第12章 淡雪に刻まれる名(2)
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「各国の使節を迎える準備は、どこまで進んでいる?
ミュント地方の物流に支障が出ていると聞いたが」
「それが……現在、最善を尽くして対応しておりますが……」
「冊立式まで残り二十日だというのに、『最善を尽くしている』だけか?
卿らは、いったいどこまで無能になれば気が済むのだ」
かつての高位官僚たちは、粛清された。
そのせいで、下級官吏たちが繰り上げられ、今の地位に就いたと聞く。
でも、皆まだ新たな職務に慣れておらず、どこか落ち着かない様子だった。
「申し訳ございません!」
「あるいは、この機会に俺の顔に泥を塗りたいのか?」
「そ、そんなことは決して……!」
リューネの日に、あのようなことがあったからね。
今回の皇太子冊封式では、わずかな瑕疵も許されない。
だから全力を注がねばならないのは、分かってはいるけど……。
今日のアルブレヒト皇子殿下は、日ごとに冷え込む空気よりもなお冷たかった。
「今日は、殿下のご機嫌が悪いな」
わずかな休憩時間を与えられたとき、マティアスがそう囁いた。
私も小さくうなずく。
「……なんか、特に私に対して、機嫌が悪い気がするけど。気のせいかな……?」
「そうか? おまえが何かやらかしたんじゃないのか?」
「いや、何も」
緊張で背筋を伸ばしていたキルステンも、口を挟んだ。
「よく思い出してみろよ。自分でも気づかないうちに、何かやったんじゃないか?」
「そうだ。きっと何かやったに違いない」
「いや、本当に何も!」
……私への信頼は、いったいどこに?
あれほど必死に働いているというのに!
「殿下との接点といえば……今日の昼食後に少し。
あまりに疲れて、庭で居眠りしているところを見つかったくらいだよ」
「ほら、やっぱり」
「……ちょっと待て。午後の業務前に、少し睡眠不足を補おうとしただけだよ。
それがそんなに悪いこと?」
「皇城ノイエ・ヴィスルイゼンで昼寝なんて。
普通の人間には到底できない真似だな」
「もちろん失礼だってことは分かってる。
でも、ここ数日は本当に無理をしてたんだ。
明後日の舞踏会の準備にすら、まだろくに手をつけられていない」
マティアスは「ふむ」と唸り、顎を掻いた。
「妙だな……やったのは、本当にそれだけなのか?」
それは、私のほうが聞きたい。
どうしてこんなに冷たいんだろう。
まさか、本当に私が知らないうちに何かやらかした……とか?
男たちならともかく、女の私が皇城の一室を占領して昼寝なんて、よく思われるはずがない。
だからここ数日、こっそり抜け出して――
いや、空き時間を活用して、休める場所を探索した。
そしてようやく、人がほとんど訪れないガゼボを見つけ出すのに成功。
ここなら誰にも見つからず、休めると思ったのだ。
そのとき、殿下が険しい顔で現れて、私を起こした。
「不用心すぎる」と、怒りながら。
……殿下だって、一人で庭に来ていたくせに。
思わず口を尖らせる。
どうしてあんなに表情を強張らせて、怒ったのか。
その理由は、結局分からないままだった。
今もそうだ。
目が合うたび、殿下はなぜかぎこちなく視線を逸らす。
――仕方がないか。
ここは心の広い私が堪えるしかない。
私はため息を呑み込み、肩をすくめた。
……少しは親しくなれたと思っていたのに。
どうやら、勘違いだったらしい。
やはり私は、この古めかしい帝国とは相性が悪いのかもしれない。
「ロイトンの使節団の名簿は確定したか」
「はっ! 使節団を率いる特使にはグリウェンスフォード公爵が決まりました。
すでにロイトンを出発したとのことです」
「……グリウェンスフォード公爵?
