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第1章 初恋の人が死ぬ未来(2)

***


私は今、父の個人書斎に忍び込んでいた。

つまり、永久中立国オブロフの統領とうりょう謀略ぼうりゃくが眠る、秘密の部屋に。


見つかったら、ただでは済まない。

それでも確かめずにはいられなかったのは……父の執務室でちらりと目にした、あの書類のせいだった。


幼い頃、保養地の島で出会った大切な友達。

そして多分、初恋の人。


その『エル』かもしれない男が、一か月以内に死ぬかもしれない。


≪1824年第10回帝国未来予測報告書≫


――未来予測なんて、馬鹿げている。

そう笑い飛ばせたら、どれほどよかっただろう。


けれど、笑えなかった。


父オレスキーが全力で育て上げた情報網が弾き出した予測。

それは今まで一度として外れたことのない、まるで『予言』のようなものだったからだ。


そして、そのわずか数行の中に、彼の死が記されていた。


《エーリヒ・ヴェルナー・フォン・ハルデンベルク、ハルデンベルク子爵。二十四歳》


父の完璧主義を示すように、書類には白黒の肖像画まで添付されていた。


濃い色の髪に、穏やかな微笑みを浮かべる男性。

肖像画だけでは確信できない。


……私が覚えているエルの姿は、暗い色の髪と、やわらかく包み込むような紫の瞳だけだった。


会えたのはもう十四年前だ。

顔も声も、ずいぶん変わっているはずだ。


けれど、ただの絵なのに、にじみ出る優しさとまっすぐな気性が、どうしようもなくエルを思い出させた。


エーリヒという名前なら、エルという愛称を使っていてもおかしくない。

年齢もエルと同じだ。


……エル、本当に君なの?

体は良くなったの?


そして、次のページには、彼の死が記されていた。


《死因:爆弾テロ。リューネの日の夜、大舞踏会場にて。親友アルブレヒト皇子を庇って死亡》


《犯人:第三皇子(現在投獄中)》


《予測確率:92.3%》


帝国の未来など、頭に入らなかった。

エーリヒの死だけが目に焼き付いた。


友達を庇って、代わりに死ぬって……?

――私の知るエルなら、きっとそうする。


……いや、落ち着こう。


震える指先に力を込める。

エーリヒがエルかどうかは、まだ分からない。


私の視線は自然と、エーリヒの隣に添付された肖像画へ移った。


七皇子アルブレヒト。


エーリヒの親友であり、皇位継承内戦こういけいしょうないせんで勝利を収めた皇子。


肖像画なのに、感嘆が漏れそうになるほど圧倒的な美貌だった。

平民でありながら、あまりの美しさに帝国皇帝が一目で恋に落ちたと言われる母。

その美貌を、そのまま受け継いだのだろうか。


私は、思わず鼻で笑った。


次期皇帝が大陸最高の美男子?

そんなはずがない。皇族の肖像画だから、最大限に美化して描かせたのだろう。


その時、衛兵たちが交代する足音が近づいてくる。


私は息を詰めたまま、重要な情報をもう一度、頭の中でなぞった。


リューネの日の爆弾テロ。

大舞踏会場。

それを起こす者。

……そして、そこに立ちはだかる者。


私は書類を静かに元通りに片付けた。

紙が曲がったり乱れたりしないよう、完璧に整え終える。

父は、わずかな痕跡すら見逃さない、鬼のような人だから。


そして、影のように自分の部屋へ戻る。

折よく降る明け方の雨が、私の足音をさらに殺してくれていた。


「ふう……」


背中には冷たい汗がびっしょりと張りついている。

窓の外からは雨の音がざあざあと聞こえてくる。


『カーチャ』


短い秋の長雨の間に聞こえる幼い声。

湿った空気の中で、灯りが揺れていた。

壁に落ちた影も、頼りなく揺れていた。


『僕は、大丈夫……カーチャが、無事、なら……』


――エル、私は……どうすればいい?


外戚がいせきも、まともな支持基盤しじきばんもなかった七皇子、アルブレヒト。

なのに、彼は異母兄弟たちとの戦争に勝利した。


報告書によれば、その輝かしい勝利の先には、悲劇的な墜落が待っている。

そして、その彼を庇って死ぬのが――エルかもしれない男。


振り子時計が光を反射した。

時計の中では、金色の男女が何組もくるくると踊りながら回っている。


狭いガラスの中で、決められた通りにただ回り続ける人生。

そう、定められた運命。


予感がした。

このままでは、すべては予測報告書の通りに流れていく、と。


「でも、もし私が……その未来を壊したら?」


父は、介入しない。

小さな中立国オブロフにとって、帝国の混乱は都合がいいからだ。


つまり私は、『あの』父に正面から逆らうことになる。


……認めてもらうために、今までどれだけ努力してきたと思っているの。


華やかな高級ドレスも、宝石も、権力さえも。

私が手にしているすべては、父の庇護ひごあってのものだ。


その目から外れたら、私は路上の平民どころか、それ以下になるかもしれない。

想像しただけで、背筋が冷えた。


それに対して、私が得られるメリットは?

