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第12章 淡雪に刻まれる名(2)

***


「各国の使節を迎える準備は、どこまで進んでいる?

ミュント地方の物流に支障が出ていると聞いたが」

「それが……現在、最善を尽くして対応しておりますが……」

「冊立式まで残り二十日だというのに、『最善を尽くしている』だけか?

卿らは、いったいどこまで無能になれば気が済むのだ」


かつての高位官僚たちは、粛清された。

そのせいで、下級官吏たちが繰り上げられ、今の地位に就いたと聞く。

でも、皆まだ新たな職務に慣れておらず、どこか落ち着かない様子だった。


「申し訳ございません!」

「あるいは、この機会に俺の顔に泥を塗りたいのか?」

「そ、そんなことは決して……!」


リューネの日に、あのようなことがあったからね。

今回の皇太子冊封式では、わずかな瑕疵かしも許されない。


だから全力を注がねばならないのは、分かってはいるけど……。


今日のアルブレヒト皇子殿下は、日ごとに冷え込む空気よりもなお冷たかった。


「今日は、殿下のご機嫌が悪いな」


わずかな休憩時間を与えられたとき、マティアスがそう囁いた。

私も小さくうなずく。


「……なんか、特に私に対して、機嫌が悪い気がするけど。気のせいかな……?」

「そうか? おまえが何かやらかしたんじゃないのか?」

「いや、何も」


緊張で背筋を伸ばしていたキルステンも、口を挟んだ。


「よく思い出してみろよ。自分でも気づかないうちに、何かやったんじゃないか?」

「そうだ。きっと何かやったに違いない」

「いや、本当に何も!」


……私への信頼は、いったいどこに?

あれほど必死に働いているというのに!


「殿下との接点といえば……今日の昼食後に少し。

あまりに疲れて、庭で居眠りしているところを見つかったくらいだよ」

「ほら、やっぱり」

「……ちょっと待て。午後の業務前に、少し睡眠不足を補おうとしただけだよ。

それがそんなに悪いこと?」

「皇城ノイエ・ヴィスルイゼンで昼寝なんて。

普通の人間には到底できない真似だな」

「もちろん失礼だってことは分かってる。

でも、ここ数日は本当に無理をしてたんだ。

明後日の舞踏会の準備にすら、まだろくに手をつけられていない」


マティアスは「ふむ」と唸り、顎を掻いた。


「妙だな……やったのは、本当にそれだけなのか?」


それは、私のほうが聞きたい。

どうしてこんなに冷たいんだろう。


まさか、本当に私が知らないうちに何かやらかした……とか?


男たちならともかく、女の私が皇城の一室を占領して昼寝なんて、よく思われるはずがない。

だからここ数日、こっそり抜け出して――

いや、空き時間を活用して、休める場所を探索した。


そしてようやく、人がほとんど訪れないガゼボを見つけ出すのに成功。

ここなら誰にも見つからず、休めると思ったのだ。


そのとき、殿下が険しい顔で現れて、私を起こした。

「不用心すぎる」と、怒りながら。


……殿下だって、一人で庭に来ていたくせに。


思わず口を尖らせる。


どうしてあんなに表情を強張らせて、怒ったのか。

その理由は、結局分からないままだった。


今もそうだ。

目が合うたび、殿下はなぜかぎこちなく視線を逸らす。


――仕方がないか。

ここは心の広い私が堪えるしかない。


私はため息を呑み込み、肩をすくめた。


……少しは親しくなれたと思っていたのに。

どうやら、勘違いだったらしい。


やはり私は、この古めかしい帝国とは相性が悪いのかもしれない。


「ロイトンの使節団の名簿は確定したか」

「はっ! 使節団を率いる特使にはグリウェンスフォード公爵が決まりました。

すでにロイトンを出発したとのことです」

「……グリウェンスフォード公爵?

