第9話 異世界最初の夜
冒険者ギルドを出るころには、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
「さて、と……」
通りの真ん中で立ち止まった。
冒険者にはなった。
剣もある。
身分証代わりになるギルドカードも手に入れた。
問題は--
「今日、どこで寝るのよ?」
さすがに野宿はしたくない。
今日だけで、森の中を歩き回り、ホーンラビットと戦い、
何時間も歩いてグレヴァンまでやって来たのだ。
できればベッドで寝たい。
できることなら、身体も洗いたい。
そこでギルドの受付嬢におすすめの宿を聞いたところ、
いくつか候補を教えてくれた。
一番安い宿なら、もっと安く泊まれるらしい。
しかし--
「銀の小鹿亭なら少し高いですけど、お風呂がありますよ」
その一言で決まった。
「風呂には勝てない」
異世界生活初日から風呂なし生活を始めるほど、ストイックではない。
銀の小鹿亭は、ギルドから歩いて十分ほどのところにあるらしい。
りそなは教えてもらった道を歩き始めた。
グレヴァンの大通りは、日が沈み始めてもまだ人通りが多かった。
仕事帰りらしい男たち。
買い物袋を抱えた女性。
走り回る子供たち。
その間を、荷車や馬車が行き交っている。
「こうして見ると、普通の街なのよね……」
異世界。
剣と魔法。
魔物。
冒険者。
そんな単語ばかり聞かされていたので、もっと物騒な場所を想像していた。
だが、そこで暮らしている人たちの日常は、
自分の知っている世界とそれほど変わらない。
違うのは--
「おっ、嬢ちゃん! 焼きたてだぞ!」
屋台から威勢のいい声が飛んできた。
見ると、串に刺した肉が炭火の上で焼かれている。
じゅうじゅうと脂が落ち、そのたびに香ばしい煙が上がった。
「……おいしそう」
そういえば昼から何も食べていない。
「一本いくらですか?」
「十セルだ」
「十セル……」
財布を取り出し中身を確認する。
女神リュミエラから渡されたこの世界の貨幣。
手持ちは三千セル。
金額だけ聞いてもまだ実感が湧かなかったが、
こうして実際に物を買えば、少しずつ感覚も掴めてくるだろう。
「一本ください」
「はいよ!」
受け取った串焼きから、香草の匂いが漂った。
肉は何の肉か分からない。
聞くべきか。
聞かないほうが幸せか。
少し考え--
「いただきます」
考えるのをやめて、かぶりついた。
「……う、うまい」
少し臭みはあるが、
濃いめの塩味と香草が効いている。
「ちょっとアジアンチックかも」
「アジアン?」
「こっちの話です」
屋台の男が首をかしげる。
りそなは串焼きを食べながら、そのまま通りを歩いた。
パン。
野菜。
果物。
干し肉。
酒。
衣服。
生活雑貨。
店先に値段が書かれているものを見つけるたびに、足を緩めた。
「串焼き一本が十セル……食堂で普通に食べると三十から八十セルくらいか」
ギルドでも相場は聞いていたが、実際に街を歩いてみると実感が違う。
安いもの。
高いもの。
日常生活にどれくらい金が必要なのか。
ようやく、この世界の金銭感覚が少しだけ見えてきた。
「三千セルあっても、ずっと遊んで暮らせる金額じゃないわね」
宿代もかかる。
食事代もかかる。
服や装備も、そのうち必要になるだろう。
「……やっぱり明日から働こう」
◇
「ここか」
銀の小鹿亭。
二階建ての木造建築で、入口の上には銀色の鹿を描いた看板が
ぶら下がっていた。
「いらっしゃい!」
明るい声が飛んできた。
カウンターの向こうにいたのは、恰幅のいい中年女性だった。
栗色の髪を後ろでまとめ、エプロンを着けている。
「あの……、ギルドの紹介で……泊まりたいんですけど」
女性は笑顔で答えた。
「私はローザ。この宿のおかみだよ」
「白石りそなです」
「リソナ・シライシ……?」
「あ、りそなでいいです」
「じゃあ、リソナね」
ローザは帳面を取り出した。
「一泊、夕食と朝食付き。風呂を使うなら--」
提示された金額を聞いて、りそなは一瞬だけ黙った。
確かに、受付嬢の言った通り。
安宿と呼ぶには、少々高い。
「……お風呂、あるんですよね?」
「あるよ。ちゃんと湯を張った風呂だ」
「泊まります」
即答だった。
ローザが笑う。
「風呂が好きなんだね」
「今日、森の中を歩き回ったので……」
そのとき、奥から少女が顔を出した。
「母さん、お客さん?」
「ちょうどいいところに来た。フィア、この子を部屋まで案内してやって」
「はーい」
少女はりそなを見る。
りそなと同じくらいの年齢だろうか。
明るい茶色の髪を肩のあたりでまとめた、快活そうな少女だった。
「泊まり?」
「うん。冒険者ギルドで紹介されたの。」
