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第9章 誘惑と秘密、そして揺らぎ(2)

低く抑えた声。

私は笑みを浮かべたまま、彼を見返した。


「どういう意味?」

「アルブレヒト殿下さ。

新しい秘書を雇っただろ? シュレスホルツ侯爵令嬢っていう」

「ああ……そのこと?」

「そうだ。『殿下のおそばで、最も長い時間を過ごす女性』の座を奪われたんだ。

残念じゃないのか?

なんせ一時期は、殿下が君に気があるんじゃないかなんて――噂まであったんだぜ」

「な、なにそれ――!? 誰がそんな酷いことを!」


私の絶叫に、フランツがにやりと笑った。


「だってそうだろ。外国の使節として来たのに、そのまま内閣入り。

普通じゃありえない人事だ」

「ぐっ……」

「だから一時は、『すでに深い仲だ』なんて話まで出回った。

まあ、最近はシュレスホルツ侯爵令嬢のおかげで収まってるがな」

「ありえない! あのブラック皇子様に毎日こき使われてるんだよ!?

寝る暇もないくらい働かされて……忘れたの、フランツ?」

「えっ……何を?」

「私たちが……あの五日間で、何杯コーヒーを飲んだかを……!」


一瞬、場に重たい沈黙が落ちた。


「……あれは、地獄だったな」

「それぞれの机の上に、コーヒーカップの塔が積み上がっていくのを覚えてる」

「書類の山が減るたびに、コーヒーカップの山が高くなっていきました……」


皆の表情が、じわじわと暗くなる。

私も苦い笑いをこぼした。


「私、一週間で鼻血まで出したんだよ?

あの殿下さえ青ざめて、帰宅させてくれたんだ。

……あと一日続いてたら、本当に過労死してたよ。

でもね、結局――休暇は一日ももらえなかった!」

「……」

「はは、ははは……。

で――私が、誰のことを好きだって?」

「……悪かった」


――謝られた。


「とにかく、噂が静まったのはシュレスホルツ令嬢のおかげだね。

感謝しなきゃ」

「でもさ、本当に少しも惜しくないのか?

今の帝国は、『次の皇后は誰か』で大騒ぎだぞ?

殿下は少し……いや、かなり冷淡なお方だけど、いずれ帝国の太陽になるお方だし。

――しかも、規格外の美貌の持ち主だろ?」

「『規格外』なんて言葉でも足りないくらいだな」


マティアスが口を挟み、私も即座に突っ込む。


「ついでに、『かなり冷淡』って言葉でも生ぬるい気がするけど?」

「はは……否定はできませんが、困りますね。

ここで『アルブレヒト殿下は、実は温かいお方なんです』なんて言ったら……」


温かい? 誰が?

アルブレヒト皇子が?


……友人だから、そう見えるわけ?

いやいや、きっとすごく疲れてるんだよ、エーリヒ。


エーリヒは、私たち三人から無言の視線を浴びた。


「……はい。絶対にそんな目を向けられるのがオチなので、黙っておきます」


そっと肩をすくめて、降参のポーズ。

その姿に、私たちは思わず笑い出した。


「――ともかく、さ」

「え?」

「社交界なんて、今は大騒ぎだぞ?

貴族の数は減ったのに、未婚の令嬢たちのドレス注文は倍になってるって噂があるくらいだ。

それなのに、当の本人がまるで興味がないって、どういうことだ?」


マティアスが、ここぞとばかりに毒を吐いた。


「すごいな。そんな噂まで詳しく知ってるお前がな」

「ゴホン、ゴホン……ま、でもさ。

帝国皇后の座に一切欲がないなんて、逆に変じゃない?


誰だって憧れるに決まってるだろう。

しかも殿下みたいに若くて有能で、そのうえ天下一品の美貌となれば……な?」


私はつい吹き出してしまった。


「何度も言うけど……皇太子妃? いえ、皇后?

私が、そんな面倒くさくて重たい役目を望むような人に見える?

私に似合うと思う?」

「……うーん、どうだろう」

「微妙ですね」

「みんな、正直に言っていいよ? 私、気にしないから」


知り合ってまだ半月だけど、お互いの性格を掴むには十分だった。

男三人は、そろって首を横に振る。


「付き合いは浅いけど、違うと思うな」

「似合わない」

「ははは……」

「わかってるなら、最初から聞かなきゃよかったじゃん。

それに、みんなが絶賛してる殿下の美貌って、正直、私の好みじゃないし」

「……ん?」


一瞬、沈黙。

次の瞬間、男たちが一斉に目を見開いた――あのエーリヒまで。


「なにっ!? おまえ、美術専攻だったんだろ?

ちゃんとした審美眼があるんじゃなかったのか?」

「それは意外ですね……!」

「正気か?」


……今度は私が正気を疑われる番ってわけ?

それに、エーリヒまで?


どうしてそんなに取り乱してるの?

まるで友達じゃなくて、息子みたいな反応なんだけど!?


「どうして殿下の顔立ちが好みじゃないんだ!?

もしかして、専攻は最近流行りの……抽象画とか?」

「目が三つある人とか、脚が四本ある魚とか描く――あの奇妙なジャンルのやつ?

ああ、それなら納得かも!」

「専攻は普通に油絵だけど……いや、そういう問題じゃなくて!」


この男たち、私の美的感覚を疑ってる……?


「私の目はいたって正常だよ! ただ、私の好みとはズレてるだけ」

「それがもうおかしいってことじゃないか!

あの方の顔立ちが好みじゃないなんて、信じられない!」


やっぱり殿下の取り巻きだけあるね……忠誠心、すごすぎ。

これが、真の忠義ってやつ?


私は半眼になって、思わずため息をついた。


「ねえ、マティアス。もし部屋に豪華な装飾が五つあったら素敵でしょ?

でも、それが五百個もあったらどう?」

「……はあ?」

「私にとって殿下は、まさにそれなの」

「は……?」


三人の男たちは、それぞれ何とも言えない表情を浮かべていた。


「殿下は、確かに見てるだけで、感嘆の声が漏れるくらい美しい!

画家だったら感激して泣くか、逆に筆を折るかってくらいの被写体だけど――!」

「エカテリーナさん、本題から逸れています」

「あっ、ごめんなさい。

……つまり、殿下みたいな『芸術作品』は、距離を置いて眺めるくらいがちょうどいいのよ。

近すぎると、目が疲れちゃう」


三人の口が、ぽかんと開いた。


「それ、不敬罪だぞ……」

「あっ……しまった?」

「……何と言えばいいのか。

やっぱりエカテリーナさんは只者じゃないですね」


……ええい、もう知らない。

本人に聞かれてなければセーフだろう?


ほんとに言いたかったのは、むしろここからだ。


「それとね! 何より、あんな美貌って――女にとっては大迷惑だよ」

「は?」

「なんだって?」

「圧倒的すぎて、どんな女性でも容姿で見劣りしちゃうの!

だから私は、どんなことがあっても殿下の隣には立ちたくないの。

比べられたくない。私は、自分を大事にしたいんだから!」


冗談ではなく、本気でそう思ってる。

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