第3章 青い悪魔と傲慢な使節(1)
しかし、十人の兄弟たちに命を狙われ続けたアルブレヒトは、非情にならざるを得なかった。
弱みを見せれば、命を奪われるだけだったから。
継承権を巡って、兄弟同士が殺し合う中。
生き残ったアルブレヒトは、人間らしい面を、いっそう隠すようになった。
側近たちにさえ、徹底して隙のない姿しか見せない。
本当の姿を見せるのは、姉である皇女殿下と、自分だけだ。
――このままで、いいのだろうか?
エーリヒは心の中で静かに首を振った。
そんなはずがない。
次期皇帝であろうと、至高の座に就く存在であろうと……その前に一人の人間だ。
アルブレヒト様は、外見ほど強い存在ではない。
硬い殻で自分を包み、棘を立てているだけだ。
弓も張り詰めたままでは、いつか必ず折れる。彼も同じだ。
強靭でも、ほんの些細なことで折れてしまいそうな、危うさを抱えている。
……アルブレヒト様には、心から彼を理解し、包み込んでくれる伴侶が必要だ。
政略でも、利害でもなく。
あの方の隣に立ち、その孤独ごと受け止めてくれる誰かが。
エーリヒは金で華やかに装飾された天井を静かに見上げた。
ただ頂だけを目指して、走り続けてきた。
彼らの復讐も終わりに近い。リューネの日に最後の一手が待っているだけだ。
――これからは、あの方に幸せを。
アルブレヒト様に見つけてほしい。
虚ろに空いた胸を埋め、冷えきったその心を溶かしてくれる方を。
かけがえのない存在を……。
目を閉じて、しばらく祈る。エーリヒは丁寧に礼をし、扉を静かに開けた。
リューネの日まで、あと五日。
その前に、彼女と一度は会わなければならない。
***
「うーん」
耳も鼻も、むずむずした。
寒いのはオブロフの方がずっと厳しいはずなのに、なぜだろう。
カイザースベルクの空気が、思ったより肌に合わないからかしら……?
帝国で手に入れたドゥカリエのレースの日傘を、少し傾ける。
縁の銀糸が、淡い霧の中でほのかに光る。
今日もカイザースベルクの朝は、霧が濃い。
帝国に憧れる人々は、この古都の霧を『風情』と呼ぶけれど……はたして?
考え事をしているうちに、空が少しずつ明るくなってくる。
薄い光を受けた周囲の建物は、歳月の跡を抱えたまま、穏やかな影を落としていた。
その光景をじっと眺めてから、小さく呟いた。
「そろそろ彼が来るだろう」
エーリヒ・ハルデンベルク。
本当に彼が、エルなのか。
胸が勝手に高鳴る。今すぐでも走って行って、確かめたくなる。
『カーチャ……』
あの声を、もう一度聞きたい。私を覚えているのか、知りたい。
今すぐ――。
私は握っていた拳をゆっくりと開いた。
遠くから吹いてくる風に、厚く立ち込めていた雲が動き始める。
巨大なうねりに押されるように、すべてが動き出していく。
そして、なぜだろう。
予感がした。その巨大な流れを、もう止めることはできないような、そんな予感が。
そこまで考えて、私はふっと笑い、首を振った。
「ああ、今日も大使がうるさく小言を言いそう」
面倒くさいな。でも、朝食はしっかり食べなきゃ。
私は止まっていた足を踏み出した。太陽がじわりと空へ昇っていた。
***
「いったい、何をしようとしているのですか」
朝食の席で、今日も大使は小言を忘れなかった。
腹が立つのに、オレスキーの娘に強く当たるわけにもいかない。
だから口から出てくるのは、怒鳴る寸前の、押し殺したような声だった。
いつも食事を終えると、首都見物に行くと言って脱走する私だからね。
忙しい大使にとって、小言を言える時間は今しかない。
――とはいえ、朝から小言を聞くのは嫌だけど。
まあ、心の広い私が我慢してあげなくちゃ。
私はスープ皿を空にし、銀のスプーンを音もなく置いた。
「あら、大使? 誰かに聞かれたら、私が何か不埒なことをしたと思われそうですが?」
「そ、そんなことはありません、は、はは……」
「オブロフを代表する使節として来た私です。
その私を五級官吏で迎えたのは、帝国の明らかな過失でしょう?
