32話 未熟な心
不意なハプニングによって。
足を滑らせた幸乃に、航は手を伸ばした。
額に痛みが集中して悶絶する彼女は涙目で。そこにあるのは健気で年相応の姿があった。勝手な偏見とは違い、自分らしさを包み隠そうとしない真っ直ぐな性格に、航は彼女にある本性が「人あるべきもの」だと納得する。
過去に奪われてしまった、―――日本人らしさを。
「……うん。その様子だと、かすり傷が出来てしまったみたいだな」
「うー、痛い……」
何気に幼稚になってないか?
というアンニュイな雰囲気に航は思わず肩透かしを受けてしまった。奇妙な空気に流されないよう、苦笑を浮かべていた航は首を振っては背筋を伸ばす。
気を取り直して視線を戻してみると。目を疑う情景がそこには広がっていた。
あまりにも情けない姿を露呈する幸乃がいた。
「うう、ごめんね。ホントは、怖かったんだ……」
「千駄木……」
無垢だった。当時の淡い面影を残して。
こちらを見つめる瞳は涙が今すぐに溢れてしまいそうになっていて。
どんなに心が強くても。どんなに勇気を振り絞っても。
人は弱い。正直に言ってしまえば弱い生き物に変わりはない。一般人が得た常識を反する違和感に遭遇し、度重なる危機の連続に無意識で抑えていた感情は剥がれてしまい、疲労困憊する情緒は不安定になりかけていた。
無理もないだろう。
現実の狭間を覗く超常現象が具現化した怪物の正体が、無神経に吹き出す人の負の感情によって創製された存在であり、真実を隠す、醜悪に溢れた心の呪いは、隠し続けていた抗えない本能の裏側の姿なのだと。
まるで。光から生まれる影のように。
本当は何処にでもある現実世界の『闇』を幸乃は覗いてしまった。
取り返しの付かない深淵を覗いてしまった。
「……千駄木は頑張ったな」
労いの言葉を掛けても。きっと経験した恐怖は潰えない。
傷付いた額に波動の力で治癒させる。なぞる指で触れた箇所に傷が癒えていく。
一般人という枠組みが薄れてしまう。
無性に罪悪感が押し寄せてくる。彼女に掛かる無数の圧力は無駄に生々しさを増幅するばかりだ。守る為の犠牲には相応の代償を払うしかなく、眼光を鋭くなる航は、紡いできた糸が八つ裂きにされる感覚を覚えた。
これが因果律のタブーだとしても。
意志が途絶えたとしても。
やがて迫る最悪のハッピーエンドから救ってみせると、航は覚悟を決めたのに。
「うん……」
それでも。
涙を流して感情を溢す幸乃に、胸の前でぎゅっとしがみ付かれた航は―――。
―――彼女を抱くことはしなかった。
瞳の奥に焼き付いた景色の数々も。人々の触れ合いで傷付いた数々も。
日比谷航という少年は。
千駄木幸乃が感じた痛みは何も知らない。
人は残酷な生き物だった。甘い言葉で萎れた心を浸されていく。鋭い言葉で心に亀裂を走らせていく。他の生物には無い独特の愛情表現だ。他人の気持ちを完全に理解出来ないのに、想像を重ねた容赦のない偽りの言葉を使って人の意識を塗り替えていく。そうして、欺瞞に満ちた世界が今日を作り上げた。
最も愚かな生命。それが人の間にいるモノ。
愛情と性欲で出来上がったオブジェは孤独なままだとは知らずに。
空になった容器に求めているのは。
―――蕩けるような。どこか水っぽさを含む愛だった。
「……あの日から、ずっとだよ。日比谷くんの背中を、追い掛けてきたんだ」
「……!?」
あの時と同じ、瞳の色をした。
恐怖を植え付けられた悪夢のような瞬間。拒絶する心は絶望に満たされた。一生背を追うトラウマに、救いの手を差し伸ばす航が見た景色は。
色の付いた綺麗な世界だった。
(彼女は、千駄木は、一体何が起きようとしている?)