ロイトン南東部の大領主ではないか。

せいぜい傍系の王族が来るものと思っていたが」

「入手した情報によれば、公爵自ら帝国行きを志願したとか」


アルブレヒトの瞳が、冷たく沈んだ。


「彼の領地は、海を隔てて我が帝国と対峙している。

本人も、強大な艦隊を擁することで知られているな。

軽々しく扱える相手ではない」

「御意。長い病から回復するや頭角を現し――

公爵位を狙っていた傍系筋を退け、正統な後継者として爵位を継いだ男です。

侮れません」

「……彼については、さらに徹底的に調べろ」

「はっ!」


ふうん……。


ロイトン王国の事情はよく知らないけれど、どうやら大物が来るらしい。


重苦しい空気の中で、私一人だけがそんなことを考えていた。

次は、本当にロイトン王国へ遊びに行ってみようかな。


それなら、今回訪れる使節団とも、良好な関係を築いておいたほうがいいだろう。


――やけに長く感じられた会議が、ようやく終わった。


殿下の厳しい気配から解放された人々は、潮が引くように散っていく。


私は軽く頭を振り、椅子から立ち上がった。


私も、舞踏会の準備をしなくては。

せっかく楽しみにしていたのだから。


――あ、その前に。

『受け取らなければならないもの』があったっけ。



***


帝国情報部の現長官。

第七皇子アルブレヒトの参謀であり、誰よりも冷酷な男。


ユルゲン・フォン・ヴァイスシュルツを形容する言葉は、他にもいくらでもあった。


何も持たなかった皇子アルブレヒトの才をいち早く見抜き、その影となることを選んだ男。

残酷なまでに冷徹な策で、勝利を掴ませてきた張本人。


だが――そんな威名も、今は霞んでいた。

執務室の扉をコンコンと軽やかに叩き、悪びれもせず現れた、ひとりの女のせいで。


「こんにちは、ユルゲン! 三日ぶりくらいですよね?」

「……正確には二日半だ」

「細かいなぁ。で、お願いしてたものは?」


ユルゲンは冷気を纏ったまま、分厚い書類を差し出した。

凍りつくような気配に、彼の副官が思わず肩をすくめる。


だが、当のエカテリーナは寒国育ち。

その冷気を何でもないように受け流しながら、ページをめくっていった。


「わぁ、さすがユルゲン! すっごく濃い内容ですね」


書類を繰りながら、小さく口笛を吹く。

本当に質が高い。お世辞ではない。


――父の情報部に危機感を覚えたのか。

それとも、対抗心でも燃やしたのか。


社交界の令嬢たちの人物情報に加え、人間関係や嗜好。

さらに肖像画まで添えられていた。

やっぱり、頼んで正解だった。


「忙しいのに時間を割いてくれて、本当に助かりました!」

「……俺が忙しいと分かっていて、平気でこういうことを頼むのか。

まったく呆れた女だ」

「だって、情報はどうしても必要なんですもん。

頼める相手なんて、ユルゲンしかいませんし。

女同士の付き合いって、想像以上に複雑で大事なんですよ?

それに、私が人間関係で失敗でもしたら……殿下に迷惑をかけてしまいますし」

「……」

「だからこれは、殿下のためなんです。

優秀なユルゲンなら分かってくれるって、信じてますから!」

「……」


調子よくおだてながら、言い訳を滔々と並べ立てる。

結局は「頼みやすいから頼んだだけ」という、逃げ口上にすぎない。


この女は帝国情報部を――いや、情報部長官である自分を何だと思っているのか。

便利屋? それとも、ただの探偵?


こめかみの血管がぴくりと震え、ユルゲンはエカテリーナを追い払おうとした。


「用が済んだなら、とっとと出て行け」

「えー、せめて『お茶でもどうぞ』くらい言ってくれると思ったのに。

やっぱりユルゲンですね」

「そんな無駄なことはしない」

「はいはい、次に期待しますよ――あ、ほんの気持ちですけど」


エカテリーナは、手にしていた小さな包みをすっと差し出した。

甘い香りが漂い、ユルゲンは思わず眉をひそめる。


「帝都で一番人気だっていう店のチョコレートです。

私、手作りなんてできませんし。

仮に作ったとしても、ユルゲンは『毒でも入れたんじゃないか』って疑って食べないでしょ?」

「……」

「だから、普通に市販のものを買ってきました。

買ってすぐに来たんですから、何かを入れる暇なんてありませんでした。

『その場にいた皆さん』も、証人になってくれますよ」

「俺はチョコなど食わん」

「でも、少しくらいは口にしたほうがいいですよ。

私の父も、頭を使うときは必ず甘い物を口にしてました」

「……」

「父の話じゃ、糖分を補給しないと効率が落ちるんですって。

まあ、食べすぎて血圧を心配されてましたけどね。

――ユルゲンは痩せすぎなんだから、むしろいっぱい食べたほうがいいですよ」


……どれだけ喋る気だ、この女は。

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