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第2章 狐と毒蛇と狸の間(1)

出発までは、あと一時間四十二分。

私は舌打ちした。


もうすぐ祝賀使節として帝国へ向かうというのに――

出発前の最後の茶番とばかりに、道化がのこのこと現れた。

自分が道化であることにすら気づいていないから、なおさら笑える。


金と赤が華やかに調和した部屋の中。

足を組んだまま、私は向かいに座る血縁者を横目に眺める。


マルシャンのクラシカルな白いスーツね。

質は上等でも、彼にはまったく似合っていない。

半分とはいえ血が繋がっているだけあって、顔立ちは悪くない。

それなのに、どうしてここまで残念に仕上がるのだろう。


「カーチャ。今日、帝国へ発つそうだな」

「あら。イーゴルお兄様が、わざわざお顔を見せてくださるなんて」

「はは、聞いた時は本当に驚いたぞ。まさか君が帝国に行くとはな」

「最近、あまりにも退屈で。何か新しい刺激が欲しくなりましたの」


信じていない目つきだけど、それでいい。

お互いに信じていないのだから。

むしろ、私たちが信じ合えると思う方がどうかしている。


「それでお兄様、ご用件は? ご覧の通り、私はとても忙しいので」

「相変わらずつれないな、カーチャ。だが、今日来たのは大事な話だ。

――先日の提案は、まだ有効だと伝えに来たのだ」

「提案ですって?」

「君と俺が力を合わせ、この国を変えようという話だ。

もう時間は、あの老いた狸ではなく、若い俺たちの味方なのだから」


自分たちに半分の血を分けてくれた存在を、『あの老いた狸』と呼ぶなんて。

異母兄いぼけいは本当に親孝行なのね。


そして、この人間が私をどう思っているかも、よく知ってる。


遊び好きの愚かな女。

パーティーに夢中で、贈り物に目がない哀れな女。

――そうでしょう?


「俺はこれまで、陰で多くの準備をしてきた。政界の支持を集め、すでに手応えも得ている。

そこに君の人脈と才覚が加われば!」

「――加われば?」

「このオブロフは君と俺のものになるんだ! そして君は……」

「ファーストレディとして?」


私が先に言うと、イーゴルの口元がわずかに引きつった。


「……話が早いじゃないか」

「ええ。退屈な話を最後まで聞く趣味はありませんので。

そのファーストレディの席。私は何番目の候補なんです?」

「な、何を言っているんだ、カーチャ」

「あら。私はもっと面白いお話を期待していたんです。

たとえば、今日のお昼に三股をかけていらした件とか。ずいぶん熱心でしたね」

「なっ……」

「それとも……お兄様が私を遠くに売り飛ばそうとしていた縁談の話とか?」


美青年どころか、私より二十歳以上も年上の殿方ばかりなんて。

さすがに少し、がっかりしたよ。


イーゴルの顔から、みるみる血の気が引いていく。


「……今まで愚かなふりをして、油断させていたのか。狐のような女だな」

「狐? それはお兄様のあだ名なのでは? 私は嫌いですけれど。

虎の背後で尻尾を振っているだけなのに、自分が森を支配できると勘違いしているところが、特に」

「お前……!」


時間も潰したし、道化はそろそろ退場の時間よ。

全世界二千個限定、ルボワールの香水の発売日なのだ。

三流道化劇のせいで買い逃したら、悔やんでも悔やみきれない。


「ところでお兄様? 

あの徹底的な狸様が、まさか私の部屋に何の仕掛けもしていないと思っていらっしゃるんですか?」

「な、なに? 馬鹿な、俺は常に盗聴装置探知機とうちょうそうちたんちきで――」

「あら。まさか、さっきの骨董品のことですか?

あんなもので父上の仕掛けが見つかるなら、オブロフはとっくに滅びていますわ」

「……!」

「壁、絨毯、家具、電話機……。

さて、この部屋にはいくつあるでしょう?」


オブロフの魔導工学をここまで発展させたのは、統領になった父だ。

目的? もちろん政権維持のための監視だろう。


もちろん、一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくを監視されるのは、気分のいいものじゃない。