――ない。


こんなにリスクが高いのに動くなんて、愚か者のすること。

遠く離れた帝国で誰が死のうと、所詮は他人事だった。


……それが、エルじゃなかったなら。


『僕は大丈夫……。カーチャが、大丈夫なら』


「エル……私はね、あまり『いい大人』にはなれなかったの。

優しくもないし、お節介でもないよ。

父と母から教わったのは、『人生はいつだってギブ・アンド・テイク』だってことだけだったから」


でも、あなただけは、違う。


あなたが本当にエーリヒなら。

私が動かなかったせいで、あなたが死ぬなら……。

きっと一生、後悔するはずだ。


――あなたに、会いたい。


心臓がずきずきと痛み、吐きそうなほど胃がむかむかする。

金色の男女が光を弾き、視界の中でにじんでいく。

視界がぼやけ、金色の像が丸く溶けていった。


――鳥の鳴き声。

満ち溢れる草の匂い。


そして私に向かって笑っていた、小さな少年。


ありのままの私を見てくれた、優しい瞳。

『カーチャ』、そう呼んでくれたあなたの声が、ずっと耳の奥で、痛いほど響いている。


私はきっと、あなたのことが本当に好きだったんだ。


だから――

行こう、帝国へ。


いつの間にか、朝の光が部屋に差し込んでいる。

私は窓を見つめながら、深く息を吐いた。


エーリヒに会う。

彼が本当にあなたなら、絶対に救う。


物思いに沈んでいたその時、静かなノックの音が響いた。

私は表情を整える。


「入りなさい」


銀のトレイに白い封筒を載せたメイドが静かに近づき、頭を下げた。

封筒の中には、父からの伝言が記されていた。


「統領閣下がお呼びです」

「……!」


思わず、小さく息を呑んだ。

けれど、感情を顔に出すわけにはいかない。


私は伏せ気味の目でメイドを見つめ、ほんの少しだけ口角を上げた。

それから、ゆっくりとグラスを取り、唇を湿らせる。


「分かったわ。すぐに支度して向かうと伝えてちょうだい」



***


深呼吸をして、私は父の執務室へ向かった。

こちらから面会を願い出る前に呼ばれるなんて、タイミングが良すぎる。

だからこそ、不安になる。


まさか……昨夜、書斎に忍び込んだことが、もうバレているわけじゃないよね?


考えただけで胸がざわつく。

私は唾をのみ込み、震える手で扉をノックした。


「入ってこい」


父の声が返ってくる。

扉を開け、一歩足を踏み入れると、椅子に座っていた父がゆっくりと顔を上げた。


「父上、昨夜はよくお休みになれましたか?」

「ああ。座りなさい」


父の表情は、いつも通りだ。

でも、それで安心できるはずがない。

父は、昨日笑顔で握手を交わした相手を、翌日には冷酷に処刑できる男だからだ。


「昨日はかなりお酒を召し上がっていたそうですが。二日酔いは大丈夫ですか?」

「ははっ! いらない心配だぞ。

俺がその程度で何ともないってことは、お前もよく分かっているじゃないか」

「それでもです。父上が隙を見せれば、あの愚かな兄がうるさくなりますから」


父は愉快そうに声を立てて笑った。


「ははは、だから俺はお前が好きなんだ、カーチャ。ところで――」

「はい?」


背筋が自然と伸びた。再び、ひやりと寒気が走る。


「帝国から書簡が届いたのだ」

「帝国……ですか? 何か、面白いお話でも?」


私は無垢な表情を装い、少しだけ目を見開いた。父は淡々と答えた。


「近づくリューネの日に合わせて、帝都で戦勝記念の宴が開かれる。

アルブレヒト皇子が、列国の宮廷に招請状しょうせいじょうを出している。

祝宴という体裁で、列国に新しい帝国の主を見せつけるつもりなのだろう」

「なるほど……」

「我が国も使節団を出さねばならん。

……どうだ、カーチャ。お前が代表で行ってみるか?」


一瞬で、いくつもの考えが頭を駆け抜けた。

けれど私は、迷う素振りも見せずに微笑んだ。


「まあ、良かったですわ!

ちょうどドゥカリエの新作が帝国限定で売り出されると聞いて、

どうやって手に入れようか悩んでいたところでしたの!」

「ふむ。古臭い帝国の連中は、お前の出自に眉をひそめるかもしれん。

だが、表向きには問題あるまい。お前は俺が認めた、唯一の娘だ」

「もちろんです。絶対くじけたりなんてしません。

だって――私は父上の娘ですもの」


私とそっくりの青緑色の瞳が、鋭く光った。


「それでいい。しかし、カーチャ」

「はい、父上?」

「帝国はまだ混乱の中にある。気を付けろ。

……特にアルブレヒト皇子の周辺では、いつ暗殺のくわだてが起きてもおかしくない。

だから、あまり近づかぬようにな」


その言葉の裏に隠された深い意味を、私はすぐには測りかねた。

私が書類を読んだことへの警告なのか。

それとも、本当にただの忠告なのか。


私は震える指先を、そっと扇の陰に隠す。


「まあ、美男子という噂が絶えない方ですから、少し近くで拝見したかったのですけれど。

では、適度な距離から見守ることにいたしますわ」

「ははっ、そうだな。適度が一番だ。――もう行っていいぞ」

「はい、父上」


私は軽やかに一礼し、部屋を出る。

人気のない回廊の角を曲がったところで、小さな少年がすっと姿を現す。

彼は一言も発さず、今日の報告を書きつけた紙片を差し出してきた。


私はそれに一瞥をくれ、くしゃりと丸める。


「……ふうん、今日も馬鹿が馬鹿なことをしてるね」


どうやら、半端な兄が、面白いことを仕掛けているらしい。

帝国へ行く前から、退屈だけはしなさそうだ。

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