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第9章 誘惑と秘密、そして揺らぎ(3)

あの皇子様、本人だけが『美の神に選ばれた存在』みたいに輝いているからね。

そのせいで、隣にいる人間なんて……まとめて雑魚扱い。


その代表的な被害者が、シュレスホルツ侯爵令嬢だ。


知的で上品、帝国でも指折りの美女。

……なのに、殿下の隣に立ったら……。

普段なら気づかない小さな粗まで浮き彫りになってしまう。


……『隣に立つだけでデバフ』を食らうなんて――正直、ホラーでしょ。


きっと私だって、例外じゃない。

隣に立ったら、人間扱いどころか……最悪、大使館のあの蛸さんみたいに見えるかも。


「だから私は決めたの。

アルブレヒト殿下の半径三メートル以内には、絶対に一人では近づかない、と。

今後もその方針だけは全力で貫くつもり」

「ぷっ……ぷはははははっ!

殿下のお顔を『迷惑』だなんて!? おまえ、マジでヤバすぎ!」


……こっちは大真面目なんだけど?


途中から肩をふるわせてたマティアスは、ついに我慢しきれず爆笑。

そして――


「ぎゃははっ!」

「痛っ!」


私の背中を、思いっきりバンバン叩いてきた。

いや、ほんとに痛かったんだけど……?


ジト目で睨みながら背中をさすったけど、マティアスはまったく気づいていなかった。

むしろ笑いすぎて暑くなったのか、勢いよく立ち上がる。


「暑いし、風にでも当たってくるわ!」


そう言うと、マティアスはエーリヒまで連れて、外へ出ていってしまった。


……まさか、わざと逃げたわけじゃないよね?



