第8章 皇子殿下の内閣は、どうやらブラックらしい(2)
赤い蝋を垂らし、印章を押す。
すべて終えると、私はぐぅっと大きく伸びをした。
父がどれほど怒っているかは分からない。
けれど、叩かれるなら――先に叩かれた方が、まだ気は楽だ。
書き終えると、思った以上に気分が軽い。
緊張の糸が切れたのか、体だけが妙に重かった。
あとは……返事を待つだけ。
結果が出るのを。
「さて、と。そろそろ行こうか」
窓を開けると、故郷よりもいくらか温かな風が頬を撫でた。
刺すような冷たさもない。
私は皇城ノイエ・ヴィスルイゼンへ向かう支度を始めた。
「う――ん……服を選ばなくていいのは、不幸かな?
それとも幸運?」
アルブレヒト皇子が創設した内閣に加わると同時に、官僚制服の着用が義務づけられたのだ。
黒を基調とした礼装。
襟元には帝国の三色を配し、赤い差し色と金のボタンが添えられている。
胸元には、金糸で刺繍された薔薇と一角のライオン。
……見た目だけなら、すごく立派。
『刷新の象徴』として新調された制服で、帝国一のデザイナーに依頼したのだとか。
まったく、この国ってば、何でもかんでも派手にしたがる。
――まあ、さすが帝国一と呼ばれるだけはある。
完成度は抜群だ。
足元が覗くマーメイドラインのスカートは、正直まだ少し慣れないけど。
それでも、クリノリンやペチコートを整え、髪を飾るのに二、三時間もかける手間が省けたと思えば……。
うん。悪くないかも。
「問題は、短縮した時間の分だけ、容赦なくこき使われるってこと。
ほんと、仕事中毒の皇子様なんだから……。
有能で勤勉で、そのうえ体力お化け!」
……それ、上司としては最悪でしょう。
あの金額に釣られるんじゃなかった!
私が夢見た帝国生活は、もっとのんびり、優雅に過ごすものだったのに!
……まあ、手遅れになってから悔やむからこそ、『後悔』って言うんだよね。
涙が滲みそうになり、思わず現実逃避する。
「舞踏会……美青年……乗馬もしたい……。
――なのに現実は、今日も仕事中毒の皇子様が、山のような書類を積んで待ってるんだろうなぁ……」
私の優雅な帝国生活は、今日も始まる前から終わっていた。
***
「こんにちは、フランツ、キルステン」
「来たか」
「半日ぶりだな、エカテリーナ。変わりはないか?」
先に会議室にいた男たちが、見るからに疲れ切った様子で挨拶してきた。
「……半日で何か変わると思う?」
「正確には……十二時間ぶりだな……」
はは……。
みんな笑ってるけど、全然笑えてない。
……なんで涙が出そうなの?
そう。
『押し寄せる仕事』の前では、国籍も年齢も性別も関係なかった。
まさか一週間で、アルブレヒト皇子の部下たちと呼び捨てで話す仲になるなんて。
皆、軍人らしい引き締まった体格で、見事な美形揃いだけど……。
今はそんなこと、何の意味もなかった。
私たちの間にあるのは、皇子にこき使われて死にかけたことで芽生えた――
謎の同志愛だった。
私は幸い帰宅できたけど、何人かは城で仮眠を取ったらしい。
もう、ブラック職場すぎない!?
――でも、あの人たちは元軍人でしょ?
体力あるんでしょ?
私はそうじゃないの!
「思ったより人数が少ないね。他の皆は?」
「マティアスはそろそろ来る。バルデマーは軍務で今日は不参加だ。
エーリヒは内務省に用があったが、今ごろ終わっているだろう」
「……みんな忙しいのね。じゃあ、ユルゲンは?」
キルステンの端正な顔が、わずかに歪んだ。
「知らん。どうせあの陰気なやつ、開始ぎりぎりに出てくるさ。
お前も物好きだな。あんな不気味なやつを気にかけるなんて」
「だって同僚でしょ?」
「同僚だと?
馬鹿げてる。あんなやつは――」
――ガチャリ。
扉が開いた。
現れたのは、まさにそのユルゲンだった。
乱れ一つない灰色の髪。
冷たく光る眼鏡。
両腕いっぱいの書類。
完璧に『冷徹な軍師』そのもの。
「……」
今の会話は、間違いなく聞こえていたはずだ。
それなのに彼は、まるで他人事のような顔で席に着き、そのまま書類を読み始めた。
「こんにちは、ユルゲン」
「……」
「ほら、返事くらいしてくださいよ」
「……そうだな」
いかにも渋々といった様子で、相槌を一つ。
そしてすぐに、視線は書類へと戻った。
――こういうの、なぜか放っておけないんだよね。
側にいた二人は眉をひそめたけど、何も言わなかった。
やがて、他の者たちも続々と集まってくる。
そして最後に現れたのは、秘書を伴ったアルブレヒト皇子だった。
全員と視線を交わしながら、なぜか私の目だけは避けた。
……少しくらいは良心が痛んでいますか?
――ひどい。
私の安息の日々を返してください、皇子様!
「――それでは、次の案件に移る。昨年の貿易収支は……」
「経済活性化のための新たな施策ですが……」
「アーベルブラウ地方で、不穏な動きが……」
……ねえ。
毎日三時間は会議してるでしょう。
なんで次から次へと問題が湧いてくるの!?
経済、社会、治安、福祉、教育、外交。
――私は誰?
ここはどこ?
眠い。
脱走したい……。
帝国で食べたいスイーツが、山ほどあるのにーっ!
……まさか今日まで残業させるおつもりではありませんよね、殿下。
私は気づかれないよう、アルブレヒト皇子をじろりと睨んだ。
少し俯いて書類を読む、その横顔の角度まで完璧。
前髪を払う仕草すら、絵になるんだから。
本人は『皇族は髪を長く伸ばせ』という規律に対して――
「本当なら、ばっさり切りたい」
なんて、ぶつぶつ文句を言っていたけど……。
彼は皇子の身でありながら、生き残るために軍人の道を選んだと聞いた。
けれど、その経験こそが、逆に彼の武器となった。
彼は軍略の天才だった。
しかも、希代の天才。
そして彼を支える、七人の部下たち。
『アルブレヒトの七本の剣』と呼ばれる精鋭集団だ。
……でもね。
反対派がつけたあだ名は――『アルブレヒトと七人の小人』。
ぷっ……。
あっ、やばっ……。
今、笑ったら絶対に怒られる!
だって、全員百八十センチ超え、キルステンに至っては、ほとんど二メートルだ。
どこが小人なのよ!
――あれ?
じゃあ、『七人の小人』なら、アルブレヒト皇子は……『白雪姫』?
この冷酷皇子様が白雪姫。
「くだらん」とか言いながら、手には真っ赤な毒リンゴを――。
……想像してしまった。
私が必死に笑いを堪えていた、その時だった。




