第10章 届かぬ想いと、届くための一歩(1)
海洋王国ロイトンの王城、セレンダム。
謁見の間の重厚な扉が、低く響く音を立てて開いた。
その奥から、正装に身を包んだ黒髪の青年が歩み出る。
扉を厳重に守っていた近衛兵たちが、恭しく敬礼した。
グリウェンスフォード公爵――レノックス・キアラン・ノエル・レイヴンクレス。
午後の日差しが窓から差し込み、赤い絨毯の上へと降り注いでいた。
彼はわずかに目を細め、手袋をはめた手で外套の襟を整えた。
女王との謁見は、予想よりも長引いた。
アルブレヒト皇子の皇太子冊封式を祝うための、使節団の派遣。
自ら帝国へ赴くと、初めて申し出たとき。
女王は驚いた様子を見せたものの、拒みはしなかった。
彼は六大領主の一人であり、女王の厚い信任を得ている臣下でもあったからだ。
信任状も国書も受け取り、女王への別れの挨拶も済ませた。
あとは出航を待つだけ。
「グリウェンスフォード公爵」
背後から聞こえた細い声に、公爵は足を止めた。
振り返ると、淡い金髪をきちんと編み上げた少女が、二人の侍女を従えて立っていた。
陽光に照らされた頬は、ほんのりと赤く染まっている。
女王の末娘、シンシア王女だった。
「王女殿下」
グリウェンスフォード公爵は、片手を胸に添え、恭しく頭を下げた。
シンシアもドレスの裾をわずかに持ち上げ、答礼する。
「お城へいらしたと聞いて……謁見は、もうお済みになりましたの?」
「はい。たった今、終えてきたところです」
丁寧に答える青年の顔を見つめながら、シンシアは言葉を呑み込んだ。
今日も、素敵でいらっしゃる。
夜の海のように、青みを帯びた黒い髪。
光を受ければ宝石のように澄んで輝く、紫色の瞳。
穏やかに微笑んでいるだけなのに、彼の周囲には……いつも特別な空気が漂っていた。
思わず目を奪われたまま……息をすることさえ忘れてしまいそうになるほどに。
けれど、今日の彼はいつにも増して遠く感じられた。
もうすぐ帝国へ発ってしまうからだろうか。
このまま、彼を行かせてはいけない気がした。
次に帰ってくる頃には……もう、何もかも手遅れになっているかもしれない。
「あの……でしたら、少しだけ……庭園をご一緒に歩いていただけませんか?」
「喜んで。光栄に存じます」
黄金色の葉が落ち始めた、小さな後園。
落ち葉が王女の足元で、さくりと音を立てた。
「ご出航は……いつなのですか?」
「明日の夜明けです。乗船は今夜のうちに済ませる予定です」
「……この時期の海は、とても荒れると聞いています。
特に帝国までの航路は、なおさらだと……。
どうか、お身体にはお気をつけくださいませ」
「はい、気をつけます。直々にお気遣いいただき、ありがとうございます」
静かで、優しい返事だった。
その優しさに勇気を得て、シンシアは一歩、彼との距離を縮めた。
けれど、彼の紫色の瞳と目が合うと、再び足を止める。
「あの……公爵」
「何なりと、殿下」
「もしかしてお母様から、わたくしのことについて……何かお話は、ありませんでしたか?」
公爵の眼差しが、ほんのわずかに変わった。
シンシアは、その微細な変化を見逃さなかった。
心臓が激しく脈打つ。
侍女たちが聞いていることさえ、忘れてしまうほどに。
「わたくしと公爵様のことについて……何か、少しでも……」
彼は人知れず、小さなため息を呑み込んだ。
謁見の終わり際――女王が探りを入れるように、遠回しに匂わせた縁談。
若く、未婚の公爵。
広大な領地と強大な艦隊を有する大領主。
女王が可愛がる末娘の結婚相手として、自分を考えるのは不思議なことではなかった。
そして。
自分を見つめるシンシアの眼差しが、何を意味しているのか。
彼はすでに気づいていた。
いっそ、政治的な理由だけであったならよかった。
「特に、そのようなお話はございませんでした」
「そう、ですか」
公爵はそれ以上を語らなかった。
しかしシンシア王女は、震える声で口を開いた。
「あなたが帝国へ発たれる前に、お伝えしたかったのです。――わたくしは……」
「王女殿下」
下手な慰めや、気づかぬふりをする態度は、かえって彼女に深い傷を残すだろう。
だからといって、王女にその想いを告げさせるわけにもいかなかった。
ゆえに公爵は、それ以上、彼女の言葉が続かぬよう遮った。
「殿下……それ以上は、どうかおっしゃらないでください。
畏れ多いことながら、私は殿下のお心にお応えできません」
王女の顔から血の気が引いた。
「どうして……なのですか?」
やっとの思いで絞り出した問いだった。
公爵は、シンシアの後ろに控える侍女たちへ視線を向けた。
その意図を察した侍女たちは、静かに距離を取って下がった。
「殿下に不足があるからではございません」
「そんな、お言葉では、慰めになりません……」
王女の目元には、すでに涙が滲んでいた。
それを必死に堪えながら、彼女は問いかけた。
「り、理由を聞かせてください。
どうして、わたくしを受け入れてはくださらないのですか」
「ずっと昔から、心に決めた方がいるのです」
「……」
「私がまだ幼い頃から、ずっと」
シンシアの青い瞳が揺れた。
公爵は、彼女を見てはいなかった。
その視線は王宮を越え、そのさらに向こうへと向けられていた。
――痛ましいほどの切実さを宿して。
入り込む余地など……ない。
そのことを悟った瞬間、必死に堪えていた涙が瞳から溢れた。
「その方は……公爵様のお気持ちをご存じなのですか?」
彼は、わずかに困ったように笑った。
「わかりません。もしかすると、私のことなど覚えていないかもしれません」
「それでも、ずっと待っていらしたのですか?」
「はい。約束しましたから――必ず会いに行くと」
「その方は、いったいどこにいらっしゃるのですか……」
彼は、かすかに微笑んだ。
「これから、会いに行くところです」
いつも冷静だった紫色の瞳に、初めて鮮やかな光が差した。
シンシアは大きく目を見開き、その表情を見つめた。
こんなお顔をなさるのだ。
こんなふうに、笑うこともおできになるのだ。
シンシアは、もう何も言えなかった。
ただ、嗚咽の混じった息を小さく呑み込む。
「……そう、なのですね」
どうにかそれだけを口にするのが、限界だった。
祝福の言葉も、無事を願う別れの挨拶も、今は出てこなかった。
彼女はただ涙を堪えながら、自分が恋した男のために道を空けた。
公爵は、そんなシンシアに深く腰を折った。
「殿下のご配慮に、感謝申し上げます」
彼は、それ以上、下手な慰めを口にすることはなかった。
その後ろ姿が見えなくなってから、ずいぶんと経って。
ようやく、押し殺していた泣き声が少しずつ漏れ始めた。