適切な待遇を求めて、何が悪いのかしら」
「適切な待遇を求めること自体に、異議はありませんが……」
一度は引き下がった大使が、再び説教を始めた。
「ですが、この程度でも外交紛争になり得ます。
翌日には官吏を派遣したのですから、それで終わらせても――」
「ああ、『むかつくけど謝ってやる』風の二級官吏ですね? あれが適切だと?」
「イリィチャ公使、帝国は皇位継承を巡って半年近く内戦状態でした!
激しい内戦で、外務大臣も副大臣も亡くなりましたし」
それとこれが何の関係があるんだ。
外交において、無能さが免罪符になるわけじゃない。
「なので、そんな状況を考慮して……」
「相当無能ですね、帝国も」
「は?」
「私たちより二十倍も大きい帝国でしょう? どうして一級官吏が一人も残っていないのでしょう。
しかも、情勢を読むのに最も敏感でなければならない外務省が?」
思わずアルブレヒト皇子に同情しちゃいそう。こんな帝国の皇位に就くなんて。
おかげで、こちらのことは楽に片付けられたけれど。
「とにかく、少しはお気を鎮めてみては?」
「お断りいたします」
「何をおっしゃるのですか!」
とうとう大使が爆発した。
「イリィチャ公使! 言わずに済ませようとしましたが、公使が提示した条件が最大の問題なのです!
そんな荒唐無稽な条件を持ち出すなんて!
帝国側が公使を、そして我がオブロフをどう思うでしょう!」
「まぁ、大使、声量がすごくて驚きますね。私は大使の娘ではありませんが……?」
「ごほん!」
統領の娘という私的な立場は、こういう時に便利だ。
大使は顔を真っ赤にして深呼吸していた。
あの茹でた蛸のような顔の中で、私の悪口をどれだけ言っているのかしら?
……ごめんなさい、大使。
この方法が一番楽なのよ。
幸い、私のせいで抜ける髪はもうないみたいで良かったですね。
大使はやっと息を整えた。
「この件をオレスキー様がご存知なら――
どのようなお言葉をかけられるか、考えてみられましたか?」
「もちろん。それについては、私が責任を取りますわ」
父なら、もう電報で全ての報告を受け取っているはず。
――なのに、何も言ってこないのは?
まずは静かに見守る、ということだ。
きっと笑いながら、次を楽しみにしているのだろう。
父は、適度な刺激を楽しむ人だから。
だから今は、大丈夫だ。
でも、これから私が父の予測や計画を狂わせたら……その時はどうなるんだろう。
勘当されるくらいなら、まだマシかもしれないけど……。
「ふう……イリィチャ公使……。
私はこれまで、微力ながら帝国とオブロフの友好のため、日夜努力してまいりました。
もし事態が悪化すれば、統領閣下に顔向けできません」
「……ご心配は理解しています。
大使がどれほど尽力されてきたかは、私から『父上』に、見たままをしっかりお伝えするつもりです」
言葉にすれば、こういうことだ。
――お前、これ以上勝手をするつもりか。
私をここへ送ったのは、お前の父親だぞ。
――ええ、私の父です。だからこそ、あなたも分かりますよね?
そんな会話が、笑顔と敬語の裏で交わされた。
結局、大使は諦めたようだった。
彼は目を閉じ、観念したように肩を落とした。
「そうおっしゃっていただければ……」
「帝国側の返答が、間もなく届くでしょう。悪い返答ではないはずです」
その時、銀のトレイを持ったメイドが静かに近づく。
白い封筒。
名前を見て、私は微笑む。
「ほら、ご覧なさい」
――エーリヒ・ヴェルナー・フォン・ハルデンベルク。
ハルデンベルク子爵、エーリヒの訪問を申し込む手紙だった。
当面のあいだ、平日は朝6時40分ごろに更新していく予定です。
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