第11章 残業のワルツ(3)
「まあ……お二人とも、ずいぶんと慣れてきましたわね」
アーデルライド皇女は、舞い終えた二人を見つめて微笑んだ。
その声音には、確かな賞賛が込められている。
「お見事でした。殿下の動きも、もう『戦闘訓練みたい』とは言えませんね」
さらりと添えられたエーリヒの一言に、アルブレヒトの眉がぴくりと動いた。
「……っ。余計なことを言うな」
短く吐き捨てるような声。
エーリヒは笑いを堪えきれず、わずかに肩を揺らした。
アーデルライド皇女は、そんな二人のやり取りをさらりと受け流した。
そして穏やかに話題を変える。
「ふふ……そろそろ、パートナーを替えてみましょうか」
皇女がそう提案すると、四人は自然に位置を入れ替えた。
アルブレヒトは姉の前へ進み、恭しく一礼する。
エカテリーナもエーリヒに向き直り、軽く裾を摘んで礼を返した。
新たな組み合わせで、再びワルツが広間に描かれようとしていた。
エカテリーナはエーリヒとともに、最初のステップを踏み出した。
リズムに合わせて舞いながら、彼がふと口を開いた。
「……こうしてあなたと踊るのは、初めてですね。
本来なら――リューネの日に、ご一緒するはずだったのに」
その言葉に、エカテリーナは一瞬だけ瞳を伏せた。
けれどすぐに顔を上げ、あえて明るい笑みを浮かべる。
「そうですね。でも、こうして無事に笑って踊れているなら、それで十分です」
「……再び命を救っていただいたこと、やはり感謝せずにはいられません」
「もうっ、いい加減にしてください。
感謝も謝罪も、何度聞いたことか……もう十分すぎるほど伝わっていますから」
口ではそう言いながらも、二人の視線が重なった瞬間、自然と笑みがこぼれた。
淡く、やわらかな微笑み。
恋ではなく、確かな絆を感じさせる――友の笑顔だった。
その様子を、少し離れたところから見つめる二人。
静かに舞いながら、アーデルライド皇女が弟に囁くように声をかけた。
「……気になりますか?」
「何のことでしょう、姉上」
淡々とした答え。
けれど、その瞳がほんの一瞬だけエカテリーナへと向けられたのを、皇女は見逃さなかった。
「本当に……ありがたい方です。
イリィチャ令嬢がいなければ……。
今こうして、あなたと手を取り合って舞を練習することもなかったでしょう」
アーデルライド皇女の言葉は、やわらかくも確信を帯びていた。
「……」
アルブレヒトは答えなかった。
ただ一度だけエカテリーナへ視線を向け、すぐに目の前のステップへと意識を戻した。
***
再び組んだアルブレヒトとエカテリーナのステップは、先ほどよりもずっと滑らかだった。
ぎこちなさは薄れ、呼吸も自然に合っていく。
そんな中、エカテリーナがふと口を開いた。
「昼間も死ぬほど働いて、勤務時間が終わったあとまで無給で殿下のお相手を務めるなんて……。
私、健気だと思いませんか?」
わざとらしく肩をすくめ、冗談めかした声を出す。
軽いからかい――のはずだった。
だが返ってきたのは、思いのほか真剣な声音だった。
「無給でこき使うつもりはない。……望むものがあれば、与える」
「えっ……?」
思わずエカテリーナが瞬きをした。
アルブレヒトは視線を逸らさず、淡々と続ける。
「ブローチか? 腕輪か?」
口にした途端、彼の頭には次々と贈り物の候補が浮かんだ。
――彼女には、どんな宝石がふさわしいだろう。
夜明けの空を思わせる青緑色のパライバトルマリン。
あるいは、深紅のルビー。
アルブレヒトは、無意識のうちに思い描いていた。
自分が贈った飾りを胸元に輝かせ、舞踏会に現れる彼女の姿を。
なぜだろう……。
胸がやけに熱く、息が浅くなる。
足取りはリズムに合わせて正確なはずなのに――
鼓動だけが妙に速く、拍を外していた。
「い、いえ! 今のはただの冗談です!」
エカテリーナが慌てて声を上げた。
