21.その背に、手を伸ばすこともできなかった
公爵邸へ戻る道すがら、リーヴはずっと腕の中に収まったままだった。
歩調に合わせてわずかに揺れるたび、小さな手が服を掴み直す。
離れる気配はない。
グレンが隣を歩いているのに、そちらへ移ろうともしない。
ただ静かに、私に体を預け続けている。
屋敷の門をくぐると、見慣れた石畳と庭の景色が広がった。
そのまま玄関へ向かおうとしたところで、控えていた使用人が一歩進み出る。
「ノエリアさま。長老さまがお待ちです」
その言葉に、私は足を止めた。
案内されるままに応接の間へ入ると、すでに長老が席についていた。
年季の入った椅子にゆったりと腰掛け、こちらを見る目は相変わらず鋭い。
「お戻りでしたか、ノエリアさま」
形式ばった一礼を受け、私は軽く頷く。
「ただいま戻りましたわ」
グレンも一歩下がった位置で静かに頭を下げた。
長老の視線が、まず私へ向けられ、それからゆっくりとグレンへ移る。
最後に、腕の中のリーヴへと落ちた。
ほんのわずかに、眉が動く。
「さて」
ゆったりとした口調で、長老が口を開いた。
「グレン殿が公爵邸に滞在しておられる理由は、紅魔病の病後経過の観察、それに過去に例のないシュプラウトの実体化の観察──そのように伺っております」
確認するような言い方だったが、その目はすでに結論を見据えている。
「ええ、その通りですわ」
私は短く答える。
長老は一度だけ頷き、それから静かに続けた。
「しかしながら……紅魔病の経過観察につきましては、すでに必要ないのではございませんかな」
わずかに視線を細める。
「二度の発症からの回復は確かに稀有な例ではありますが、現状を見るに、特段の異常は見受けられませぬ」
そのまま、今度はリーヴへと視線を向ける。
「それに──シュプラウトのほうも、もはや彼を必要としているようには見えませぬな」
もはや、彼をここに置いておく理由はない──そう言わんばかりの声音だった。
私は無言のまま、リーヴを抱き直す。
長老はその様子を見て、わずかに口元を歪めた。
「ご覧の通り。ノエリアさまに張り付いたままで、離れようともいたしませぬ」
静かに、しかし確実に結論を示すように言い切る。
室内に、わずかな緊張が落ちた。
私は一度、息を整えてから口を開いた。
「二回目の紅魔病発症からの生還は、これまでに例のないものです。現状が安定しているように見えても、まだ経過観察の必要があると判断していますわ」
長老の視線を正面から受け止める。
「それに……リーヴも、今日は特別な反応を見せました。魔物との接触を受けて、明らかに様子が変わっております。これは一時的な反応と考えるのが自然です。ですから、もう少し様子を見るべきかと思いますわ」
言い切ると、長老はわずかに目を細めた。
「なるほど」
短く相槌を打つが、納得した様子はない。
そのまま、ゆったりとした動作で背もたれに身を預ける。
「しかしながら──」
声音が一段低くなる。
「彼の実家、ベルマー子爵家が、少々勘違いをしておりましてな」
空気がわずかに変わる。
長老は視線をグレンへ向けず、あくまで私に向けたまま言葉を続けた。
「ノエリアさまの婿として、いずれ次期公爵の座に就けると考えているようでして」
淡々とした口調だったが、その内容は軽くはない。
「そうなれば、当然ながら監督する者が必要になる。ベルマー子爵自らが後見人として実権を握るつもりのようですな」
一拍置いて、わずかに口元を歪める。
「常識知らずも、ここに極まれり、ですな」
静かに落とされた言葉が、室内に重く残る。
隣で、グレンの気配がわずかに揺れた。
「……父が、そんなことを」
低く押し出された声だった。
否定しきれない響きが混じる。
驚きだけではない。
どこか、覚悟していたものが現実になったとでもいうような、静かな受け止め方。
長老はその反応を一瞥し、わずかに頷く。
「家を狙う者を置いておくわけにはいきませんな」
言い切る声音に、迷いはない。
その言葉に、グレンは一瞬だけ視線を落とした。
そして、静かに顔を上げる。
「……ここにいることで、あなたの立場を危うくするのであれば」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「僕は、ここにいるべきではありません」
はっきりと、そう言い切る。
それは、誰かに言わされたものではない。
自分で選び取った言葉だった。
「勝手に決めないで。……それでいいなんて、思っていないでしょう?」
思わず、言葉がこぼれていた。
問いかけたつもりだったのに、その響きはどこか、引き留めるような色を帯びている。
グレンはわずかに目を伏せた。
「ですが、ノエリアさまは次期公爵となられる方です」
静かな声だった。
けれど、その言葉は揺るがない。
「弱みを作ってはなりません。僕が出て行けばよいだけです」
一切の逡巡を感じさせない言い方だった。
「大丈夫です。学園でもお会いできますし、リーヴの様子も、そちらで見せていただけますから」
淡々と、事実を並べるように続ける。
そこには、感情を差し挟む余地がなかった。
「やはり優秀でいらっしゃる。……ご自身の立場をよく理解しておられる」
長老が満足げに頷く。
その声が、やけに遠く聞こえた。
引き留めたい。
その思いだけは、はっきりとあるのに。
けれど──そのための言葉が、見つからない。
「……すぐに、出ます」
グレンはそれだけ言って、踵を返した。
迷いのない足取りだった。
その背が、離れていく。
そのときだった。
これまでずっと私にしがみついていたリーヴが、ふいに体を起こす。
小さな手が、空を掴むように伸びた。
そして──グレンの背へと、その手が向けられる。
まるで、引き留めるように。
けれど、その距離は埋まらない。
指先は、何にも触れないまま空を切った。
それでも、その手はしばらく下ろされなかった。
——私は、手を伸ばすことさえできなかった。




