第1章 初恋の人が死ぬ未来(2)
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私は今、父の個人書斎に忍び込んでいた。
つまり、永久中立国オブロフの統領の謀略が眠る、秘密の部屋に。
見つかったら、ただでは済まない。
それでも確かめずにはいられなかったのは……父の執務室でちらりと目にした、あの書類のせいだった。
幼い頃、保養地の島で出会った大切な友達。
そして多分、初恋の人。
その『エル』かもしれない男が、一か月以内に死ぬかもしれない。
≪1824年第10回帝国未来予測報告書≫
――未来予測なんて、馬鹿げている。
そう笑い飛ばせたら、どれほどよかっただろう。
けれど、笑えなかった。
父オレスキーが全力で育て上げた情報網が弾き出した予測。
それは今まで一度として外れたことのない、まるで『予言』のようなものだったからだ。
そして、そのわずか数行の中に、彼の死が記されていた。
《エーリヒ・ヴェルナー・フォン・ハルデンベルク、ハルデンベルク子爵。二十四歳》
父の完璧主義を示すように、書類には白黒の肖像画まで添付されていた。
濃い色の髪に、穏やかな微笑みを浮かべる男性。
肖像画だけでは確信できない。
……私が覚えているエルの姿は、暗い色の髪と、やわらかく包み込むような紫の瞳だけだった。
会えたのはもう十四年前だ。
顔も声も、ずいぶん変わっているはずだ。
けれど、ただの絵なのに、にじみ出る優しさとまっすぐな気性が、どうしようもなくエルを思い出させた。
エーリヒという名前なら、エルという愛称を使っていてもおかしくない。
年齢もエルと同じだ。
……エル、本当に君なの?
体は良くなったの?
そして、次の頁には、彼の死が記されていた。
《死因:爆弾テロ。リューネの日の夜、大舞踏会場にて。親友アルブレヒト皇子を庇って死亡》
《犯人:第三皇子(現在投獄中)》
《予測確率:92.3%》
帝国の未来など、頭に入らなかった。
エーリヒの死だけが目に焼き付いた。
友達を庇って、代わりに死ぬって……?
――私の知るエルなら、きっとそうする。
……いや、落ち着こう。
震える指先に力を込める。
エーリヒがエルかどうかは、まだ分からない。
私の視線は自然と、エーリヒの隣に添付された肖像画へ移った。
七皇子アルブレヒト。
エーリヒの親友であり、皇位継承内戦で勝利を収めた皇子。
肖像画なのに、感嘆が漏れそうになるほど圧倒的な美貌だった。
平民でありながら、あまりの美しさに帝国皇帝が一目で恋に落ちたと言われる母。
その美貌を、そのまま受け継いだのだろうか。
私は、思わず鼻で笑った。
次期皇帝が大陸最高の美男子?
そんなはずがない。皇族の肖像画だから、最大限に美化して描かせたのだろう。
その時、衛兵たちが交代する足音が近づいてくる。
私は息を詰めたまま、重要な情報をもう一度、頭の中でなぞった。
リューネの日の爆弾テロ。
大舞踏会場。
それを起こす者。
……そして、そこに立ちはだかる者。
私は書類を静かに元通りに片付けた。
紙が曲がったり乱れたりしないよう、完璧に整え終える。
父は、わずかな痕跡すら見逃さない、鬼のような人だから。
そして、影のように自分の部屋へ戻る。
折よく降る明け方の雨が、私の足音をさらに殺してくれていた。
「ふう……」
背中には冷たい汗がびっしょりと張りついている。
窓の外からは雨の音がざあざあと聞こえてくる。
『カーチャ』
短い秋の長雨の間に聞こえる幼い声。
湿った空気の中で、灯りが揺れていた。
壁に落ちた影も、頼りなく揺れていた。
『僕は、大丈夫……カーチャが、無事、なら……』
――エル、私は……どうすればいい?
外戚も、まともな支持基盤もなかった七皇子、アルブレヒト。
なのに、彼は異母兄弟たちとの戦争に勝利した。
報告書によれば、その輝かしい勝利の先には、悲劇的な墜落が待っている。
そして、その彼を庇って死ぬのが――エルかもしれない男。
振り子時計が光を反射した。
時計の中では、金色の男女が何組もくるくると踊りながら回っている。
狭いガラスの中で、決められた通りにただ回り続ける人生。
そう、定められた運命。
予感がした。
このままでは、すべては予測報告書の通りに流れていく、と。
「でも、もし私が……その未来を壊したら?」
父は、介入しない。
小さな中立国オブロフにとって、帝国の混乱は都合がいいからだ。
つまり私は、『あの』父に正面から逆らうことになる。
……認めてもらうために、今までどれだけ努力してきたと思っているの。
華やかな高級ドレスも、宝石も、権力さえも。
私が手にしているすべては、父の庇護あってのものだ。
その目から外れたら、私は路上の平民どころか、それ以下になるかもしれない。
想像しただけで、背筋が冷えた。
それに対して、私が得られるメリットは?
