第9章 誘惑と秘密、そして揺らぎ(5)
けれど、エーリヒは苦しげに目を閉じ、やがて再び開いた。
「エカテリーナさん……。
あの時、あなたがいなければ、僕はきっと命を落としていたでしょう。
殿下だって、危険に巻き込まれていたはずです。
本当に……感謝しています。そして……心からお詫びします」
「感謝してほしくてやったわけじゃありません。
でも……やっぱり『ありがとう』って言われると、嬉しいものですね。
謝る必要なんてありませんよ」
それでも、エーリヒの表情は硬いままだった。
「ですが……殿下と僕を救うために、わざわざ遠いオブロフから来てくださっただけでなく……。
周囲から、きっと誤解まで受けているのではありませんか?
リューネの日に僕の傍に立ったことだって、今も人々の噂の種に……」
――ああ、あの『奔放で男好き』なんて噂のことね。
むしろ、都合よく利用させてもらってるけど。
「それに、あの機密文書……お父上の書類を盗み見たことも、すでに知られているでしょう。
お父上がお怒りになったのではありませんか?
それで、オブロフへ戻らず帝国に留まるのでは……」
「ち、違いますって!
私は殿下のお手伝いをしながら、旅の資金を貯めたいだけなんです。
それに――帝国の美形を眺めるのも、悪くないですしね」
「……最後の一言さえなければ、完璧に感動的だったのにな」
マティアスの小さな呟きが、耳に届いた。
「エカテリーナさん……。
人々から誤解を受けただけでなく、お父上の怒りまで買ってしまったのなら……。
あなたが失ったものは、あまりにも多いはずです」
「そうだな。エーリヒも、俺も――結局『エル』ではなかったのだから」
雰囲気が、また重くなってきた。
……でも私、本当に平気なんだけど?
どうして誰も信じてくれないんだろう。
視線を落とすと、短くなった蝋燭が目に入った。
流れ落ちた蝋は固まり、不思議な模様を描いている。
「ねえ、エーリヒ」
「……はい?」
「あなたに会って、エルじゃないと知ったとき――
悪い言い方になるけど、本当に迷ったんです。
あなたたちを助けるには、それなりの代償が必要でしたから」
「それは……当然のことです」
「でも、私は動いた。そして――」
私はエーリヒの胸元を指さした。
「私にそう決意させたのは……あなた自身です」
そう言って、私は声を上げて笑った。
「殿下は、私のことをほんっとうに嫌っていらっしゃるみたいですからね。
まあ、わざと傲慢な使節を演じたんですけど……。
それにしたって、あまりにも冷たかったから、むっとしそうになりましたよ?」
「そ、それは!」
「図星ですよね?」
「……」
「皆さん、誤解しないでください。
私、そんなに崇高な犠牲精神なんて持ってませんから。
ただ、お二人を見て――助けるだけの価値があると思ったから動いただけです。
だから、胸を張ってください」
***
「命は皆尊い」とか、「あなたのせいじゃない」なんて言葉は、一切なかった。
ただ――エカテリーナは、眩しいほどに笑ったのだ。
さらりと流れる光が、揺らめく炎と溶け合う。
誰もが、彼女の翠玉の瞳に惹きつけられた。
鮮やかで……どこか挑むように艶めいている。
その眼差しは、胸の奥をかすかにざわつかせ、舌先が乾くような渇きを呼び覚えた。
――やはり思う。
彼女の冴え渡る翠の眼差しは、見る者に忘れ難い刻印を残すのだと。
アルブレヒトは、その瞳に潜む得体の知れない危うさに、思わず胸の奥が疼いた。
……不快なはずなのに、視線を外せない。
深みへと吸い寄せられるようで、唇を固く結び、抗う。
だが、エカテリーナの青緑の目元が、さらに柔らかな弧を描いた。
そして今度は、彼を絡め取るように正面から見返してきた。
「でも、殿下?」
「……話してみろ」
わずかな間を置いて、アルブレヒトが低く答えた。
「さっき、私が崇高な犠牲精神なんて持っていないって言いましたよね?
それなのに私は、国家の機密文書を見て動いただけじゃなく――
今こうして、その存在まで殿下に正直に打ち明けてしまいました」
「それで?」
「父に知られたら……本当にただじゃ済まないと思うんです。
もしかしたら、オブロフから追放されるかも?
そのときは――殿下、私の『生活』を引き受けてくださいますよね?」
「……はっ、相変わらず肝の据わった物言いをするな」
アルブレヒトは鼻で笑った。
だが、エカテリーナは一歩も引かなかった。
「エーリヒに責任を取ってほしいなんて頼んだら……殿下、きっとお怒りになるでしょう?」
「……はっ! まったく、そなたは……!」
思わず言葉に詰まる。
今まで、これほど堂々と俺に食ってかかる女がいただろうか。
危なっかしい綱を、軽々と渡ってしまうような口ぶりだ。
エーリヒは気を揉んでいるようだが……心配する必要はない。
将来、帝国の皇帝となるこの俺に、正面から挑んでくる度胸だ。
オブロフの統領どころか、誰だって手を焼くに違いない。
それにしても――オレスキーという男、やはり侮れない。
この娘の父親なのだから。
そこへ、フランツがひょいと口を挟んできた。
「責任なら、俺が取ってもいいけど?」
「猫に魚の番をさせる方が、まだマシだな」
「……マティアス、最近やけに俺に冷たくない? 傷つくんだけど」
「気づいたか。なら結構」
「は?」
「私はまず、雇い主に申し上げているんです。
あの、雇い主様? もし勘当されたら、私、本当に身の置き所がなくなりますよ?」
……助けてくださいますよね? ね?
うるうるとした瞳。
わざとらしいのが見え見えで、あまりにあざとい。
アルブレヒトはしばし黙したが、結局は答えざるを得なかった。
「……考えておこう」
「ふふ、そうおっしゃいますが。
殿下はもう、あなたを『ご自分の側の存在』と見ていらっしゃるのです」
エーリヒは穏やかにそう告げ、言葉を続けた。
「私も……全力を尽くします。
この身に受けたご恩を、少しでもお返しできるように。
……どうか、ご安心ください」
「ありがとうございます! やっぱりエーリヒが一番頼りになります!」
――舞踏会のときも、あなたは同じように言いましたよね。
エーリヒは彼女を見つめ、かすかに笑った。
エカテリーナさん。
ご自分の価値を、まだ分かっていないのですね。
けれど、僕は気づいてしまいましたよ。
今、殿下の表情がわずかに歪んだことに。
殿下の傍らにあっても、あなたはひときわ眩しく映る。
その深い翠の瞳を見れば、誰一人として「殿下の外見に劣っている」などとは言えないでしょう。
……いや。
殿下ご自身が、その輝きに引き寄せられているようだ。
冷徹なはずの横顔に浮かんだ影を見て、エーリヒはそう直感した。
彼は静かにグラスを掲げ、まだ眉を寄せている親友の横顔を見つめた。
アルブレヒト殿下……。
もしかすると、あなたはもう見つけてしまったのかもしれませんね。
あなたを理解し、そして、あなた自身をありのままに映し出す存在を。
エーリヒは微笑みを浮かべた。
「……乾杯!」
透き通る音を響かせて、グラスが重なる。
揺らめく灯りの中、帝都の夜は祝宴の熱気とともに、深く沈んでいった。