縋る彼女が映る景色に後光が差し込んでいて。
中庸の時間帯に現れる黄金に輝く日差しは夢でも見ているかのような、幻想に囚われた感覚に陥る。希望が絶望を砕く前に見せた彼女の意思は。
彼女は元々。航が関与する以前から。
心の影に潜む怪物を断ち切る為の、抗う術を持っていたのだ―――。
偶然。
何気ない簡単な言葉で済まされる話ではない。
(そんなまさか。千駄木は、意識だけで波動を目覚めさせたというのか……!?)
例外の例外。
イレギュラーな存在。
刮目した世界に訪れる奇蹟は縛られた運命さえも覆す。善悪を兼ね備えた彼女の比類なき強さ。末恐ろしいほどの波動の素質を秘められた心は、限られた理の中で、巡り変わる世界であろうと決して潰えることはない。
それはまるで。
―――邪悪を焼き焦がす『太陽』のように。
(……有り得ない。俺はただ、勇気付けるキッカケを与えたに過ぎない。なのに、彼女の心の中には熱い波動が眠っていた。それだけじゃない。今まで敷かれていた固定概念が覆ることは、俺が墜される立場になるのか……!)
末恐ろしかった。
燦々と煌めく彼女の純粋な心の中に。唯一持っていないものがある。
予兆はあった。違和感を覚えた。足元が自然と掬われる。背後からは音をする気配がする。ただならぬ却火の波動が次第に寄せ付けて。
彼女の僅かな温もりが。航の痛みとなる。
「待ってくれ、千駄木!」
使い捨ての命を削った。残された時間さえも放り投げた。
運命に縛られた人生に気付き、尚受け入れても、代償を払う贄の価値はあまりにも犠牲が多すぎて。失うばかりの景色に溶け込む自分は『本物』ではなくても、残してきた足跡は誰かがきっと辿ってくれる。
意志は潰えても。受け継がれるものだと分かっていた。
なのに。それなのに。
「ッ!?」
呪いを焼き尽くす奇跡の領域を刮目すれば。
手にした景色は全部不完全なままで。不完全な景色は何処までも偽物のままで。航が佇む場所は上辺だらけの繭の亡骸。人の信念さえも簡単に覆される。脅威となる存在がいる限り、叛逆の意志は地上に届かない。
ただし。
これだけはハッキリと言えるものがあった。
千駄木幸乃は日比谷航の覚悟を越える。その日という運命は必ず訪れると。
火傷した指に表情を曇らせる航を唖然とさせたのは。
「心の中に、闇が……」
涙を流す彼女の姿に感傷される心の残滓。
愛に似せた闇が輝いた。他人を否定する負の感情そのものを飼い慣らして。
隠されていた本性は目覚める。浸かり果てた心の憂愁を見破れていなかっただけなのだろうか。必死にしがみ付こうと離さない少女の痛みは。
幸乃の痛みは。甘える子供みたいに爆発させた。
少しだけ。彼女のことが怖かった。
「憧れだった。格好良かった。私もあの人みたいになれたならって。沢山努力をしてきたんだ。沢山楽しいこともあった。沢山辛いこともあった。それでも私が私で居られるのは、日比谷くんが、私を助けてくれたから……ッ」
「……」
切なる言葉を耳朶に触れる。
絶対的な正義。完璧な善意。安寧に結び付く秩序が訪れる日は来ない。人の心は善悪で担うからこそ美徳が生まれる。完璧な思想では狭い景色は掠れてしまい、いずれ真実に到達することはなく、曇る眼には破滅に向かう自身の姿を映すという。
そこに完成された善はなく。相反する悪も成り立たない。
善悪の両方。
何も交わらない中立の世界観。どちらに偏らない意志を持たなければ。
幸乃は自分自身の愛に殺されてしまう。
「嬉しいんだ。日比谷くんと一緒に居られる時間が、とても居心地がいいの」
「千駄木。戻るんだ。君も心を歪ませてしまえば駄目になるぞ!!」
届かない。
安らぎを求めた彼女の弱音が。航の中にある本来の意識を歪ませる。
熱い。彼女自身が熱い。鈍い感覚でも分かる。燃焼していく感情の起伏が。幸乃の体を狂わせる欲望が煮え滾ることを。
行動の源となる情愛が。潜んでいた『招き手』を呼び寄せる。
その燃え盛る『招き手』を利用して。
心の暴走は始まる。




