第9章 誘惑と秘密、そして揺らぎ(1)
内戦が終わり、ようやく活気を取り戻し始めた繁華街の奥。
フランツが自信満々に案内した店で、私たちは腰を落ち着けた。
既婚者のキルステンは早々に帰宅したので、残ったのは四人。
私とエーリヒ、フランツ、マティアス。
重厚なオーク材のテーブルを囲みながら、私たちは赤ワインを傾ける。
とくとく、と耳に心地よい音がする。
赤紫の液体がグラスを伝い、芳醇な香りがふわっと広がった。
「アロマもブーケも、しっかりまとまってる。……悪くはないね」
「おいおい、『悪くはない』で済ますかよ!? さすがに舌が肥えてるな!
これ、昔の俺なら、とても手が出なかった値段だぞ」
「それでも私の舌を唸らせたんだから、大したものじゃない?」
フランツの言葉をさらっと流しながら、私は再びグラスを口に運ぶ。
ん。チーズと黒オリーブとの相性もばっちりだね。
たしかに、庶民が気軽に足を運べるような店ではない。
そう思いながら、私は三人の様子を観察した。
エーリヒとマティアスは、まだ少しグラスの扱いがぎこちない。
けれど、自称『貧乏貴族の末裔』――
実際は男爵家の次男であるフランツは、所作が洗練されていた。
「エカテリーナ、あんた……ホントに高い酒、飲み慣れてるよな」
……まあ、私も似たようなものかもしれないけど。
「え、そう見える?」
「俺なんて三か月前まで、こんなの口にすらできなかったぜ。
月給より高かったからな」
「俺も同じさ。下級兵士の給料なんて、どこも似たようなもんだ」
手元で赤い液体を揺らしながら、マティアスがぼそりと吐き捨てる。
「そりゃ皆、『出世』に必死にもなるわ。……世の中、汚ねぇな」
「まったくだ。世の中なんて、もともとクソだ」
「ハハ……」
エーリヒは苦笑を浮かべながらも、否定はしなかった。
マティアスが声を張り、グラスを掲げる。
「まあ、こんなクソったれな世の中で、アルブレヒト殿下に出会えたんだ。
俺の人生最大の幸運だぜ」
「あの方は、本当にお仕えするに価値のあるお方だ――殿下に、乾杯!」
「乾杯!」
帝都で人気だというヴァイオリニストの弓が、空を舞うように音を描く。
華麗な旋律が、店内の空気をやわらかく染めた。
聞き惚れていると、マティアスが空になったボトルを手にして言った。
「おい、フランツ。『クソったれな世の中』なんだから、もう一本頼んでもいいだろ?
ほら、もう空だし」
「はぁ?」
「いい考えだわ! このチーズももうなくなるし、追加しよう。
エーリヒは、何か欲しいものある?」
「僕は……大丈夫です」
困ったように微笑むエーリヒ。
けれど私とマティアスは、本格的にフランツにたかり始めた。
最初は面食らっていたフランツも、やがて目を細めて笑う。
「……よし、分かった! どうせ飲むなら、派手にいこうじゃねぇか!
エッフェルマンチーズを二つ追加! それと、ワインリストも持ってきてくれ!」
我らが財布担当、フランツ様。ありがとう!
そのとき、ふと思い出したように彼が私を見た。
「そういや、もう来て三週間か?」
「そうなるわね」
届いたチェリーをひと粒つまみながら、私は答える。
「リューネの日の少し前に来たんだもん。もうすぐ一か月。
……ずいぶん寒くなってきたよね」
「いろいろあったな……」
「ほんとに。嵐みたいな日々だった」
皆がうなずき、グラスを傾けた。
体感では、一か月どころか、半年はここにいた気分だ。
オブロフでの退屈な日々なんて、今では幻みたい。
――あの夜、舞踏会のシャンデリアの下で起きた出来事。
三皇子の死、爆発、目の前で繰り広げられた惨劇……。
あの衝撃を消化する暇さえなかった。
私は外務省や情報局、内務省に呼び出され、質問の嵐にさらされた。
「何を知っていたのか」と、官僚たちは容赦なく詰め寄ってきた。
必死にごまかすのも、一苦労だった。
使節であり、統領の娘という立場でなければ、とっくに拘束されていたかもしれない。
その一方で、アーデルライド皇女には何度もお茶会へ招かれた。
蛸のように絡みついてくる大使からは、「本当に何も知らないのか」と問い詰められたし。
最後には、父と交渉まがいのやり取りまで。
そして、ようやく落ち着いたかと思えば、今度は会議漬け。
殴られては殴り返すような毎日だった。
もう二度とごめんだよ……!
そう思うのに、不思議と笑みがこぼれる。
すべてを見抜いている父にも、きっと一つだけ知らないことがある。
――私が、なぜここまでしたのか。
私はエーリヒを見た。
視線が重なる。
夜空のように深く澄んだ、紺碧の瞳。
胸がきゅっと締めつけられる。
もし、私が帝国に来なかったら。
彼らに関わらなかったら。
今、この瞳を見ることはなかったかもしれない。
彼の瞳はとうに光を失い、暗い土の下に――埋もれていたはずだ。
想像しただけで、首筋が冷たくなる。
私は慌てて、ワインをあおった。
喉を焼き、内側を熱くするアルコールが、苦くて甘い。
……本当は、エルを探しに来ただけなのに。
どうして、こうなったんだろう。
それでも、これでよかったと思う。
だって、目の前の人が――生きているから。
こうして、この場で笑っているから。
……こんな人と、恋がしたかったな。
それだけが、ほんの少し心残りだった。
彼の背後では、ピアノの調律が行われていた。
次は、ピアノの演奏が始まるらしい。
私の視線を追ったエーリヒが、優しい笑みを浮かべながら、グラスにワインを注いでくれる。
「楽しそうですね。イリィチャ令嬢――いや、エカテリーナさん」
「もちろん。すごく楽しいですよ」
「それなら、何よりです」
「――おっと、また二人だけで話してるのか? ちょっと寂しいな」
フランツが割り込んできた。
「ん?」
「エカテリーナは、エーリヒばかり気にかけてるだろ?
舞踏会でペアを組んだ時から思ってたんだが……ひょっとして、特別扱いしすぎじゃないか?」
「ふうん、そう見える?」
「ちょっとな」
そう言って、フランツは私の横にすっと腰を下ろした。
私は苦笑いを浮かべる。
「だって……エーリヒ、かっこいいんだもん」
「おおっ! 素直に認めた!?」
「うるさい。席に戻れって!」
マティアスが、まるで保護者のような顔でフランツを引き戻す。
すっかり酒が回ってるね、この二人。
その横で、エーリヒは困ったように笑った。
「はは……エカテリーナさんが、僕を買いかぶってるだけですよ」
「へぇ? でも、嫉妬しそうだぞ?
俺とも遊んでくれよ、エカテリーナ」
「よろこんで?」
グラスを掲げると、フランツもカチンとぶつけてきた。
「よし、また乾杯!」
「乾杯!」
赤い液体が、唇を濡らす。
フランツはその様子を見つめながら、ふっと声を落とした。
「なぁ、エカテリーナ……悔しくないのか?」