***


二人きりになった席には、余韻のような緩やかな静けさが漂っていた。

席に残ったフランツが、私の空いたグラスにワインを注いでくれる。


「さ、飲もうか」

「ありがとう」


夜の帝都で、赤いワインがグラスを満たしていく。


気がつけば、もうすっかり夜も更けていた。

ピアニストの指先から零れる旋律は、静かで美しく――

まるで夜想曲のように響いていた。


グラスの中のワインが、ゆらめきながら波打つ。

軽やかな音が照明のきらめきと混ざり合い、まるで音楽そのもののようだった。


私はそっと耳を傾けた。


黒の燕尾服えんびふくをまとった演奏者は身を屈め、その指を鍵盤の上で舞わせる。


アレグレット。

少し速めのテンポ。


交差する指、揺れる旋律。

そして――次第に速さを増していく。


「エカテリーナ」


フランツの声が、音楽に聴き入っていた私の耳に届いた。


その指先が、そっと私の頬に触れる。


顔を上げると、鋭い顎のライン。

そして、磨かれた銀のような灰色の瞳が、あからさまな誘惑を湛えて――私を見ていた。


「アルブレヒト殿下は、重いって感じ?」

「うん。外見も、立場も、何もかもが」

「じゃあ――俺は?」


低くかすれた声が、耳元に落ちる。

視線が絡まり合い、胸がふっと痺れた。


思わず、目を見開いてしまう。


彼の瞳がわずかに動き、唇がそっと開かれる。

沈黙のなか、二人の距離がゆっくりと縮まった。


髪を撫でる指先から熱が伝わり、鼓動がざわつく。

ぎりぎりの距離まで近づき、もう吐息が触れそうになる。


「――さあ、どうかな?」


「俺はいいと思うけど。

舞踏会で初めて見たときから、惹かれてたし」


髪をなぞっていた手が頬に触れ、やがて離れかける。

けれど名残惜しげに……また元の場所へと戻ってきた。


指先が唇へ寄せられる。

キスを誘うような仕草だった。


そのまま銀髪の美男子が、じっと私を見つめてくる。


ごくり、と喉が鳴った。

挑発するような視線が、甘く私を誘っている。


――想像してしまった。


今、目を閉じたら……このまま唇を奪われるんだろう。


鼓動が早まる。

甘さの奥に、痺れるような刺激があった。

自然と両手に力が入り、唇を無意識に結んでは、また力を緩める。


そのとき、彼の目元が細められた。

少しずつ、顔が近づく。


熱を帯びた吐息が、私の吐息と重なっていく。


まさに、その瞬間――

私は、自分の指先で唇を塞いだ。


「プレイボーイでしょ? 自分でも分かってるくせに」

「ふむ。それはどういう意味だ?」

「閣内恋愛なんて、うまくいってもプラマイゼロ。

こけたら最悪でしょ」

「おまえは本気でそう思ってるのか?」


彼の手が、膝へ伸びてくる。

ぞくりとしたけど、私は脚をひねってかわし、笑った。


「この制服は、ドレスと違って誤魔化せないんだから。

手は大人しくしてなさい、フランツ」

「……惜しいな。

ドレスなら、俺の手くらい誰にも気づかれないのに」

「へえ?」

「――殿下の慧眼けいがんかもしれんな。

おまえみたいな奴がいるからだ」


呆れた声が割り込んできた。

エーリヒと戻ってきたマティアスだ。


状況を察したのか、彼はフランツの肩をつかみ、私から引き離して腰を下ろした。


「まったく……だから俺は、少しも席を外せないんだよ」

「嘆かわしいな。

友の気持ちをまったく分かろうとしない奴がいるとは」

「よく言うな!

舞踏会で一緒にいた黒髪の女性はどうしたんだ!」

「それは、お互い納得して区切りをつけた、ほんの一時の遊びだった」

「おまえな!

それで何人目だと思ってるんだ!」


マティアスが説教を始めそうになり、フランツが慌てて話題をそらした。


「まあ、俺のことはいい。

エカテリーナにも、言い寄る男は結構いるだろ?


この前のティーパーティーでも、一番の人気者だったんだぜ」


「はあ……。フランツだけでもうんざりなのに、なんでおまえまで」

「えっ? 私は紹介された人と話しただけだよ!

どうして私まで、フランツと同じ扱いをするの?」


リューネの日以来、泣きたくなるほど忙しい日々だった。

誰かと関係を進展させる暇なんて、まったくなかったのに。


「おい。おまえのせいで別れたカップルがいるって噂、もう俺の耳にまで届いてるんだぞ」

「なんでそれが私のせいになるの?

その男が勝手に私に惚れて、女が怒って別れただけだから。

そんな程度で壊れるなら、どうせ長続きなんてしなかったのよ」

「はは……」

「むしろ、感謝してくれてもいいくらいだわ」

「まったく、口だけは達者だな!」

「いったっ!」


頬が、ぐいーっと伸ばされた!


……マティアス、酔ってるでしょ!

こんな仕打ち、人生初なんだけど!?


まるで、近所の悪ガキを叱る兄ちゃんみたい。

気安く仲間扱いされてる気は、まあ、悪くはないけど――痛い!


私は、心の中でそっと誓った。


絶対、婚約者に告げ口してやる。


よその女の繊細な頬を引っ張ったとか……背中をバンバン叩いたとか。


聞いた話じゃ、婚約者にはめっぽう弱くて――恐妻家予備軍なんだとか?

ふふ……どうなるか、楽しみね……。


じとーっと睨んでやったのに、マティアスは延々と説教を続けてくる。


「わかったか? ここは帝国なんだぞ。

殿下の意志で官僚の席にいるおまえの行動は、全部殿下に繋がるんだ」

「かっっったい! 少しくらい広く浅く遊ぶくらい、どこが悪いのよ」

「それ、いつもフランツが言ってるセリフだぞ!」

「殿下は、私の行動なんて気にしてないって!

フランツだって放置されてるじゃん」


……なぜか毎回、被弾しまくるのはフランツだった。

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