第11章 残業のワルツ(1)
……なんで私、ここにいるの?
せっかく日が沈む前に仕事が終わって、万歳しながら帰れると思っていたのに。
扉の先では、皇女殿下の侍女が待っていた。
そしてそのまま流れるように連行され、
紅茶とケーキをご馳走になったところまではよかったのだけれど。
――でも、どうして?
なぜ勤務時間が終わった後まで、職場の上司と顔を合わせなきゃいけないんですか?
エーリヒにまた会えたのは嬉しいから、まあいいけど。
案の定、殿下は眉間にしわを寄せ、見るからに機嫌が悪そうだった。
そんな弟を、アーデルライド皇女殿下がやわらかく――
しかし有無を言わせぬ声音でたしなめる。
「アルブレヒト。舞踏会をお嫌いなのは存じています。
けれども今回は、必ず出席していただかねばなりません」
「……姉上」
「最初の一曲を踊るのはあなたです。
難しいワルツを、練習もせずに踊るおつもり?」
完全なる正論で、反論の余地はゼロ。
姉には勝てない皇子は、黙り込んでしまった。
……で、皇女殿下?
私はそろそろ帰宅を――。
そう思った矢先、皇女殿下はこちらへ目を向けてきた。
しかも、微笑みながら。
「イリィチャ令嬢も、舞踏会に出席なさいますよね。
帝国式のワルツには、まだ慣れていらっしゃらないでしょう。
でしたら――一緒に練習しておいた方がよろしいかと」
「ええ、まあ……そうですけど」
――あ、これはもう逃げられないかも。
「エーリヒも、まだ古式の舞を練習していないと聞きました。
私が踊りながら教えられるのは、一人だけ。
――ですから、イリィチャ令嬢にもぜひお手伝いいただければと」
……ぐっ。
ケーキまでご馳走になっておいて、「今日はもう帰ります」なんて言えるはずがない。
『まさか姉上の頼みを断るつもりではないだろうな』
アルブレヒト殿下が、そう言わんばかりの鋭い視線を向けてくる。
さらにエーリヒも、「お願いできますか」とでも言いたげに、にこりと微笑んでくる。
「わ、私でよければ。
――時間外労働ですけど……いえ、なんでもありません」
「ありがとうございます、イリィチャ令嬢。
本当に、あなたにお願いできて助かります」
満面の笑みを浮かべる皇女殿下。
あの、その微笑み。なぜか少し気になるんですけど……?
「皆、基本のワルツくらいは心得ていますから、実際に踊りながら覚えるのが一番でしょうね。
では、パートナーは――」
アルブレヒト皇子が、即座に答えた。
「エーリヒ。お前が姉上と組め」
「……はい」
なるほど。
さっきあんなに仏頂面だったのに、断らなかったのはそのためか。
まあ、それなら納得。
私が心の中でうなずくと、皇女殿下はふわりと目を細めた。
「では、アルブレヒトのお相手は……イリィチャ令嬢にお願いしてもよろしいですか」
「微力ながら、務めさせていただきます」
「――では参りましょう。練習用の広間を手配してあります」
エーリヒが、少し意地悪そうに微笑んだ。
『アルブレヒト殿下の半径三メートル以内には絶対に近づかない』
そんな私の固い誓いが、また破られてしまうのを面白がっているのだろう。
――ていうか、エーリヒ……?
急に決まった練習にしては、ずいぶん手回しがよすぎませんか?
***
はあ……まさか仕事のあとに、舞まで踊る羽目になるとは。
最初に組んだのは、皇女殿下とエーリヒだった。
殿下は一歩踏み出すたび、優雅に手を伸ばし、エーリヒを軽やかに導いていく。
「エーリヒ、もう少し肩の力を抜いて。
そう、そのまま――足の運びは遅れないように。けれど、急ぎすぎてもいけません」
「はい」
柔らかな声に従ううちに、エーリヒの動きはたちまち整う。
アーデルライド皇女殿下とエーリヒの舞は、一歩ごとに呼吸がそろっていく。
まるで、最初からそうなると決められていたかのように。
拍を刻むごとに、二人の動きがぴたりと重なる。
軽やかな旋律とともに、気品ある舞が広間を満たしていく。
その姿が、こんなにも美しく見えるのは……。
二人が、互いを想い合っているから。
相手を大切にしたいという気持ちがあるから、こんな舞になるんだ。
胸の奥が、じんわりと温かくなっていく。
知らず知らずのうちに、笑みがこぼれていた。
――自分でも意外なくらい、嬉しくて。
「……なぜ、そなたが満足そうに笑っている?」
隣から聞こえた声に顔を向けると、アルブレヒト殿下が私を見つめていた。
「だって、この光景を見られただけで、十分に満たされましたもの。
――帝国に来て、本当によかったです」
そう口にした瞬間、青と紫が溶け合う瞳に、ふっと優しい温もりが宿った。
殿下は何も言わず、ただ私を見つめ続けている。
私も逃げずに、その瞳を見返した。
「殿下も、そうお思いでしょう?」
わずかな沈黙のあと。
殿下は噛みしめるように、短く答えた。
「……ああ」
それきり、彼は言葉を続けなかった。
私たちの視線は、再び前へ。
舞い続ける二人へと注がれる。
音楽に合わせて回る、アーデルライド皇女殿下とエーリヒ。
燭台の光を受けた二人の影が、そろったステップに合わせて床の上を滑っていく。
あの二人が、どうか幸せになれますように。
私はただ、そう願った。
――やがて旋律が終わりを告げた。
アーデルライド皇女殿下とエーリヒは、最後の一歩までそろえて舞を締めくくる。
裾を翻し、互いに礼を交わす姿は実に見事だった。
広間の空気まで澄みわたったようで、思わず見入ってしまう。
「ご覧になりまして?」
皇女殿下が優雅に微笑み、こちらへ視線を向けた。
「それでは――次は、お二人の番ですわ」
「……承知しました」
「は、はい」
促され、私は殿下とともに広間の中央へ進んだ。
向かい合った瞬間、息が詰まる。
差し出された手を取る。
ただそれだけなのに、どうにも肩に力が入ってしまった。
間近で見上げれば、殿下の整った顔立ちが真正面にある。
……いや、これは近すぎる。
あの容姿は、もっと遠目から眺めるべきものなのに。
『美術館で数メートル離れて鑑賞する作品』ですよ、これは!
「……では、僕が数えます」
控えめな声がした。エーリヒだ。
軽く手を掲げ、拍を取るように声を上げる。
「アインス……ツヴァイ……ドライ!」
その声に合わせ、私は殿下の手を握り直し……どうにか笑顔を作って、一歩を踏み出した。




