第23話 帰り道
愛華はリビングの中央に立ち、ゆっくりと部屋を見回した。
誰もいない。
少なくとも、今の愛華の目には。
――カチッ。
意識をひとつ、
現世の上のチャンネルへ切り替える。
部屋の色彩が薄れ、外を走る車の音も遠くなった。
リビングの隅。
カーテンの前に、うっすらと人影が見える。
二十代くらいの女性。
長い髪を垂らし、俯いて立っている。
その身体には、黒い靄のようなものがまとわりついていた。
「半分、悪霊化してるのね」
このまま放っておくのは、あまり良くなさそうだ。
――カチッ。
――カチッ。
今度は二つ、
チャンネルを下げる。
ぼやけていた女性の輪郭が、はっきりした。
青白い顔。
首には黒ずんだ痕が残っている。
女性が、ゆっくりと顔を上げた。
「……誰?」
「能登愛華。ここの管理会社から頼まれて来たの」
「出てって」
「そうもいかないんだよね」
「出てって!」
女性が叫んだ。
部屋の空気が震える。
テーブルの上に置かれていた空き缶が床へ落ちた。
カラン、と乾いた音が響く。
「それ、やめた方がいいよ」
「……?」
「人を怖がらせるの」
「みんな私を追い出そうとする!」
「うん」
「ここは私の家なの!」
「今は違うよ」
「何も知らないくせに!」
「知らないよ」
愛華はあっさり答えた。
「だから聞きに来たんだけど」
「…………」
「何があったの?」
女性は愛華を睨んでいた。
愛華は動かない。
「いきなり追い出したりしないから。話してみてよ」
「……話したって、どうにもならない」
「どうにもならないかどうかは、聞いてから考える」
「…………」
「時間ならあるよ」
女性の表情から、わずかに険が消えた。
◇
最初は、途切れ途切れだった。
女性は少しずつ、自分のことを話し始めた。
ここで暮らしていたこと。
彼氏に捨てられ、お金をだまし取られたこと。
誰にも相談できる人がいなかったこと。
そして、生きることが嫌になったこと。
「……死んだら、全部終わると思った」
「うん」
「でも、終わらなかった」
「そうだね」
「ずっとここにいる」
「うん」
「誰かが入ってくるたびに、腹が立つの」
「自分の家だから?」
「……分からない」
女性は俯いた。
「楽しそうにしてる人を見ると、腹が立つ」
「そっか」
「私だけ、ずっとここにいるのに」
「うん」
「みんな帰る場所があるのに」
「…………」
「私には、もう何もない」
愛華は女性の隣に座った。
「ねえ」
「……何?」
「別に、ここに居なくてもいいんじゃない?」
「どういうこと?」
「普通はね、自分が死んだって受け入れられれば、
自然に霊界へ引っ張られるの」
「霊界……?」
「うん」
「私も、行けるの?」
「行けるよ」
「でも……怖い」
「じゃあ、送ってあげる」
「愛華が?」
「入口までね」
「一緒に来てくれるの?」
「入口までですよ」
愛華は人差し指を立てた。
「なんで、その先には行かないの?」
「勝手に入ると、怒られちゃうみたいなんで」
「……誰に?」
「さあ?」
愛華は肩をすくめた。
「だから入口まで。そこから先は自分で行ってね」
女性はしばらく愛華を見つめ、小さく頷いた。
◇
薄暗い空間を、二人で歩いていた。
前方には、淡い光が見える。
女性は愛華のすぐ横を離れようとしなかった。
「愛華は、いつもこんなことしてるの?」
「まあね」
「怖くない?」
「慣れた」
「私みたいなのも?」
「あなたは話が通じるから、まだ楽な方かな」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
女性が笑った。
先ほどまで身体を覆っていた
黒い靄は、ほとんど消えている。
「ねえ、愛華」
「ん?」
「私が生きてた時に会えてたら、友達になってくれた?」
愛華は少し考えた。
「なってたんじゃない?」
