20.誰と並ぶかは、私が決めます
リーヴは、腕の中で静かにしていた。
先ほどまでの落ち着かなさが嘘のように、今はただ、ぎゅっと服を掴んで離れようとしない。
小さな体を預けるように寄せてくる重みを感じながら、私はその背を軽く撫でた。
──魔物との接触があったからかしら。
あの坑道の奥で起きた出来事を思い出す。
目に見えない何かを感じ取ったとしても、不思議ではない。
まだ、不安が残っているのだろうか。
そう考えたところで、足音が近づいてきた。
「ノエリアさま」
振り返ると、グレンがこちらへ歩いてくるところだった。
表情は落ち着いているが、どこか急いできた気配が残っている。
「戻ったのね。大丈夫だった?」
「はい、問題ありませんでした。教師の方々も確認に向かわれましたが、特に異常はないそうです」
その言葉に、胸の奥に残っていた緊張がようやくほどけた。
「そう……よかった」
小さく息を吐く。
思っていた以上に、気が張っていたらしい。
「戻った者から解散とのことです。今日はこのまま引き上げるようにと」
「ええ、聞いているわ」
頷きながら答えると、グレンは私の腕の中へ視線を落とした。
リーヴは相変わらず大人しく、こちらに体を預けている。
「……リーヴは、落ち着いたようですね」
ほっとしたように、わずかにグレンの表情が緩む。
その様子に、私も視線を落とした。
「ええ。さっきまで落ち着かなかったのだけれど、今はこの通りよ」
言いながら、背を軽く撫でる。
指先に伝わる体温は、いつも通りだ。
グレンは一瞬だけ様子を見てから、そっと手を差し出した。
「お疲れでしたら、代わりましょうか」
いつものように、自然な提案だった。
けれど──リーヴはその手に反応することなく、私の服を掴んだまま離れない。
むしろ、ほんのわずかに力を強めたようにも感じる。
グレンの手は、そのまま静かに止まった。
「……まだ落ち着いていないみたいですね」
無理に触れようとはせず、引き取ることもせず、ただそう言って手を下ろす。
「そうね」
私も小さく頷く。
腕の中の重みを感じながら、視線を落とした。
いつもなら、グレンが手を差し出せばリーヴはそちらに移る。私とグレンと、どちらかに偏ることはこれまでになかった。
「もしかしたら……魔物が出たことを感じ取って、心配しているのかもしれないわ」
そう口にすると、グレンがわずかに目を細めた。
「……そういえば、魔物が出たと」
確認するような声音だった。
私は頷く。
「ええ。奥で、少しだけ接触があったわ。大事には至っていないけれど」
簡潔に告げると、グレンは一瞬だけ言葉を止めた。
その沈黙は短いものだったが、はっきりと意味を持っていた。
「……そう、でしたか」
低く落ち着いた声で返される。
それ以上は何も言わない。
責めることも、問い詰めることもない。
ただ、視線がほんのわずかに、私とリーヴのほうへ向けられたままになる。
そのまなざしに、私は少しだけ息をついた。
そのとき、周囲からひそひそとした声が聞こえてくる。
「あの二人、距離近くない?」
小さく潜められているつもりなのだろうが、完全には隠しきれていない。
「だって、あのシュプラウト……リーヴだっけ。あの二人のペアで生まれたんでしょう?」
「だからって、婚約者でもないのに」
「相手、子爵家だよね。しかも……」
言葉がわずかに濁る。
「ノエリアさまって、前は殿下を追いかけていなかった?」
「確かに、相手なら殿下の方がずっと自然よね」
断片的な言葉が、風に乗るように耳に届く。
──くだらないわね。
そう思う。思うのに、完全には無視しきれない。
私は視線をわずかに伏せ、それから何事もなかったように顔を上げた。
そのとき、別の気配が近づいてくる。
「カルディナート嬢」
呼びかけに顔を向けると、ローレンス殿下がこちらへ歩み寄ってきていた。
いつものように堂々とした立ち姿だが、どこか、ほんのわずかに歯切れが悪い。
「後日でいい。今回の振り返りをしておきたい。今回は少々、危険なこともあったからな」
言葉自体は変わらない。
けれど、その声音には、わずかな迷いのようなものが交っている。
私は軽く頷いた。
「ええ、必要なことだと思いますわ。後日、皆で時間を取るのがよいかと存じます」
そう返すと、ローレンス殿下の表情がわずかに緩んだ。
「そうだな」
短く答えるその様子に、少しだけ安堵の色が見える。
──褒めておくことも必要ね。
私は続けて口を開いた。
「今回の魔物は、殿下の迅速な対応で皆が助かりましたわ。改めて感謝申し上げます」
率直にそう告げると、ローレンス殿下は一瞬、言葉を失ったように見えた。
それから、わずかに視線を逸らし、少し困ったように眉を寄せる。
「……当然のことをしたまでだ」
素っ気ない言い方だったが、どこか落ち着かない響きがあった。
そのまま踵を返しかけた彼は、ふと、私の腕の中へと視線を向ける。
リーヴが静かに収まっている。
その光景を一瞬だけ見て、ローレンス殿下の表情がわずかに揺れた。
ほんの一瞬、複雑な色を帯びたそれは、すぐに消える。
何も言わず、そのまま視線を外し、ローレンス殿下は歩き去っていった。
ローレンス殿下の背が人波に紛れて見えなくなったころ、ふと隣の気配が遠いことに気づいた。
視線を向けると、グレンがほんのわずかに距離を取って立っている。
先ほどまでより一歩分ほどだろうか。たったそれだけなのに、妙に遠く感じられた。
「どうしたの?」
問いかけると、彼は一瞬だけ顔を上げ、すぐに視線を落とした。
「お待たせしてごめんなさい。帰りましょう」
私はいつも通りの調子でそう続ける。
グレンは少しだけ間を置いた。
何か言いかけて、やめたような、そんなわずかな迷い。
「……はい」
応えるその声はわずかに硬かった。
先ほどまでと同じはずなのに、ほんの少しだけ距離を感じる。
ああ、そう。
周囲の言葉が、頭の中で反芻される。
──婚約者でもないのに。
──相手なら殿下の方が自然。
……くだらない。
そう思うのに、胸の奥がわずかにざわつく。
私は一歩、踏み出した。
離れかけていた距離を、元に戻すように。
「グレン」
呼びかけると、彼が足を止める。
振り返ったその表情は、いつもと変わらないはずなのに──どこか、わずかに遠い。
だからこそ、口を開いた。
「一緒に帰るのでしょう?」
一瞬だけ、間があく。
それから、グレンの目がわずかに見開かれた。
「……はい」
今度の返事は、先ほどよりも少しだけ柔らかかった。
私はそのまま、彼の隣に並ぶ。
リーヴが腕の中で、ようやく力を抜いた。
まるで、正しい位置に戻ったとでも言うように。
──やっぱり。
私は、わざわざ距離を取るつもりはない。
理由をつけるほどのことでもない。
ただ、こうして並んで帰るのが、しっくりくるだけ。
それで、十分だわ。




