第9章 誘惑と秘密、そして揺らぎ(4)
「おまえは、殿下に特別に招かれた客人なんだ。
最初から好き勝手やってるあいつとは違う!」
「それ、差別じゃん!」
「……なあ、さっきから俺の名前、出すぎじゃないか?
なんでそんなに巻き込むんだ?」
フランツが、うんざりした顔で銀髪をかき上げる。
「わかんない? 普段のおまえの行いのせいに決まってるでしょ!」
「うるさいよ、フランツ!」
「……」
フランツ号――見事に轟沈。
エーリヒは口を挟まず、静かにフランツの背中をぽん、と叩いた。
そのまま懐から時計を取り出して確認し――ふっと表情を曇らせる。
「話に夢中で、伝えそびれていましたね。
本当なら、戻ってすぐに言うべきでした……マティアス?」
「ん? なんだよ」
「まさか、忘れていませんよね。
……もうすぐ、お見えになる時間です」
「……え?」
なんのこと?
私は首をかしげた。
フランツも「さっぱりわからん」という顔をしている。
でも――私たちとは違い、隣にいたマティアスの顔だけが、一瞬で固まった。
「しまった! すっかり忘れてた!
あとどれくらいだ!?」
「もうすぐです」
「お見えになる……? えっ、まさか……」
嫌な予感が、言葉にするより先に背筋を駆け抜けた。
私は反射的に振り返る。
氷を背中に押しつけられたように、ぞくっとした。
誰もいないはずなのに、背中がぞわぞわと冷えていく。
「……そなたたちは、こんな場所でもずいぶんと賑やかだな」
「でっ……っ!」
私はとっさに、叫びそうになった声を全力で噛み殺した。
猛獣か幽霊じゃあるまいし、「出た!」なんて叫んだら……。
その後が怖すぎる。
びくびくしながら振り返ると、フードを深くかぶった男が立っていた。
彼は片手で額を押さえながら、ため息をついている。
……疑いようもない。
フードで顔の上半分を隠し、口元まで布で覆っていても。
そんな程度で隠せる美貌じゃないからね。
「殿下!」
「――しっ」
声を上げてしまったフランツを、マティアスとエーリヒが慌てて制した。
フランツは自分の口を手で塞ぐ。
そして、私たちは席を移すことになった。
先ほどの開けた場とは違う、奥の小さな個室へ。
アルブレヒト皇子は周囲をひととおり確認すると、ゆっくりとフードへ手を伸ばした。
エーリヒがうなずくのを見てから、静かにそれを外す。
――現れたのは、ため息が出るほど整った顔立ち。
……あれ? 殿下が黒髪?
染めてる?
「その髪は、染めていらっしゃるんですか?」
「そうだ。目立つからな」
「まあ、確かにそうですね」
帝国の魔導工学によるものだろうか。
元の髪は眩しいほどに輝き、近くにいるだけで、周囲の金髪が色あせて見えるほどだった。
それが今は――漆黒の艶を放っている。
輝きは抑えられても、なお目を奪う。
白金色だったときよりも禁欲的で……妖艶な感じ?
うん。正直、私はこっちの方が好みだな。
……やっぱり危険すぎる、この美貌。
そこまで考えて、はっと我に返った。
「で、殿下? どうしてわざわざ私の隣に?」
「何か問題でも?」
「い、いえ……」
問題しかないに決まってる!
どうして、よりによって『隣』なのよ。
気づけば、私は殿下のすぐ隣に座らされていた。
……どうしてここにしたの、マティアス、エーリヒ!
さっき『殿下の隣には絶対座らない』って、心に誓ったばかりなのに!
正面に座ったエーリヒが、私の顔を見て吹き出した。
その笑いに、場の緊張が一気に和らぐ。
「殿下がこの場にいらっしゃるとは……。
知らせを受けた時は、本当に驚きました」
「たまたま時間が空いてな。
そなたたちが外で集まっていると聞いて、好機だと思った」
優雅にグラスを傾けるアルブレヒト皇子。
その鋭い視線は、まっすぐに私を射抜いていた。
「そなたに――必ず聞いておくべき話があるから」
「……そうですね。
お話しすると言ってから、もう何週間も経ちましたし」
「今日は、その顛末をすべて聞かせてもらえるのか?」
「殿下がお望みなら」
私が――なぜ彼らを救ったのか。
「さて……どこから話すのがいいでしょう」
私は新しく開けた最高級のワインで、喉を潤した。
方法については話したことがあっても、理由までは口にしなかった。
軽く話したところで、到底信じてもらえない気がしたからだ。
「前もって言っておきますけど……きっと馬鹿げていると笑うかもしれません。
子供の頃の私――可愛くて、元気で、愛らしかったエカテリーナは……
南の島へ保養に出かけたことがあるんです」
「……自分で可愛くて愛らしいって言うのか?」
「しーっ、静かに」
――わざと軽口で切り出した物語は、やがて過去の旋律へと溶けていく。
揺れる蝋燭の炎が、長い影を落としていた。
個室の静寂が、そのまま舞台を作り出しているようだった。
大切な幼なじみ、エル。
そして偶然、書類の中で見つけた「エーリヒ」という名前。
最初から――違うかもしれないとは分かっていた。
それでも、見過ごすことなんてできなかった。
「ご存じでしょうけど、私の父は……家庭を顧みることのない人でした。
母もまた、自分の人生だけを追いかけていました。
そのせいで、周りには『私を庶子だと蔑む人』と、『おこぼれを狙う人』しかいなかったんです」
「……」
「そんな子供時代に、唯一の友達だったのが――『エル』でした」
だから、帝国へ向かう列車に乗った。
会って、エルではないと分かった。
それでも、エーリヒを助けようと決意した。
そして――本来たどるはずだった運命は変わったのだ。
彼らは皆、私の言葉に隠しきれない動揺を見せていた。
「そんな理由で……いや、すまん。
君に対して失礼な言い方だな」
マティアスが言葉を探しながら、ようやくそう口にした。
一方、アルブレヒト皇子は、別のことに考えを巡らせているようだった。
彼は唇を噛みしめ、やがてゆっくりと力を抜く。
「そこまで正確に予測するとは……。
やはり、オブロフのオレスキーか。
だが、そなたはその事実を明かしてしまって、本当にいいのか?」
「全部偶然だとか、『実は予言者なんです』なんて言っても、殿下は信じないでしょう?
そのまま尋問室行きですよね?」
「……そなたは俺を、一体なんだと思っているんだ」
呆れたような顔を向けられたので、「あれ、違いました?」とでも言いたげに肩をすくめてみせる。
彼は深く息を吐き、視線を逸らした。
――あ、この流れ。
なんだか見慣れてきた気がする。