「冒険者!」
「今日なったばかり」
フィアの目が輝いた。
「じゃあ、この街に来たのも今日?」
「今日」
「どこから来たの?」
「それは……」
りそなが一瞬詰まる。
「かなり遠いところ」
「へえー!」
幸い、フィアはそれ以上追及しなかった。
「私、フィア。よろしくね」
「よろしく、フィア」
そのまま二階へ案内される。
「ここが部屋。お風呂は一階の奥。夕食は下の食堂ね」
「ありがとう」
「ねえ、冒険者ってどんな感じ?」
「まだ登録しただけだから分からない」
「魔物と戦ったことは?」
「今日、ホーンラビットと」
「えっ!」
フィアがさらに食いついた。
「倒したの?」
「一応」
「すごい!」
「いや、全然すごくないから」
初撃を外した。
剣を振り回した。
逃げられそうになった。
最後は必死だった。
あれを格好いい冒険譚として語る勇気は、りそなにはない。
「ねえねえ、あとで詳しく聞かせて!」
「いいけど、面白くないよ?」
「いいの!」
どうやら同年代の女の子ということもあり、
フィアとはすぐに打ち解けられそうだった。
異世界に来てから、まともに雑談できる相手など初めてである。
ちょっと嬉しかった。
◇
「はぁぁぁぁ……」
湯船につかった瞬間、りそなの口から声が漏れた。
「生き返る……」
肩まで湯につかる。
今日一日の疲れが、身体から溶け出していくようだった。
森。
ホーンラビット。
女神リュミエラ。
冒険者ギルド。
あまりにも色々ありすぎた。
「私、本当に異世界にいるんだ……」
今さらながら実感する。
昨日まで普通の高校生だったのに。
「人生、何があるか分かんないよね」
正確には一度死んでいるので、人生と呼んでいいのか微妙だが。
りそなは湯船の縁に頭を預けた。
「まあ……考えても仕方ないか」
明日のことは明日考えよう。
今は風呂だ。
少なくとも--
「風呂のある世界でよかった」
◇
翌朝。
りそなは銀の小鹿亭の食堂で朝食をとっていた。
パンとスープ、それに簡単な卵料理。
豪華ではないが、昨日一日まともな食事をしていなかった身体には
十分だった。
「おはよう、リソナ!」
声を掛けられて振り向くと、フィアが食器を抱えて立っていた。
「おはよう、フィア」
「よく眠れた?」
「ぐっすり。お風呂にも入れたし」
「でしょ? うちのお風呂、けっこう評判いいんだから」
フィアが少し得意そうに胸を張る。
「それで、今日はどうするの?」
「ギルドに行って、何か仕事を探してみる」
「今日から仕事?」
「冒険者になったからには、働かないとね」
「そっか。気をつけてね」
「ありがと」
朝食を食べ終え席を立った。
「ごちそうさまでした」
「行ってらっしゃい、リソナ!」
「行ってきます」
宿を出る。
朝のグレヴァンは、すでに動き始めていた。
店が開き、荷車が行き交い、冒険者らしい者たちが街を歩いている。
「さて……」
冒険者ギルドへ入る。
昨日より人が多い。
依頼掲示板の前には何人もの冒険者が集まり、
貼り出された紙を眺めていた。
りそなも、その後ろから覗き込む。
「討伐……護衛……荷物運び……採取……」
当然だが、仕事は選ばなければならない。
新人がいきなり危険な魔物の討伐など受けられるはずもない。
そもそも受注資格がない。
自分のランクで受けられる依頼を探していると
目に留まったのが--
「薬草採取」
アリネ草。
大森林の浅層に生えている薬草。
最低十束。
規定量を超えた分については追加で買い取り。
「これなら……いけるかな」
昨日歩いた森だ。
浅層なら、比較的弱い魔物しか出ないと聞いている。
それに採取なら、わざわざ魔物と戦う必要もない。
依頼票を手に取り、受付へ向かった。
「この依頼、お願いします」
受付嬢のエリナが依頼票とギルドカードを確認する。
「アリネ草の採取ですね」
「はい」
「大森林の浅層で採れます。最低十束。
状態が悪いものは数に入りませんので注意してください」
「分かりました」
「それと--」
エリナの表情が少しだけ真面目になる。
「浅層でも魔物は出ます。
採取に夢中になって周囲への警戒を怠らないでくださいね。
できれば経験者と組んで行って欲しいのですが……」
魔物は昨日すでに身をもって経験している。
ギルドカードと依頼票を受け取った。
初めての仕事。
薬草を採って帰ってくるだけ。
冒険者としては、これ以上ないほど地味なスタートだ。
「よし」
りそなはギルドを出た。
このときは、まだ知らなかった。
薬草を採るだけ、簡単な仕事のはずだったのに……
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