第11章 残業のワルツ(2)
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二人のワルツは、静かに始まった。
落ち着いた旋律に合わせ、正確に足を運んでいく。
アルブレヒトの顔は、いつものように冷静な無表情。
だが、その肩や指先には、わずかな緊張が滲んでいた。
――失敗は許されない。
その思いが、必要以上にきっちりとした動きとなって表れている。
そして――。
エカテリーナは、至近距離で顔を合わせた瞬間、反射的に視線を逸らした。
……ううっ、やっぱり眩しすぎる!
白金の長い髪が灯りを弾き、まともに直視するのも大変だ。
ついに耐えきれなくなった彼女は、真剣な顔で提案した。
「……あの、殿下? 仮面をつけて踊るというのは、どうでしょう?」
あまりに突拍子もない言葉に、アルブレヒトは思わず瞬きをした。
「……どういう意味だ」
「いえ、その……昼から酷使し続けた目が、もう悲鳴を上げていまして。
近すぎて、正直つらいんです」
エカテリーナは、小声で必死に弁解した。
だがアルブレヒトは、半ば呆れたように目を細め、淡々と切り捨てる。
「馬鹿なことを言うな。集中しろ」
「はーい」
ワルツは続いていく。
拍子に合わせて一歩。交差して、ターン。
背筋はぴんと伸び、握られた手からは硬さが伝わってくる。
アルブレヒトの動きには、寸分の狂いもなかった。
姿勢は端正で、腕の角度も完璧。
一歩たりとも間違えまいとするかのように。
だが――その正確さは、優雅な舞というより、訓練場で繰り返す剣の型を思わせた。
エカテリーナは、心の中で小さく舌打ちした。
……うん、これは。どう見ても舞じゃないんですけど?
とうとう堪えきれず、顔を上げてつぶやいた。
「……殿下。正直に言ってもいいですか?」
「なんだ」
「これは……舞というより、戦闘訓練の動きに見えるんですけど」
「……!?」
きっぱりと言い切った。
すると、二人が必死に笑いを堪える様子が目に入った。
隣で見守っていたアーデルライド皇女殿下が口元を押さえている。
エーリヒもまた、肩を震わせている。
エカテリーナは、あ、やっぱり皆もそう思っていたんだ、と確信した。
「……っ」
アルブレヒトは一瞬、言葉を失った。
わずかに眉を寄せ、唇を固く結ぶ。
ステップは乱れなかった。
だが、その耳にかすかな赤みが差したのを、誰も見逃さなかった。
笑みを隠しきれないアーデルライド皇女殿下が、そっと口を開いた。
「……ふふ。では、もう一度やってみましょうか」
「……わかりました」
二人はもう一度、踊りの姿勢を整えた。
エーリヒが拍を数え直し、ワルツが再び流れ始める。
少しずつ、エカテリーナのステップは滑らかになっていった。
帝国式のワルツには慣れていないため、難しい。
けれど、これでもオブロフでは『社交界の女王』とまで謳われた身なのだ。
ターンを何度か繰り返すうちに、身体は自然と拍に馴染んでいく。
やがて感覚に身を任せるにつれ、動きも伸びやかになっていった。
エカテリーナの顔に、楽しげな笑みが浮かぶ。
――そう。舞とは、ただ動作を連ねるものではない。
感覚で捉えるものなのだから。
足が拍子に乗れば、動きは水の流れのように繋がっていく。
けれど、アルブレヒトは彼女とは違った。
依然として『正確さ』を何よりも優先している。
一つひとつの動作を乱すまいと、身体に力を込めながら。
先ほどよりは舞らしい形を作ろうとしていたが……。
やはり、舞というものは好きになれそうにない。
彼がそう思いながら、機械的に足を運んでいた、そのときだった。
「……っ!」
彼の靴先がわずかにずれ、エカテリーナの足を踏んでしまった。
――ぎゃあ、痛いっ!
心の中で悲鳴を上げながら、彼女は必死に表情を取り繕った。
「すまない。大丈夫か?」
「……なんともありません」
どうにか平静を装ったものの、踏まれた足は、じんじんと痛んでいる。
それでもエカテリーナは、引きつりそうになる笑みを必死に保った。
アルブレヒトは、その反応に気づいた。
気まずさからか、彼の耳の先が再びわずかに赤くなる。
ただでさえぎこちなかった動きが、さらに硬くなった。
足取りこそ揃っているものの、舞の流れはどこか途切れがち。
まるで鋭い刃を振るうときのような緊張が、全身から滲み出ていた。
エカテリーナはそんな彼を見上げ、柔らかな声で告げた。
「殿下。舞は……流れるようなものです」
「……?」
「歌うように。そして――自由に」
その言葉が、張り詰めた静寂を破った。
彼女の青緑色の瞳はまっすぐに彼を見つめていた。
まるで『型に縛られないで』と告げているように。
一瞬、アルブレヒトの目が見開かれる。
――自由。
これまで、誰からも言われたことのない言葉。
その一言が、静かに胸を打った。
彼の指先に宿っていた緊張が、不思議なほどゆっくりとほどけていく。
ただ強く握っていただけの手が、今度は彼女の手にそっと触れた。
一歩。
アルブレヒトは、彼女に導かれるまま足を踏み出した。
その足取りには、もう先ほどまでの硬さはない。
小さな手に引かれ、彼の動きが少しずつ変わり始める。
力の入りすぎていた肩が緩み、呼吸がふっと楽になった。
――これは、何だ?
エカテリーナが、ふっと微笑む。
「……そう。今の感じです」
自分でも知らなかった感覚だった。
ただ足を運んでいるだけなのに、胸の奥が解き放たれていく。
長く閉ざされていた牢獄の扉が、ようやく軋みを上げて開いていくような――。
「……自由、か。その言葉は……そなたによく似ているな」
ぽつりと漏れたアルブレヒトの声は、彼自身が驚くほど柔らかかった。
エカテリーナはくすりと笑い、軽い調子で返した。
「私には、どこか流浪の民の血でも混じっているのかもしれませんね。
だから、こんな瞳の色なのかも」
冗談めいた言葉だった。
だがアルブレヒトは、本当にそうなのかもしれないと思った。
彼女はあまりにも自由で――
捕らえようとしても、指の間をすり抜けていく風のようだと。
「……」
アルブレヒトは何も言わず、ただ彼女の手を握り直した。
彼女の動きに呼吸を合わせるうちに、彼の足取りも次第に変わっていく。
ぎこちなさは消え、水面をなぞるように滑らかになった。
二人の呼吸が重なる。
それまでちぐはぐに絡まっていた動きが、ひとつの流れとなって溶け合っていく。
互いに目を合わせずとも、確かに相手の鼓動を感じながら――
ワルツは終わりを迎えた。




