33話 不完全人間
抑えきれない心の衝動が爆ぜていく。
濁る。視界が濁る。
ドロドロに溶ける愛着の呪いは無防備になった身体に迫って。
息が詰まりそうな魅惑的なトワレが航の意識を奪おうと畳み掛ける。密着された空間を包む妖艶な雰囲気の中では、逃げられる隙間を探すのは困難を極める。
轟々と燃え盛る『招き手』はベンチで眠る秋葉月子を取り囲み。
肉体を奪われた幸乃にしがみ付かれた航は。
息を呑んだ。
「なんてことだ……」
瞬時に息を止める。珍しく怒りの感情を愚痴として表世界に溢していく。
豹変した景色を見渡すと。そこには日常が消されていた。
「俺の責任だ。千駄木を暴走させてしまったのは、俺自身がトリガーだったんだ。何も知らずに引き金を引いて。千駄木は縫子に魅入られてしまったのか……」
制御出来ていない未熟な波動は外に流出されて。
宙に漂う害意の霞に弄ばれるように貪り喰われていた。鋭い悲鳴を上げる波動も虚しく、意識を朦朧とする甘い匂いを嗅ぎ付けた情動の欠片も反応して。
白い公園は原型を留める意味を消して、薔薇色の極彩に変わり果てた。
「そして、お前は一体何者なんだ?」
目の前で微笑む彼女は、
明るい仕草を振る舞う『千駄木幸乃』ではない。
顔が見えない。ホワイトノイズが遮るようにして掛かっていたのだ。
「私は、―――センダギ・サチノ」
にやりと嗤う女は色欲のままに身体を絡めようとする。
死を連想させる甘い香りを航に侵食させる為に、彼女の肉体を餌として誘惑を試みる。触れると柔らかくて。ほのかに温かい肉質に抵抗するが、厭忌を纏う波動の渦が都合よく邪魔させてしまい、降り下ろした反撃の一手が届きそうにない。
思い浮かぶ幸乃の面影がフラッシュバックして。
判断が鈍る。
(まずい、このままだと、人格が乗っ取られる……!)
久しぶりに痛感する危機の訪れ。
嫌悪を知らせる汗が頬に伝うことも許されず。
イタズラする縫子に乗っ取られた千駄木のペースは過剰になるばかりだった。
強引に引き剥がすことも考えた。波動による覇気だけで吹き飛ばすのはあまりにも容易だった。しかし、華奢な身体を動かす魂の主は幸乃本人であり、これ以上、彼女が傷つけられる姿は見たくない。約束を破るのは違う気がする。航が想像した事態の重大さがより一層と深刻で、扱いにくい立場に追いやられていた。
最も苦手とする、唯一無二の相手を前にして。
(というか! なんで心の波動が暴走するようになっているんだ!?)
正直辻褄が合わない。インパクトを発生する為の因果が足りていなかった。
事の発端となる航がトリガーの役目になったのは。
彼女の意思ではない。
外部による汚染された呪いこそが、心の暴走を引き起こす原因だった。
(……まさか、外部による影響なのか!?)
唖然とした航は疑心を煩う。
気付いていた。日比谷航単体では千駄木幸乃は暴走しないことを。
侵食は発生しない。元々機能しないのだ。それなのに、航がトリガーの役目を担うことになってしまったのは、陰で蠢く第三者による介入がインパクトを引き起こしたとしか考えられない。
(もし、そうだとすると……、はっ!)