「本当?」
「たぶん」
「また適当」
「だって、今日会ったばっかりだし」
「ひどい」
「でも、嫌いじゃないよ」
女性は少し嬉しそうに笑った。
やがて前方の光が大きくなる。
愛華が立ち止まった。
「私はここまで」
「……もう?」
「ここから先は一人で行って」
「愛華は?」
「私は帰るよ」
「…………」
「大丈夫」
愛華は女性の背中を軽く押した。
「ほら」
「……愛華」
「ん?」
「ありがとう」
「うん」
「私の話、聞いてくれて」
女性は数歩進んだ。
そして振り返る。
「もう会えないの?」
「たぶんね」
「……そっか」
「ちゃんと行きなよ」
「うん」
愛華が手を振る。
女性も手を振り返した。
女性は光へ向かって歩き始めた。
愛華はその背中をしばらく見送り、踵を返した。
◇
女性は一人、光へ向かって歩いていた。
その時。
女性の背後で、黒い何かが揺れた。
「このままだと彼女とはもう会えなくなるけど、
いいのかい?」
女性の足が止まった。
「……誰?」
女性が振り返る。
そこには誰もいない。
女性は光を見る。
そして、愛華が戻っていった暗い道を見る。
長い沈黙。
女性は光に背を向けた。
◇
翌日。
愛華は帰りの高速バスに乗っていた。
「疲れたぁ……」
窓際の席に身体を沈める。
仕事は無事に終わった。
依頼主にも連絡した。
あとは家に帰るだけ。
「ヤコ、何してるかな……」
置いてきた狐の顔が浮かぶ。
愛華は目を閉じた。
高速バスの規則的な振動。
エンジン音。
眠りに落ちかけた、その時
耳元で声がした。
「愛華」
「……え?」
――カチッ。
反射的にチャンネルを切り替える。
昨日、霊界の入口まで送ったはずの女性。
「なんで……?」
女性は嬉しそうに笑った。
「会いたかった」
「ちょっと待って。
なんで戻ってきたの?」
「愛華に会いたかったから」
「ちゃんと向こうに
行くって言ったよね?」
「でも、もう会えなくなるから」
「…………」
愛華の表情が変わった。
「誰かに何か言われた?」
「…………愛華」
「何?」
「一緒に来て」
「……どこに?」
「私と一緒に」
「無理」
「どうして?」
「私、生きてるから」
女性が笑う。
「死ねば一緒にいられるよ」
「…………」
「ダメだよ、それ」
「どうして?」
「昨日のあなた、
そんなこと言わなかったでしょ」
「愛華と離れたくない」
「嬉しいけど、それとこれとは別」
「だって、友達になってくれるって言った」
「なってたかもって言ったの」
女性の顔から笑みが消えた。
「私と一緒にいるの、嫌?」
「そういう話じゃない。私は死にたくないの!」
「…………」
「もう一度送ってあげるから。戻ろう? ね?」
「嫌!」
その瞬間、バスが小さく揺れた。
何人かの乗客が顔を上げる。
女性の身体を、黒い靄が覆い始めていた。
「まずい……」
「愛華は私と一緒に来てくれないんだ」
「だから死ぬのは無理だって!」
「…………」
女性が俯き、その姿が消えた。
愛華は周囲を見回す。
「どこ行ったの?」
いない。
嫌な予感がした。
愛華は前方を見る。
運転席。
女性が、運転手のすぐ横に立っていた。
「やめて!」
女性が運転手へ重なる。
「ダメ!」
運転手の身体が、びくりと震えた。
アクセルが踏み込まれる。
エンジン音が跳ね上がった。
「ちょっと! 運転手さん!」
「スピード出しすぎだろ!」
乗客たちが騒ぎ始める。
運転手がバックミラーを見る。
愛華と目が合った。
運転手が笑う。
「みんな一緒なら、寂しくないよね?」
ハンドルが大きく切られた。
悲鳴。
激しい衝撃。
ガラスが砕ける。
金属が潰れる。
誰かの悲鳴。
天地がひっくり返る。
そして――
すべてが、途切れた。
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