ロイトン南東部の大領主ではないか。
せいぜい傍系の王族が来るものと思っていたが」
「入手した情報によれば、公爵自ら帝国行きを志願したとか」
アルブレヒトの瞳が、冷たく沈んだ。
「彼の領地は、海を隔てて我が帝国と対峙している。
本人も、強大な艦隊を擁することで知られているな。
軽々しく扱える相手ではない」
「御意。長い病から回復するや頭角を現し――
公爵位を狙っていた傍系筋を退け、正統な後継者として爵位を継いだ男です。
侮れません」
「……彼については、さらに徹底的に調べろ」
「はっ!」
ふうん……。
ロイトン王国の事情はよく知らないけれど、どうやら大物が来るらしい。
重苦しい空気の中で、私一人だけがそんなことを考えていた。
次は、本当にロイトン王国へ遊びに行ってみようかな。
それなら、今回訪れる使節団とも、良好な関係を築いておいたほうがいいだろう。
――やけに長く感じられた会議が、ようやく終わった。
殿下の厳しい気配から解放された人々は、潮が引くように散っていく。
私は軽く頭を振り、椅子から立ち上がった。
私も、舞踏会の準備をしなくては。
せっかく楽しみにしていたのだから。
――あ、その前に。
『受け取らなければならないもの』があったっけ。
***
帝国情報部の現長官。
第七皇子アルブレヒトの参謀であり、誰よりも冷酷な男。
ユルゲン・フォン・ヴァイスシュルツを形容する言葉は、他にもいくらでもあった。
何も持たなかった皇子アルブレヒトの才をいち早く見抜き、その影となることを選んだ男。
残酷なまでに冷徹な策で、勝利を掴ませてきた張本人。
だが――そんな威名も、今は霞んでいた。
執務室の扉をコンコンと軽やかに叩き、悪びれもせず現れた、ひとりの女のせいで。
「こんにちは、ユルゲン! 三日ぶりくらいですよね?」
「……正確には二日半だ」
「細かいなぁ。で、お願いしてたものは?」
ユルゲンは冷気を纏ったまま、分厚い書類を差し出した。
凍りつくような気配に、彼の副官が思わず肩をすくめる。
だが、当のエカテリーナは寒国育ち。
その冷気を何でもないように受け流しながら、ページをめくっていった。
「わぁ、さすがユルゲン! すっごく濃い内容ですね」
書類を繰りながら、小さく口笛を吹く。
本当に質が高い。お世辞ではない。
――父の情報部に危機感を覚えたのか。
それとも、対抗心でも燃やしたのか。
社交界の令嬢たちの人物情報に加え、人間関係や嗜好。
さらに肖像画まで添えられていた。
やっぱり、頼んで正解だった。
「忙しいのに時間を割いてくれて、本当に助かりました!」
「……俺が忙しいと分かっていて、平気でこういうことを頼むのか。
まったく呆れた女だ」
「だって、情報はどうしても必要なんですもん。
頼める相手なんて、ユルゲンしかいませんし。
女同士の付き合いって、想像以上に複雑で大事なんですよ?
それに、私が人間関係で失敗でもしたら……殿下に迷惑をかけてしまいますし」
「……」
「だからこれは、殿下のためなんです。
優秀なユルゲンなら分かってくれるって、信じてますから!」
「……」
調子よくおだてながら、言い訳を滔々と並べ立てる。
結局は「頼みやすいから頼んだだけ」という、逃げ口上にすぎない。
この女は帝国情報部を――いや、情報部長官である自分を何だと思っているのか。
便利屋? それとも、ただの探偵?
こめかみの血管がぴくりと震え、ユルゲンはエカテリーナを追い払おうとした。
「用が済んだなら、とっとと出て行け」
「えー、せめて『お茶でもどうぞ』くらい言ってくれると思ったのに。
やっぱりユルゲンですね」
「そんな無駄なことはしない」
「はいはい、次に期待しますよ――あ、ほんの気持ちですけど」
エカテリーナは、手にしていた小さな包みをすっと差し出した。
甘い香りが漂い、ユルゲンは思わず眉をひそめる。
「帝都で一番人気だっていう店のチョコレートです。
私、手作りなんてできませんし。
仮に作ったとしても、ユルゲンは『毒でも入れたんじゃないか』って疑って食べないでしょ?」
「……」
「だから、普通に市販のものを買ってきました。
買ってすぐに来たんですから、何かを入れる暇なんてありませんでした。
『その場にいた皆さん』も、証人になってくれますよ」
「俺はチョコなど食わん」
「でも、少しくらいは口にしたほうがいいですよ。
私の父も、頭を使うときは必ず甘い物を口にしてました」
「……」
「父の話じゃ、糖分を補給しないと効率が落ちるんですって。
まあ、食べすぎて血圧を心配されてましたけどね。
――ユルゲンは痩せすぎなんだから、むしろいっぱい食べたほうがいいですよ」
……どれだけ喋る気だ、この女は。




