たちの足音と、途切れ途切れの会話。

 その中を抜けて、自室の扉の前で足を止める。


 ほんの一瞬だけ、手が動かなかった。

 それでも、ゆっくりと取っ手を押し下げる。

 扉を開けた瞬間、見慣れたはずの空間が視界に広がった。


「……ああ、戻ってきたんだな」


 同室の相手が、机から顔を上げてそう言った。

 驚いた様子はない。ただ、少しだけ怪訝そうにこちらを見ている。


「少し、事情があって」


 それだけ答えると、相手は短く「そうか」とだけ返した。

 それ以上は聞かれなかった。


 部屋の中へと足を進める。

 扉を閉めると、外のざわめきが遠ざかる。

 静かな空気が落ちてきた。


 視線を巡らせる。

 狭い部屋だった。

 ベッドと机と、最低限の収納。

 自分に与えられているスペースも、決して広くはない。

 それなのに……なぜか、がらんとして見えた。


 足音がやけに響く。

 置かれているものの少なさではなく、何かが抜け落ちたような空虚さ。

 しばらくその場に立ったまま、何もせずにいた。


 ──戻ってきた。

 それだけのことのはずなのに、妙に現実味が薄い。

 ゆっくりと、息を吐く。


 父が強欲であることは、知っていた。

 けれど──ここまでとは思っていなかった。


 いや、違う。

 思っていなかったのではない。

 考えないようにしていただけだ。


 魔力が強いからと引き取られたことも。

 その後の扱いも。

 最初から、わかっていた。

 自分は、使える駒として見られているだけだと。


 それでも──どこかで、都合よく切り分けていた。

 そこまで露骨なことはしないだろう、と。

 そんな期待が、なかったとは言えない。

 だが、現実は違った。


 あれが、父の考えだ。

 ためらいもなく、公爵家に食い込もうとする。

 そのために自分を使うことに、何の躊躇もない。


 胸の奥に、鈍い重みが沈む。

 目を伏せる。


 ──やはり、そういうものか。

 納得しているはずなのに、わずかに遅れて痛みが来る。

 それを押し込めるように、静かに息を整えた。


 ノエリアさまの婿など、大それた望みだ。

 そう思う。

 そう思っているはずなのに、胸の奥がわずかに軋む。


 自分は──できることなら、ノエリアさまの、カルディナート公爵家の家臣として迎えてもらい、あの方を支えていきたいと考えていた。

 隣に立つのではなく、その一歩後ろで。

 それが、自分に許される立ち位置だと。


 婿などと、分不相応なことは──。


 そこで、思考が止まる。

 本当に、そう言い切れるのか。


 公爵家の実権がどうのなどは、どうでもいい。

 そんなものに価値を見出したことはない。


 けれど。

 ノエリアさまの隣に立つことを、あの方と同じ景色を見ることを──。

 本当に、望んでいなかったと言えるのか。


 視線を落とす。

 答えは、出ている。

 だからこそ、言葉にできない。


 ……それでも。

 ゆっくりと息を吐く。


 ノエリアさまに迷惑がかからないように。

 そのために、公爵邸を出た。


 あれは、間違っていない。

 正しい選択だったはずだ。

 そうでなければならない。


 自分の立場を、わきまえなくてはならない。

 そうでなければ──あの方の隣に立つどころか、足元をすくってしまうことになる。

 拳をわずかに握りしめて、すぐに力を抜いた。




 翌朝、教室の扉を開けたとき、すでに何人かの生徒が席についていた。

 いつもと変わらない光景のはずなのに、足が一瞬だけ止まる。

 視線を上げた先に、ノエリアさまの姿があった。


 すでに席に着き、手元の資料に目を落としている。

 こちらに気づいた様子はない。


 ……いや。

 気づいていないはずがない。

 それでも、顔を上げない。

 こちらも、声をかけることができなかった。


 自分の席へと向かい、静かに腰を下ろす。

 それだけで、やけに時間がかかったように感じた。

 しばらくして、ノエリアさまがゆっくりと顔を上げる。

 視線が、合った。


 ほんの一瞬。

 それだけで、すぐに逸らされる。


 沈黙が落ちる。

 やがて、ノエリアさまが先に口を開いた。


「……リーヴは、いつものように温室にいるわ」


 淡々とした声音だった。


「でも……出て行くときの様子は、あまり元気がなかったけれど」


 その言葉に、胸の奥が重く沈む。

 視線を落とした。


「申し訳……ございません……」


 言いかけて、言葉が途切れる。

 それでも、どうにか最後まで絞り出す。

 ノエリアさまは一瞬だけ目を細め、それから小さく首を振った。


「……あなたが謝ることではないわ」


 はっきりとした声音だった。

 その一言が、かえって逃げ場を失わせる。

 何も言えず、ただ沈黙だけが残る。

 同じ教室にいるはずなのに、距離だけが不自然に広がっていた。


 そのとき、教室の入口がわずかにざわめいた。

 振り返るまでもなく、気配でわかる。

 王太子ローレンス殿下が姿を現した。


 周囲の空気がわずかに引き締まり、視線が自然と集まる。

 堂々とした足取りで教室へ入り、そのままノエリアさまのほうへと向かっていく。

 身分としては、最も高い位置にいる存在。


 ──あの方にふさわしいのは、あれほどの立場なのだろう。

 無意識のうちに、周囲へと視線を巡らせる。


 騎士団長の息子。

 宰相の息子。

 魔術師団長の息子。


 名だたる家の令息たちが、この場に揃っている。

 誰もが、ノエリアさまと並び立つことを許される側の人間だ。


 それに比べて──自分は、子爵家の庶子に過ぎない。

 並ぶことを許される立場ではない。


 ここにいること自体が、どこか場違いに思える。

 視線を落とす。


 ──それでいいのか。


 胸の奥で、わずかに引っかかるものがあった。

 ノエリアさまが、自分を信頼してくださっていることは──間違いではないはずだ。

 それを、自惚れだと切り捨てることはできない。


 ならば。

 自分は、どうすればいい。

 何もできないまま、距離を取って、それで終わりにするのか。


 ふと、昨日の光景がよぎる。

 小さな手が、こちらへと伸ばされていた。

 届かないまま、空を切ったその手が、頭から離れなかった。


 ゆっくりと息を吸い込む。

 ──いや。

 これで終わりになどできない。

 自分には、まだできることがあるはずだ。


 あの方の隣に立つために。

 その資格に届くために。

 今のままで終わらせるつもりはない。

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