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第12章 淡雪に刻まれる名(1)

灰色の空から、雪に近い雨が降っていた。


朝の雲と霧に覆われた庭園。

アルブレヒトは、あの声を振り払うように歩を速めた。


傘を叩くのは、雪とも雨ともつかない細かな粒だった。


『――エルを探しているんです』


その声が、何度も胸の奥で反響する。


『ここで一年くらい働いて、それから旅をしながら探そうかと。

もう殿下もおわかりですよね?

私が一つ所に腰を落ち着ける性格ではないって』


彼女がどれほど嵐のような女なのかは、もう十分にわかっている。

だが――彼に会えたら、どうするつもりなのか。


喉元までこみ上げた問いを、結局口にはできなかった。


みっともなく聞こえるのが嫌だったからか。

それとも――答えを聞くのが怖かったからか。


冷たい空気が胸の奥まで入り込み、吐く息さえ痛く感じられた。

アルブレヒトは、ふと足を止めた。


人けのない庭園のガゼボ。

無造作に垂れた赤い髪が、淡い霧の中でも鮮烈に浮かんでいた。


「……イリィチャ?」

「おはようございます、殿下」

「……なぜ朝から雪に打たれている。寒くはないのか」


エカテリーナは、肩をさらしたまま雪混じりの雨を受けていた。


白い肩を伝う雫が、薄衣うすぎぬをじわりと濡らしていく。

それでも彼女は、答える気がないかのように、ただ微笑んでいた。


アルブレヒトはため息をつき、彼女のもとへ歩み寄る。

濡れた姿を見過ごせるほど、不作法ではなかった。


「何をしていた」

「空を見ていたんです」

「何も見えない空を、なぜ」

「霧が好きなんです。雪も好きですし。

殿下こそ、お早いですね」

「目が覚めただけだ」


アルブレヒトはマントを脱ぎ、彼女の肩にかけた。

そのとき、指先が冷たく濡れた肌に触れる。


柔らかな感触が伝わり、アルブレヒトの喉が大きく上下した。

濡れた薄衣の下に浮かぶ身体の線から、慌てて視線を逸らす。


「……冷えきっているな。どれほどここにいた」

「さあ。わかりません」


自分の呼吸が乱れていることに、気づいた。

アルブレヒトは必死に意識を逸らしながら、マントの前をきちんと閉じる。

危うい姿が隠れて、ようやく息をつけた気がした。


それでも、勝手に跳ねる心臓は収まらなかった。


「風邪をひくぞ」


傘を差しかける。

雪とも雨ともつかぬものは、さらに強くなっていた。


自然と二人の距離が縮まる。

手を伸ばせば、そのまま抱き寄せられるほどの近さで、止まった。


……どれほど、そうしていただろう。

エカテリーナの青翠せいすいの瞳が彼を通り過ぎ、濡れていく彼の肩へと落ちた。


そして――。


傘を握るアルブレヒトの手に、彼女の手がそっと重なる。


「殿下まで濡れてしまいますよ」


アルブレヒトは息を呑んだ。


触れられた場所から熱が走り、血が一気に全身を駆け巡る。

心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほど鳴り響いた。


「……寒くはないのか」

「殿下が来てくださったから」


囁くように答えたエカテリーナが、彼の胸元へ身を寄せる。

頬が肩に触れた。


次の瞬間、細い腕がするりと首へ回される。


アルブレヒトは硬直した。


柔らかな身体の温もり。

耳元に触れる息遣い。

暖かな吐息が、耳と首筋をくすぐった。


――思わず、その頬に口づけた。

心臓が狂ったように暴れた。

震える睫毛が頬をかすめるたび、蝶を捕まえたい衝動が沸き上がる。


危険な衝動を必死に抑え込みながら、なんとか唇を離す。

すると、彼女はくすりと笑った。


「私は……できれば唇の方がよかったのに……っ!」


……必死に抑えてきたのに。

もう抑えきれなかった。


アルブレヒトは彼女の唇を奪った。


舌が絡む。

逃げられぬよう強く抱き締め、口内をむさぼる。

腕の中で震える身体の感触が、余すところなく伝わってくる。

背筋を駆け上がる、どうしようもない激しいたかぶり。


――俺は……俺が求めていたのは、これだったのか。


「殿下……名前を、呼んでください」


惜しむように離れた唇の間に、透明な糸が細く伸びた。

赤く濡れた唇が艶やかに開いていくのを見つめ、彼は荒く息を吐いた。

指を絡めて逃がさぬように閉じ込め、下唇を吸い上げる。


――自分を惑わせ、壊していく……救い。


「エカ……テリーナ」


柔らかに弧を描く紅の唇を、むさぼった。

苦しいほどに……甘い。


――そして、目を開いた。


「……っ」


アルブレヒトは、蒼紫そうしの瞳を大きく見開いた。


「……な、何だ、これは……」


心臓は今なお、胸を突き破りそうなほど荒々しく脈打っている。


唇には熱が残り、指先には濡れた肩の感触がこびりついていた。

夢だったはずなのに、あまりにも生々しい。


「……夢だ。くだらん」


吐き捨てるように呟く。


だが、乱れた鼓動は一向に収まらなかった。

耳の奥には今も、あの声がこだましている。


――殿下……名前を、呼んでください。


「……っ!」


喉が、勝手に震えた。


名を呼んだ瞬間のこと。

濡れた赤い唇。

首筋を撫でた、吐息の熱。


その一つひとつが、脳裏に焼き付いて離れない。


アルブレヒトは思わず両手で顔を覆った。

熱を帯びた頬を、押し隠すように。


「……馬鹿げている。なぜ、あんな夢を……」


いくら否定しても、身体に残った熱は冷めなかった。

否定を重ねるほど、かえって記憶は鮮明になっていく。


彼は逃れるように顔を上げ、窓へ視線を向けた。


夜のうちに霜が降りたのだろうか。

曇天の空には、冷え冷えとした気配が漂っている。


夢の中とよく似た色……。

現実と幻が一瞬重なり、胸の奥がざわつく。


アルブレヒトは額に手を当て、深く息を吐いた。

自嘲するように、唇が歪む。


「……昨日の練習に、引きずられただけだ。

それにしても、悪趣味にもほどがある。

よりによって俺が、あの女となど……あり得ん」


言い切った声は、かすかに震えていた。


雪に濡れた白い肩が、なぜか今も脳裏から消えない。


――違う。

あれは、俺ではない。


何度そう繰り返しても、身体に残る熱だけは消えてくれなかった。

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