「そもそも私、十分にお給料をいただいていますし……!」
アルブレヒトは短く息をついた。
それでも、あくまで真面目な調子で言葉を返す。
「皇宮の倉庫には、今回の内戦で押収した品が溢れている。
使い道に困るほどだ。望むなら、その中から選んでも構わん」
「っ……!」
エカテリーナの心が、一瞬だけ揺れた。
……正直、少しは欲しいと思った。
けれど、彼から贈られたとなれば、どんな噂が立つか……。
……殿下の『愛人』扱いなんて、絶対にごめんだ。
そう思うと、自然に首を横に振っていた。
「お気持ちだけで十分です。本当に。
――その代わり、休みをください!」
「……」
舞のリズムは崩れなかった。
けれど胸の奥には、どうしようもないざわめきが広がっていた。
――断られただけなのに、なぜ……。
その理由は、自分でも掴めない。
ただ彼は、彼女の手を握る力を、ほんのわずかに強めていた。
***
いつの間にか、窓の外には月が高く昇っていた。
アーデルライド皇女が裾を軽く払い、やわらかく声をかける。
「そろそろお開きにいたしましょう。もうすっかり夜も更けましたもの」
その言葉に、皆が自然と小さくうなずいた。
気づけば外は、深い闇に包まれている。
エカテリーナは深く息をつき、心の中で歓声を上げた。
――ようやく、終わった!
そんな彼女を見つめていた皇女が、口元に意味ありげな微笑みを浮かべる。
「そうですわね……エーリヒ。私を送ってくださいますか?」
「はい。私でよろしければ、喜んで」
彼は恭しく頭を下げ、それからアルブレヒトとエカテリーナにも視線を向けた。
「アルブレヒト殿下、エカテリーナさん。本日はお疲れさまでした」
二人に挨拶をすると、皇女の後に続く。
扉が閉じると、広間には二人きりの静けさが残される。
エカテリーナは、そっと足首を回した。
昼間の仕事だけでも十分なのに、そのうえ残業ワルツまで。
実に過酷な一日だった。
しかも皇子殿下は結局、休暇を与えるとは言ってくれなかったし。
早く帰って休まないと。
こんなに頑張ったのに、また明日も仕事だなんて……!
そのとき、不意にアルブレヒトの静かな声が落ちてきた。
「……そういえば、舞踏会の相手は見つけたのか」
まるで何気ない一言のように聞こえた。
エカテリーナは肩をすくめ、軽い調子で答える。
「どなたかが仕事ばかり押しつけてくださるせいで、知り合いも少なくて……。
仕方なく、フランツにお願いしました」
彼女は冗談めかして言ったが、それは事実でもあった。
――まあ、フランツなら『一番無難なカード』ってところよね?
絶対に、あの蛸大使とは行きたくないし。
「……そうか」
アルブレヒトは平静を装い、短く返した。
だが胸の奥には、理由もなくざらつくような違和感が残った。
説明のつかない、不快な感覚だけが。
エカテリーナは軽く裾を摘み、形ばかりの笑みを浮かべる。
「それでは……私はこれで失礼いたします」
彼の返事を待つこともなく、足早に扉へと向かった。
――まさに『これ以上の残業はご免です』と言わんばかりに。
一刻も早く屋敷へ戻りたい。
そんな気配を、隠そうともしない背中だった。
彼女は一度も振り返らないまま姿を消す。
重い扉の閉じる音が広間に響いた。
静寂。
残されたのは、アルブレヒトただ一人。
しばらくその場に立ち尽くしたのち、彼はゆっくりと窓辺へ歩み寄った。
夜空を仰げば、漆黒の闇に無数の星が散りばめられている。
手を伸ばしても届かない、あまりにも遠い光。
その冷たさと煌めきが、ただ黙って彼を見下ろしていた。
アルブレヒトは、長く息を吐いた。
最近、時折胸の片隅に引っかかる感覚。
今日はそれが、いつにも増して強かった。
なぜなのか。
理由さえわからないからこそ、なおさら煩わしい。
彼は、胸の奥のざわめきを無理やり押し殺した。
この夜が明ければ、きっと収まる。
……そう思いながら。




