第10章 届かぬ想いと、届くための一歩(2)
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王城を出て、港へ向かう道中。
馬車の向かいに座っていたネッドが、口を開いた。
「いやはや、王女様を泣かせて出てくるとは。
うちの公爵様も、ずいぶん罪作りな男だったのですね」
「相変わらず、情報を仕入れるのが早いですね」
ネッドは肩をすくめた。
「それが、グリウェンスフォード家の情報収集を担うのが、私の務めではありませんか。
以前から殿下は閣下を見るたびに、顔を赤くしておられましたし。
気づかないほうが、おかしいでしょう」
「ネッド卿。耳は開いていても、口は堅くなくてはなりません」
穏やかではあるが、きっぱりとした言葉。
ネッドは大げさに両手を上げた。
「もちろんです。私とて、軽々しく吹聴するつもりはありませんよ」
オーガスティンは、ずいぶん遅れて二人の会話の意味を理解し、目を見開いた。
「ちょっと待ってください。
では、公爵様は王女殿下とご結婚なさる可能性もあった、ということですか?」
「女王陛下も、内心では望んでおられただろうな」
ネッドが、さほど気にした様子もなく答えた。
「六大領主のうち、未婚なのはうちの閣下だけだからな。
若くて有能で、そのうえ美男子ときている。
欲しがらないほうがおかしいだろう」
「では、王家の婿になられる可能性もあったということではありませんか。うわあ……」
「うちの公爵様が、わざわざ王家と婚姻を結んで何を得るというんだ。
干渉が増えるだけだろう。それに――」
ネッドは公爵の顔をちらりと見て、にやりと笑った。
「お前も聞いただろう? うちの閣下の結婚の約束をさ」
からかうような口調だったが、公爵はあえて否定しなかった。
静かに目を閉じ、また開いただけだった。
「ところで閣下。ちょうど帝国から、新しい知らせが入っております」
「聞きましょう」
「イリィチャ令嬢が、アルブレヒト皇子の内閣に入ったそうです」
公爵の視線がネッドへ向けられた。
「外国の使節でありながら、内閣に?」
「はい。アルブレヒト皇子が直々に提案なさったとか。異例のことでしょう」
外国の使節として訪れた者を、内閣に迎え入れるとは。
しかも、伝統を重んじることで知られる帝国が。
オーガスティンが目を丸くして尋ねた。
「では、その令嬢はこのまま帝国に留まるのですか?
え? ですが帝国は、我がロイトンの潜在的な敵国ではありませんか……」
「まあ、外国使節という身分なのだから、臨時の顧問に近いのだろう。
ただ、かなり『噂』が広まっているそうだ」
「そ、それはもしかして……」
オーガスティンは公爵の顔色を窺い、口をつぐんだ。
ネッドは大したことでもないような口調で続けた。
「まあ、皇子の命を救った令嬢が内閣入りとなった……。
噂話の好きな連中が、黙っているはずもないでしょう。
まるで、芝居にでも出てきそうな話ではありませんか」
「実際のところは?」
「真偽は確認できておりません。
さすがにここから帝国までは、かなり距離がありますので」
「そうですか」
公爵の返答は、いつもどおり落ち着いていた。
ただ、膝の上で組んだ指が、ほんのわずかに力を帯びる。
ラピスラズリの印章指輪が、鈍い光を返した。
「先にご報告しておくべきだと判断しました」
「よく知らせてくれました。引き続き、確認をお願いします」
「もちろんです、閣下」
ネッドが頭を下げた。
公爵は黙ったまま、窓の外へ視線を向けた。
王城の高い尖塔はいつしか遠ざかり、港の帆柱が姿を現し始めていた。
***
馬車を降りると、潮の香りを含んだ風が鼻腔を満たした。
ロイトン王国の旗と、グリウェンスフォード公爵家の紋章を並べて掲げた帆船。
見慣れた旗印が、海風を受けて大きくはためいていた。
錨の上にとまる、黒い烏。
船に乗り込む前に、公爵は振り返ってその旗を見つめた。
グリウェンスフォードの旗の上に、黄昏が降りていた。
先代公爵の一人息子。
幼い頃、ひどい熱病を患った少年。
その後遺症で言葉が不自由になり、誰からも嘲られていた。
彼が公爵になれるはずがないと、誰もが口にした。
諦めていたかもしれない。
彼女がいなければ。
まともに言葉を話せなかった自分を、好きだと言ってくれた人。
ずっと一緒にいたいと言ってくれた人。
身体が十分に成長した十七歳のとき、治癒魔法を受けた。
治療は成功し、両親は涙を流して喜んだ。
だが、誰もがそれを喜んだわけではなかった。
公爵位と、その莫大な権力と財産――
それが自分たちのもとへ転がり込むことを期待していた傍系の親族たちだった。
彼の回復は一時的なものにすぎないという噂。
長い病のために後継者教育を満足に受けていない者が、公爵位を継げるはずがないという主張。
それでも、彼は打ち勝った。
欲深い傍系を退け、家臣団を立て直し、領地を発展させた。
そうして地位を確固たるものにするまでに、数年の歳月を要して。
ようやく今、すべてが落ち着いた。
彼女に会いに行けるほどに。
――幼い頃の名しか覚えていなかったため、見つけ出すまでには長い時間がかかったが。
けれど、ついに……。
「閣下」
オーガスティンの声に、公爵は遠い記憶から引き戻された。
「すべての準備が整ったそうです」
「ああ」
公爵は船に乗り込む前に、赤く染まる水平線の向こうを見つめた。
見慣れたロイトンの海岸を越え、さらに遠くまで進んだ先。
その見えない果てに、アウフェンバルト帝国がある。
そして、そこには……本当に君がいるのだろう。
それでも、いざ船を前にすると、胸の奥から恐れが顔を覗かせた。
苦しいときはいつも、君のことだけを考えていた。
君だけを恋しく思っていた。
けれど、君は……どれほど私を覚えているのだろう。
もし、すでにほかの誰かを想っているのなら……。
――それでも。
約束したから。
治ったら、君に会いに行くと……。
彼は一歩を踏み出した。
木造の渡り板が、靴の下で低く鳴った。
――そして、同じ頃。
エカテリーナは、望まぬままにワルツの最初の一歩を踏み出していた。