外部による影響が。
幸乃を暴走させる起爆剤となり、事態を狂わせたアイテムが発動したとすると。
その可能性が。少しでも痕跡が漂うのであれば。
翼のある自由を留めることができる。彼女を守りたいという戦う意味ができた。未だに正解の数式には辿り着いていないが、幸乃の心に暴走を促すほどの、心髄の中で眠る縫子が反応するほどの、膨大な心の輝きを増長させた。
今回の事件の根源となる。
舞台装置と呼ぶべき呪いの存在が、白い公園の何処かに潜んでいるに違いない。
無いとは言い切れない。むしろ。大いにある方だ。
「日比谷くんどうしたの? どこか様子がおかしいよ……?」
「それはこっちの台詞! おかしいのはお前! あーもう、俺の側に近寄るな!」
伸ばしてきた細い腕。航の首元に向けて抱擁しようとする。それでも自我が強い航はカチンと頭に来て。腕力のみで幸乃の両腕を掴んでみせた。
「お前なんかに、お前なんかに! 心を委ねてたまるかッ!!」
勝利の道標はまだ見捨てていない。
たとえ劣勢の中に陥ることはあっても、諸悪に楯突く姿勢は崩さない。一筋の光が差し込むその時を迎えるように。解決に続く糸口を模索する為に、航は立ちはだかる困難さえも未来を取り戻す糧にする。
叛骨の意志が繋ぎ続ける限り。
本物の世界に、晴天の夜明けが訪れるということを。
暴走する千駄木を正しい道に導かなければ。誰かのために戦ってきた意味が。
無くなる。水の泡となってしまう。
「くっ……、頭がクラクラしてくる……」
腕を力んだ影響で我慢していた肺は限界に達していた。
幻惑を含ませた香りが神経を麻痺させて、思考回路をショートさせようとする。歯噛みした航は躊躇なく唇を噛んだ。途端に滴る血を無視して、痛覚を頼りに横暴でわがままな彼女の心の暴走を歯止めとなる答えを模索する。
だがしかし、最悪な状況は依然変わりなく。やがて限界は達するだろう。
ならば。その前に決着を付けてしまえばいいと。
打破を決意する航は。
物理的に。目の色を変える。
「……これだけは使いたくはなかったけど」
端から負けるつもりはなく、敗北という意味も興味がなく、原点となる波動の持ち主が似合う気高き誇りは現代にまで受け継がれた。
相応しい認知的適応だけか見据える世界。宿命を目覚めに変わる清福は。
「俺は、千駄木を助けたいんだ」
―――心の波動を解放させた。
「『鏡眼』―――!!」
瞑る瞳。そして、再び見開かれた瞳の色は深紅の炎を宿す。
赤い一線を描く眼光。燃えるように透き通る色彩。
宙に浮かんだ波動の残留を喰らう害意の霞を快然たる支配力で吹き飛ばして、囲むように埋め尽くされた、深い安らぎにつく秋葉月子に付き纏う招き手の大群だけを、狂飆の波に呑み込まれては灰燼と化した。
一瞬だった。
空間を制圧する波動の衝撃波。押し潰す厳かな圧力が濁流していく。
脈動は止まらない。座標がズレる。白い公園に無重力状態を生み出す心の解放。人間がもたらす質量とは桁違いのエネルギーが発射されて。
ほんの少しだけ。
世界の均衡が崩れ掛けていたことに。
「お前に潜む悪意は何処だッ!!」
顔を近づかせる彼女に向けて頭突きが炸裂。
忽ち、乗っ取られた幸乃はぐらりと後退し、身体を仰け反る姿勢に変わる。両腕を拘束していた手でなんとか彼女の身体を支えようとするが、
伸ばしたハズの手には幸乃の華奢な手が絡み合っていたのだ。
しかも恋人繋ぎで。
「……!」
更には利き腕の手を伸ばしていた。拘束から逃れようとして強引に振り払う。
思わぬ形で虚を衝かれた航は完全に体勢を崩しており、突如として現れる不意打ちに手を離してしまうものの、顔色には焦燥が全く見られず、それどころか水面のように、淡々とした身のこなしを維持したまま、大きく弾かれた手はその先を行くスピードで華奢な手を容易く捉えてみせた。
そして。振り出しに戻る。
千日手のような取っ組み合いが始まった。
「それにしても、なんだこの物凄い腕力は。パワフルにも程があるって……」
困難と愕然を交える。
秘められた身体能力の強さに知的好奇心が昂ぶる。
非の打ち所がないルックスとは異なる部分を垣間見れて、緊張感が途切れそうになりかけた。嘲笑う彼女の姿が現実に戻される。触れられる距離の危惧はそう簡単には解消されないと腹を括ってきたつもりだ。
ただし。似つかわしくない彼女の微笑みを目に留めれば。
殺意の眼光を覚える。
奴は、―――愉快に賤しんでいた。
「……それが、お前を作り出した、野望の結晶なのか」
想う愛に反応した縫子。罪のない幸乃を操る憎悪の連鎖は止まることを知らず。何もない空間を強引に歪ませるのは、他人の心を踏み躙る下劣な正体。
心の思うがままに。
物理的法則を無視した深淵の渦は生まれる。
地面を抉じ開けて、航と幸乃の二人を呑み込もうとする。着々と侵食されていく白い公園に覗く影は現れては瞬きを繰り返す。光を吸収する漆黒の世界から這い上がる者は、もはや人間と呼ぶべきなのか逆らうほどに。
全く異なる存在。成り損ないの化身は頭部が欠損していた。
歪人の対となる愚かな姿。人の形をした紛い物。不完全に出来上がった悪意の擬人化は、潤い輝く本物の身体を求めて、今にも折れそうなほどの、枯れ果てた手を伸ばす。生に漬かる現世の住人を地獄に誘う為に。
道連れを引き起こす―――。