でも、理解はできる。

誰も信じてはいけないのが、最高権力者の宿命だから。


――目の前の兄のように、血を分けた子供でさえ。


「お前、知っていながら今まで……!」

「では、列車の時間がありますので。親切なお見送り、ありがとうございました」

「エカテリーナ・アースナヤポリャーナ・イリィチャ!」

「そんなに力を込めて呼ばなくても、自分の名前くらい覚えています」


わあ、顔が真っ赤になって血管が浮き出ている。


最後までなんの驚きもない芝居だったけれど、少しは楽しませてもらった。

お礼の一言くらいは言ってあげようかな。


「あ、今日のことはぜぇーんぜんご心配なく。

父上は、今日の分も含めて全部、前からご存知ですから。

お兄様にどうか良い結果がありますように、お祈りしますわ」


私だったら、すぐに父上の靴先にすがってでも、許しを乞いに行くところだけどね。


イーゴルは、私の親切な忠告を理解したようだった。

彼は血管の浮いた拳を握りしめ、私を睨みつけながら唸るように言った。


「毒蛇のような女!」

「まあ。お褒めにあずかり光栄です」


狐よりはずっと気に入る。

私は心から明るく、楽しげに笑った。



***


「無駄な二十三分だったわ。

まあ、ルボワールの限定エディションは手に入れたし、良しとしようか」


横断列車には乗れた。これで第一段階は、ひとまず成功。

私はふかふかのソファに身を沈め、満足げにうなずいた。


ソファにベッド、ティーテーブルまで揃った豪華な客室。

深い緑のカーテンは、金の房飾りで優雅にまとめられている。


壁もテーブルも、使われているのは最高級の木材だろう。

磨き込まれた木材から、ほのかな香りが漂っていた。


小さなクリスタルの灯りが、列車の揺れに合わせて、きらりと瞬く。

ワイングラスを手にしたまま、私は脚を軽く揺らした。


毒蛇――か。


「娘は毒蛇で、父は狸。息子は狐だなんて。まるで動物園ね」


まあ、その通りね。

兄は父の背中を刺し、父は子供たちを監視し、私はその父を刺す予定。

ほんと、笑えない茶番。


オブロフの終身統領オレスキーは結婚せず、数多くの愛人だけを囲った。


本人の言い分では、権力目当てで近づく女性たちとは、

真実の愛を分かち合えないからだったけど。

──なんて言い訳、誰も信じなかった。


後継者が未来の政敵になるのを恐れて、正式な結婚を避けたのだろう。

父には権力こそが全てだったから。


とにかく、非公式に数えただけでも、愛人はおおよそ三十人。

まさに生まれつきの女たらしだ。

やっぱり、赤毛は恋多き者の色という俗説が――。


ちょうど窓に、自分の顔が映っていた。

赤い髪。青緑の瞳。

どちらも、父から受け継いだ色だ。


「うぐ……今のは自分に刺さった……」


父とは違う。本当に。


髪を指で梳き流しながら、久しぶりに母を思い出す。

私が成人した途端、あっさりと去ってしまったからだ。

『自分の義務は果たした』、なんて言って。


母は権力や富には別に欲がなかった。

けれど、家にこもって夫の愛だけを求める良妻賢母りょうさいけんぼでもなかった。


旅行が好きで、美しいものが好きで、自由な人。

知的で、話が通じて、けれど権力には手を伸ばさない。


……だから母は、オレスキー・セルゲイノフにとって理想的な恋人だったのね。


そのおかげね。

私だけが、半ば公然と父に認められている子供でいられたのは。


父は、私が母から受け継いだ『身の程を知る距離感』を喜んでいた。

それに、自分から受け継いだ『賢明さ』と『度胸』も。


「まあ、一番大きな理由は、これだけど」


私の髪と目の色。父とまったく同じだから。


幸いにも顔は母似だけど、この髪と鮮やかな青緑色の瞳は、父とそっくり。

どこから見てもオレスキーの娘なんだ。


「つまり、父が私を可愛がるのは、一種の自己愛じゃないかな?」


おかげで、それなりに可愛がられてきたけれど……。

この一件が終わったら……どうなるんだろう。


心臓が高鳴る。

それは不安のせいなのか。

それとも、エルに会えるかもしれないという期待のせいなのか。


私は、エルの本当の名前すら知らない。

『エル』――あれは愛称だったはずだ。

なのに、彼の本名が思い出せない。

いや、そもそも聞いたことすらないような気がする。


どこの国の出身かさえ、私は知らない。

だから、ずっと諦めていた。

けれど、ようやく手がかりをつかめたのかもしれない。


――早く、あの人に会いたい。


エーリヒ。あの男が、エルであってほしい。

あの時私を救ってくれた彼を、今度は、私が救いたい。


そう、知らず知らずのうちに祈っていた、その時だった。

丁寧なノックの音がした。

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