――ない。
こんなにリスクが高いのに動くなんて、愚か者のすること。
遠く離れた帝国で誰が死のうと、所詮は他人事だった。
……それが、エルじゃなかったなら。
『僕は大丈夫……。カーチャが、大丈夫なら』
「エル……私はね、あまり『いい大人』にはなれなかったの。
優しくもないし、お節介でもないよ。
父と母から教わったのは、『人生はいつだってギブ・アンド・テイク』だってことだけだったから」
でも、あなただけは、違う。
あなたが本当にエーリヒなら。
私が動かなかったせいで、あなたが死ぬなら……。
きっと一生、後悔するはずだ。
――あなたに、会いたい。
心臓がずきずきと痛み、吐きそうなほど胃がむかむかする。
金色の男女が光を弾き、視界の中でにじんでいく。
視界がぼやけ、金色の像が丸く溶けていった。
――鳥の鳴き声。
満ち溢れる草の匂い。
そして私に向かって笑っていた、小さな少年。
ありのままの私を見てくれた、優しい瞳。
『カーチャ』、そう呼んでくれたあなたの声が、ずっと耳の奥で、痛いほど響いている。
私はきっと、あなたのことが本当に好きだったんだ。
だから――
行こう、帝国へ。
いつの間にか、朝の光が部屋に差し込んでいる。
私は窓を見つめながら、深く息を吐いた。
エーリヒに会う。
彼が本当にあなたなら、絶対に救う。
物思いに沈んでいたその時、静かなノックの音が響いた。
私は表情を整える。
「入りなさい」
銀のトレイに白い封筒を載せたメイドが静かに近づき、頭を下げた。
封筒の中には、父からの伝言が記されていた。
「統領閣下がお呼びです」
「……!」
思わず、小さく息を呑んだ。
けれど、感情を顔に出すわけにはいかない。
私は伏せ気味の目でメイドを見つめ、ほんの少しだけ口角を上げた。
それから、ゆっくりとグラスを取り、唇を湿らせる。
「分かったわ。すぐに支度して向かうと伝えてちょうだい」
***
深呼吸をして、私は父の執務室へ向かった。
こちらから面会を願い出る前に呼ばれるなんて、タイミングが良すぎる。
だからこそ、不安になる。
まさか……昨夜、書斎に忍び込んだことが、もうバレているわけじゃないよね?
考えただけで胸がざわつく。
私は唾をのみ込み、震える手で扉をノックした。
「入ってこい」
父の声が返ってくる。
扉を開け、一歩足を踏み入れると、椅子に座っていた父がゆっくりと顔を上げた。
「父上、昨夜はよくお休みになれましたか?」
「ああ。座りなさい」
父の表情は、いつも通りだ。
でも、それで安心できるはずがない。
父は、昨日笑顔で握手を交わした相手を、翌日には冷酷に処刑できる男だからだ。
「昨日はかなりお酒を召し上がっていたそうですが。二日酔いは大丈夫ですか?」
「ははっ! いらない心配だぞ。
俺がその程度で何ともないってことは、お前もよく分かっているじゃないか」
「それでもです。父上が隙を見せれば、あの愚かな兄がうるさくなりますから」
父は愉快そうに声を立てて笑った。
「ははは、だから俺はお前が好きなんだ、カーチャ。ところで――」
「はい?」
背筋が自然と伸びた。再び、ひやりと寒気が走る。
「帝国から書簡が届いたのだ」
「帝国……ですか? 何か、面白いお話でも?」
私は無垢な表情を装い、少しだけ目を見開いた。父は淡々と答えた。
「近づくリューネの日に合わせて、帝都で戦勝記念の宴が開かれる。
アルブレヒト皇子が、列国の宮廷に招請状を出している。
祝宴という体裁で、列国に新しい帝国の主を見せつけるつもりなのだろう」
「なるほど……」
「我が国も使節団を出さねばならん。
……どうだ、カーチャ。お前が代表で行ってみるか?」
一瞬で、いくつもの考えが頭を駆け抜けた。
けれど私は、迷う素振りも見せずに微笑んだ。
「まあ、良かったですわ!
ちょうどドゥカリエの新作が帝国限定で売り出されると聞いて、
どうやって手に入れようか悩んでいたところでしたの!」
「ふむ。古臭い帝国の連中は、お前の出自に眉をひそめるかもしれん。
だが、表向きには問題あるまい。お前は俺が認めた、唯一の娘だ」
「もちろんです。絶対くじけたりなんてしません。
だって――私は父上の娘ですもの」
私とそっくりの青緑色の瞳が、鋭く光った。
「それでいい。しかし、カーチャ」
「はい、父上?」
「帝国はまだ混乱の中にある。気を付けろ。
……特にアルブレヒト皇子の周辺では、いつ暗殺の企てが起きてもおかしくない。
だから、あまり近づかぬようにな」
その言葉の裏に隠された深い意味を、私はすぐには測りかねた。
私が書類を読んだことへの警告なのか。
それとも、本当にただの忠告なのか。
私は震える指先を、そっと扇の陰に隠す。
「まあ、美男子という噂が絶えない方ですから、少し近くで拝見したかったのですけれど。
では、適度な距離から見守ることにいたしますわ」
「ははっ、そうだな。適度が一番だ。――もう行っていいぞ」
「はい、父上」
私は軽やかに一礼し、部屋を出る。
人気のない回廊の角を曲がったところで、小さな少年がすっと姿を現す。
彼は一言も発さず、今日の報告を書きつけた紙片を差し出してきた。
私はそれに一瞥をくれ、くしゃりと丸める。
「……ふうん、今日も馬鹿が馬鹿なことをしてるね」
どうやら、半端な兄が、面白いことを仕掛けているらしい。
帝国へ行く前から、退屈だけはしなさそうだ。




