第12章 淡雪に刻まれる名(3)
洪水のように押し寄せる声に、ユルゲンは内心うんざりしていた。
そのとき、エカテリーナは青緑の瞳で、まっすぐユルゲンの顔を見つめた。
その視線の先には、ひとかけらの温もりもなく、ただ鋭さだけを宿すユルゲンの瞳があった。
痩せた顔に浮き出た頬骨が、その冷たい印象をさらに際立たせている。
こういう男は、絶対に仕事ばかりで、食事もろくに摂らないタイプだ。
アルブレヒト皇子も仕事中毒で有名だが、この男はそのさらに上を行く。
会議以外で執務室を出る姿を、誰も見たことがない。
眠っているのかどうかさえ、疑わしいほどだった。
だから、せめてもの感謝と気遣いを込めて差し出したチョコレート、だったんだけど……。
やはり、彼には不要だったらしい。
「無駄なことを」
「要らなければ、捨てちゃっていいですよ」
「……置いていけ」
「はーい」
エカテリーナはあっさり席を立った。
これ以上はさすがに邪魔になると分かっていたからだ。
「じゃあ、私はこれで。お見送りは結構ですからね」
「最初からする気などない」
「あはは、ほんとユルゲンらしいですね。それじゃ、失礼します。
五十分働いたら十分休むの、忘れないでくださいね?」
「……」
冷たい無視を浴びせられても、彼女は明るく笑った。
軽やかな足音を響かせて、執務室を去っていく。
ユルゲンは無表情のまま、机上の書類へ視線を戻した。
視界の端には、置き去りにされたチョコレートが映っている。
「……片づけますか?」
副官が恐る恐る声をかけた。
その瞬間、氷刃のような視線が突き刺さる。
「っ……」
副官はびくりと身を強張らせた。
もう何か月も仕えてきたというのに。
一切の感情を映さないその瞳に見据えられると、どうしても背筋が粟立つ。
けれどユルゲンは咎めもせず、ただ短く言った。
「……置いておけ」
「はっ!」
沈黙が落ち、副官はそれ以上何も言わず、そそくさと退室した。
残されたユルゲンは、無駄のない動作で立ち上がると、煙草をくわえて火をつけた。
――こうしたことには、すっかり慣れていた。
恐怖、嫌悪、警戒。
誰もが自分に向けるものは、いつも同じだ。
だが、ユルゲンにとっては取るに足らない。
ありふれた反応に、いちいち応じてやる必要などない。
ただ、それだけのことだった。
けれど――彼女だけは、ほんの少し違っていた。
……まったく、図太くて厚かましい女だ。
奇しくも、それは主君と同じ評価だった。
彼女の図々しさは、十分承知していたつもりだった。
だが、それも氷山の一角にすぎなかったらしい。
今やその厚かましさは、堂々と自分にまで及んでいる。
先日は、屋敷や使用人の手配を当然のように押しつけてきた。
今日は、社交界の有力令嬢たちの情報を持ち去った。
――その鉄面皮は、どこまで続くのか。
誰もが恐れて近寄ろうともしない自分だ。
なのに平然と利用し、軽口まで叩いていく胆力。
監視され、弱みを握られる危険など、まるで意に介さない。
「……あの女なら、むしろすべて承知の上のはずだ」
オブロフの終身統領、オレスキー。
腹の底に何匹もの蛇を飼っている――そう噂される男。
その娘である以上、髪や瞳の色だけでなく、あの肝の据わり方まで受け継いでいるのだろう。
ユルゲンは、机の引き出しを開けた。
そこには、先ほど彼女に渡した名簿の続きがある。
新たな名が一つ、加えられていた。
「……ふう」
彼は紫煙を吐き出す。
窓から入り込んだ風にあおられ、書類がぱらぱらとめくれていく。
やがて最後の一枚で止まり、赤い髪の女を描いた肖像画が現れた。
――エカテリーナ・アースナヤポリャーナ・イリィチャ。
肖像の中の女は、いつものように自信に満ちた笑みを浮かべていた。
彼女は知っているのだろうか。
先ほど渡された名簿には続きがあり、そこに自分の名が記されている――その意味を。
「殿下には、一日も早く后を迎えていただかねばならない」
直系の皇族で生き残ったのは、アルブレヒト殿下と、同母の姉であるアーデルライド皇女だけ。
歴代皇帝が好き勝手に撒き散らしてきた、穢れた血。
その血を引く者たちも、今回の内戦で一掃された。
アルブレヒト殿下は彼らを心底憎んでいた。
そして、いずれ火種となり得る皇族を、自らの手で残らず粛清したのだ。
……だが、問題はこれからだ。
アルブレヒト殿下に万一のことがあれば、帝国はたちまち混乱に呑まれるだろう。
先日の襲撃でも、あと一歩でそうなるところだったではないか。
その想像だけで、ユルゲンの目にぎらりと光が宿った。
だからこそ、殿下は一日でも早く后を迎え、皇統をつながねばならない。
今はまだ、誰もが殿下の顔色をうかがって口に出さずにいるが――
そろそろ、囁かれ始める頃合いだ。
本来なら高貴な血筋を探すべきだ。
しかし、年齢の釣り合う王女は、敵国ロイトンの末王女しかいない。
