第2章 狐と毒蛇と狸の間(2)
「失礼いたします。デザートをお持ちいたしました」
ああ、ちょうどプライベートティータイムね。
何気なく入るよう告げた私は、男の顔を見た瞬間、思わず妙な表情になってしまった。
濃い口ひげに、やたら分厚いメガネ……?
すごく……個性的ね?
私は小さく頭を振り、ひとまずセッティングを待つことにした。
ミニエクレアと手作りチョコレートが載った小さなプレート。
彼がそれを置くと、微かに音がした。ティースプーンの置き方も少し違う。
特等客室のサービスを担当するなら、もっと訓練されているはずなのに。
「お仕事を始めてから、まだ日が浅いですね?」
「……あっ、申し訳ありません。おっしゃる通りです」
「大丈夫よ。誰にだって初めてはあるもの」
「優しいお言葉、ありがとうございます」
私が寛大に微笑むと、男性はほっとした顔で、テーブルのセッティングを続けた。
「ご令嬢も、帝都へ向かわれるご予定でしょうか?」
特等客室のVIP情報なんて、案外すぐに察しがつくもの。
この時期、帝都行きの特等客室に乗った赤毛の若い女……。誰が見ても一目瞭然。
まあ、隠そうとしたって無駄だし、そもそも隠すつもりもない。
わざわざ教えてあげる義理もないけどね。
「帝国には一度、行ってみたかったんです」
「この時期に、ですか?」
「帝国の次は、他の国も回ろうかと思っているんです。あなた、口調からしてロイトン出身ですよね?」
男性の肩がピクリと動いた。でも、すぐ笑顔に戻った。
「おお、さすがご令嬢、鋭いですね。その通りです。――その意味では、次に行く国として、ロイトンはいかがですか?」
私はその厚かましさに、思わず笑ってしまった。
「候補には入れていますよ。帝国に次ぐ大国ですもの」
「穏やかで良い国ですよ。いつも曇っていて霧がかかっている帝国とは違って」
「ふふ、参考にさせてもらいます」
セッティングを終えた男性は退室した。
私はゆっくりとティーを一口飲む。
「そういえば……昔エルと出会った保養島、あれもロイトン近くだったわよね」
そう思いながら、私はカップを見下ろした。
ミルクが渦を描き、琥珀色の紅茶がカップの縁をなぞる。
カップの中のかすかに揺れる金色が、心のざわめきを映しているようだった。
……しかし、その静けさを破るように。
タタタタ――! タタッ!!
キィーキィー!
遠くから、けたたましい騒ぎが聞こえてきた。
「早く追え!」
「あっちに逃げた、捕まえろ――!」
「なんと……! あそこから飛び降りるつもりか?!」
慌ただしい足音。数人が急いで走る音が響いた。
……一体なんなの!?
私はドアを開けた。
「何があったのですか?」
「い、いえご令嬢、ご心配なく!」
「何のことかを聞いているんですけど」
私が片眉を上げると、職員は慌てて説明を始めた。
「……ええと、怪しい人物が当社の乗務員を装って、列車内を徘徊していたようです。
現在、最善を尽くして追跡中です。どうか、ご令嬢は安全な客室でお待ちいただけますよう、お願い申し上げます! 大変申し訳ございません!」
ふーん……?
会話の断片から察するに、どうやら他国のスパイらしい。
まぁ、この時期、帝国にスパイを送らない国なんてないでしょうね。
話題になっていたのは西の島国、ロイトン王国のスパイらしい。
ロイトンは帝国の仇敵だから無理もない。
――まさか、さっきの男だったりして?
……いやいや、まさかね。でも、だったら面白いね。
私は小さく笑った。
帝国、そしてロイトンね――。
しばらく騒がしかった列車内も、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
どうやら、そのスパイは逃げおおせたらしい。
私は速度を落としていく列車の窓から、外の風景を眺めた。
石造りの重厚な建物群、尖塔が林立する大聖堂、そして街を貫く運河の輝き。
でも、この美しい街の下では、私が知らない陰謀が渦巻いているのだろうね。
顔を上げる。
列車は十日間の横断を経て、いよいよアウフェンバルト帝国の帝都、カイザースベルクに到着しようとしていた。
***
列車を降りると、灰色の空から、しとしとと雨が降っていた。
湿った手袋も、濡れたドレスの裾も、妙に気持ちが悪い。
でも、目の前の男は、その雨よりずっと気に入らなかった。
「おっほん、申し訳ございません」
私は、そわそわしている口ひげの中年官吏を横目で見た。
確か、帝国の五級官吏だったかしら?
「ああ、これが『帝国の儀礼の水準』なんですね」
「そ、そんなことは……!」
私は、オブロフを代表して帝国を訪れた祝賀使節なんだ。
なのに――二級や三級じゃなくて? ちょっと、酷すぎない?
いくら内戦が終わったばかりで、混乱していても、だ。
こんな扱いが、オブロフに対する冒涜だということが、分からないはずがないのに。
しかも、目の前の人はまったく謝る気などない。
この官吏は、しぶしぶ謝罪の形だけ整えているにすぎない。目を合わせようともしないし。
つまり……すごく不満だってことね?
若い女、しかも統領の『私生児』に頭を下げるなんて、どうしても気に入らないってわけだ。
私は目を細めた。
私生児だろうが、とりあえず公式な使節だ。
私が来ることは、アルブレヒト皇子にも伝わっているはず。
……これは皇子の仕業なのかしら? それとも、別の誰かの陰謀?
――まあ、どっちでも構わない。大事なのは、意図なのだから。
まさか、本当に人手が足りずにこうなった、なんてことはないだろう。
ええ、そんなはずがない。
一番考えられるのは……先手を打ってきたってこと? 腐っても鯛……いや、帝国だから。
……なんて、あははっ。ムカつく。
ここまで舐められて、嫌なことを一つも言えずに我慢するとでも思ったのかな?
湧き上がる苛立ちを抑えながら、ふと気づいた。
あれ、ちょっと、ちょっと?
なんで私が、こんなに苛立ちを我慢しなきゃいけないの?
ふと、悟った。私がまだ十歳だった頃、父が酒に酔って言ったんだ。
「カーチャ、みんなに愛されたいか?」
「はい!」
「無理だ。誰からも愛される人間なんて、いない。
生きていれば、絶対に誰かがお前を嫌う。それがこの世の常だ」
「……」
「努力しても、感情だけが傷ついて損なんだ。
だから、クソみたいな態度を取られたら、もっとクソみたいに返してやれ。十倍にして、利子つけて返してやれ」
……うん。あの時の、あたたかくて慈愛に満ちた教えが……胸に沁みる。
心の奥で、小さな私が囁く。
――じゃ、むしろよかったんじゃない? と。
傲慢で気難しい、わがままな女に思われた方が、後々動きやすいもの。
わざわざ私に足場を整えてくれるなんて、親切すぎるのかも?
ありがとね、帝国。さすがだよ!
私は満面に笑みを浮かべた。
目が合った帝国の官吏が、何か不吉な予感を察したのか、体をびくっと震わせた。
――うん、その顔。その反応。
気に入ったわ。