ゆえにユルゲンは、帝国内の未婚の令嬢たちへと目を向けていた。
内乱で数が三分の一に減ったとはいえ、まだ貴族の数は多すぎる。
だが、条件を満たす者は、ごくわずかしかいなかった。
――第一に、外戚の力が皇権を脅かすほど強大でないこと。
そして、婚姻を理由に外戚が政務へ介入できないこと。
――第二に、帝国の皇后にふさわしい聡明さを備え、それでいて貪欲ではないこと。
……当然ともいえるこの条件を満たす者が、これほどまでに少ないとは。
ページを繰る指先に、無意識のうちに力がこもる。
数百人の名を削ぎ落とした果てに、残ったのはせいぜい四、五人。
そしてその中に、オブロフ出身の彼女が含まれているという事実は――何を意味するのか。
次期皇后に最も近いと目されるのは、シュレスホルツ侯爵家の令嬢だ。
聡明で人柄にも問題はなく、秘書官としての能力も申し分ない。
……だが。
シュレスホルツ侯爵は、内戦での功績によって内務大臣にまで上りつめた。
これまでの歴史で、どれほど多くの外戚が国を蝕んできたことか。
危険だ。
ビドノイバッハ家も同様だ。
強すぎる外戚など要らない。
――それなら、帝国内に強力な後ろ盾を持たない娘のほうが、まだましだ。
ユルゲンの視線は、赤い髪の女を描いた一枚の肖像画に止まった。
だからこそ――彼女がここに記されているのだ。
帝国を背負う皇后候補のひとりとして。
オブロフの終身統領オレスキーの娘とはいえ、彼女は庶子。
財産を相続することはできない。
父であるオレスキーも、娘の婚姻を理由に帝国の政務へ正式に介入することはできない。
だが、正妻も嫡子も持たないオレスキーが、唯一『娘』と認めている存在でもある。
その絶妙な立場こそが、彼女を候補たらしめていた。
それに――。
オレスキーの家系は、元をたどれば旧王家の傍流。
王統の血を引き、一国の指導者でもある。
その娘であれば、『身分違いの婚姻』には当たらない。
ユルゲンは、わずかに目を細めた。
意外な掘り出し物だ。
いや、むしろ……最良の皇后候補とさえ言えるかもしれない。
これまでの言動から察するに、政治的な勘も悪くない。
エカテリーナは、すでに帝都で人脈を築き始めている。
アーデルライド皇女や、マティアスの婚約者ゾフィーとも茶会を開いたと。
ふたりとも大きな影響力を持つ一方、政治的な駆け引きには不慣れだ。
だが、あの女なら彼女らをまとめ上げるだろう。
やがては、社交界を動かす一大勢力となるかもしれない。
……そういえば。
殿下が当初、彼女に秘書官の職を勧めたという話を思い出した。
伝え聞いたその会話は、実にふざけたものだった。
『秘書官? 私がですか? ……あの、本気でおっしゃってます?』
『……俺の失言だったな』
紫煙の奥で、ユルゲンの口元にかすかな笑みが浮かび――すぐに消えた。
問題は、その性質だ。
あまりに厚かましく、自由奔放で、どこへ転ぶのか読めない。
だからこそ、こうして自分の頭痛の種にもなっている。
紫煙が細く揺れる。
……だが、もしあの奔放さを失ったとしたら。
それはもう、自分の知るあの女ではないだろう。
まだ何も決まってはいない。
アルブレヒト殿下の真意を測らねばならない。
自分自身も、エカテリーナをもう少し観察する必要がある。
彼女の心は、どこにあるのか。
殿下を拒む女など、この世に存在するのかとも思う。
だが、あの女なら――あり得るかもしれない。
窓から吹き込む風にあおられ、机の上の書類がまたバサリと鳴った。
ひときわ大きくめくれ上がった一枚が、置かれていたチョコレートの箱にぶつかり、ぴたりと止まる。
ユルゲンは、ずり落ちかけた眼鏡を押し上げた。
『たまには休んでくださいね。
頭を使う仕事には、甘い物が一番ですから』
耳に残るあの声。
あまりにもよく喋る女だったせいか、今もなお耳の奥にこだましている。
ユルゲンは黙って煙草をもみ消した。
そして、無造作にチョコレートをひとつ口に放り込む。
舌に広がるのは、苦い煙草の後味と、馴染みのない甘さ。
相反する二つの味が重なり合う。
「……やはり、好みではない」
低く呟き、引き出しの奥にしまっていた書類へ手を伸ばした。
しばらく肖像画を見つめたあと。
ユルゲンは書類を封筒に収め、静かに封をした。
――本人が、何も知らぬまま。
エカテリーナ・アースナヤポリャーナ・イリィチャ。
その名は今、次期皇后候補者名簿に正式に刻まれた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本話をもちまして、第一巻相当分は終了となります。
第二巻の幕開けを飾るのは、華やかな舞踏会で果たされる運命の再会。
そして、皇太子と公爵――二人の執愛が彼女をめぐって交錯し、恋の三角関係が本格的に幕を開けます。
第二巻以降は、公募の審査終了後に更新を再開する予定です。
再開まで、しばらくお待ちいただけましたら幸いです。




