第8章 皇子殿下の内閣は、どうやらブラックらしい(1)
「くしゅっ!」
――誰も見てないよね?
私は慌てて鼻の下を拭った。
おかしいな。
帝国がオブロフより寒いわけでもないのに。
ここ最近、なんだか鼻がむずむずして、くしゃみばっかり出るんだよね。
……やっぱ、今の私は、ちょっと『旬』なんだろうか。
人気者はつらい。
ため息をつきながら、オブロフから届いた電報をもう一度読み返した。
《――見事だな、娘よ》
紙面から、今にも父の声が聞こえてきそうだった。
……うわぁ。今、肉声で聞こえた気がした。ぞくっとする。
「ふぅ……」
……やっぱり、すべて気づかれていたのね。
私が予測報告書を読み、それをもとに行動したことまで。
背中を冷たい汗がつうっと伝い、思わずぶるりと身震いする。
父が本来望んでいたのは――有能な腹心であり、かけがえのない親友でもあった者を失ったアルブレヒトが、失意に沈むこと。
そして、帝国が揺らぐことだった。
――それを私がぶっ壊したから。
父が快く思っているはずがない。
「幸いだったのは、強制送還されなかったことね。
挽回の余地は、まだ残っている」
ここで無理に呼び戻せば、皇子を救った私を父が咎めることになる。
そうなれば、その腹の内まで透けて見えてしまうからだろう。
まずは深呼吸。
それから私は、ペン先をインクに浸した。
帰るわけにはいかない。
帰ったら、絶対にバッドエンド一直線だ。
震える羽ペンを押さえつけ、そろりと手紙を書き始める。
――謝って、父のご機嫌も取って、滞在許可もゲット。
高難度クエストだよ、これ。
三兎を追うなら、もう開き直るしかない。
カリカリ――尖らせた羽根が紙の上を削り、文字が次々と躍り出す。
《――親愛なる父上へ》
《電報、確かに頂戴いたしました。
父上が望まれていた形ではないかもしれません。
ですが、オブロフの使節として赴いた私が、皇子に命の借りを負わせたのです。
父上にとっても、決して悪い話ではないはずです。
――なにしろ、次期皇帝と、その腹心の命の値段ですからね?
父上なら、利子をつけて何倍にもして回収なさるでしょう?》
そこでいったんペンを止め、長く息を吐き出した。
……これもまた、私にとっては返しきれない借りとして残るのだろう。
ペン先にインクを足し、続きを書き始める。
《あ、それから、お伝えしたいことがあります。
今回の件をきっかけに、しばらく帝国に滞在するつもりです。
思いがけず、アルブレヒト皇子殿下からお声がけをいただきまして。
周囲は男性の軍人ばかりだそうです。
女性福祉や芸術振興の分野には疎く、それを担える人材も不足しているのだとか。
そこで、その分野の顧問として内閣に加わってほしいと、直々に頼まれました》
――正直なところ、別の国へ逃げることも考えていた。
父からの召喚状が届く前に、どこかへ。
『……あの、本気でおっしゃっています?
ちょっと、その冷たい目はやめてもらえません?』
『オブロフにいた頃、父君を補佐し、福祉や芸術振興にも関わっていたと聞いた』
『あれは、思いついたことを少し口にしただけで……。
それに、ここは帝国ですよ? 私は外国人なんですけど?』
『完璧は求めない。今の我が国は人材が不足し、制度も硬直している。
……君なら、新風を吹き込めるだろう』
『あの、光栄です……?』
『君のこれまでの奇行を思えば、むしろ妥当な評価だ』
……堂々と奇行って言った!?
なに、この皇子。
私のこと、気安く扱いすぎじゃない?
まあ、堅苦しくないのは助かるけど。
でも……一か所に長く縛られるなんて、私の性には合わないんだよね。
『……本当は、これから各国を巡ろうかと考えていました。
探している人もいまして』
『永遠に頼むわけではない。契約は一年ごとの更新だ。
望むなら、いつ去っても構わない』
『なるほど』
『そなたが旅を続けるにも、それなりに資金が要るだろう?』
『……まあ、それは』
たしかに、異国を旅して回るには、今の貯えでは少し心許なかった。
私が迷っているのを見抜いたのか、アルブレヒト皇子はさらさらと羽ペンを走らせる。
そして、書き終えた白い紙を差し出してきた。
『この金額ならどうだ?』
『……』
――高額だった。
さすが、大陸の半分を支配する帝国。
出す金額の桁が違う。
でも私は、もう少しだけ粘ってみることにした。
給与交渉って、最初の提示で即決しちゃ駄目でしょ?
『あの、せっかくですし……もう少しだけ上乗せしていただけません?』
『……』
皇子は無言のまま、金額を書き直した。
……おお。
『――忠犬のようにお仕えします!』
『……はぁ』
皇子殿下、またため息。
けれど慈悲深き皇太子殿下(予定)は、目の前でお金が二倍になる魔法を見せてくださった。
――断るには、あまりにも魅力的な金額だった。
《ここまで読まれたなら、父上も私の返事はお察しでしょう。
そうです。
せっかくのお話ですし、宿舎も馬車も用意していただける好待遇。
やってみる価値はありますよね?
――将来、他国で働く際にも、『次期皇帝の内閣メンバー』という肩書は箔がつきますし》
《あ、それから。
帝国に残る理由が、もう一つあります。
せっかくここまで来たのですから――素敵な殿方を探してみようかと思いまして。
もちろん私も父上に似て、結婚する気などさらさらありませんけど……。
人生に彩りを添えてくださるお相手は、多いに越したことはありませんよね。
可愛い娘の恋ですもの。
どうか大きな心で見守っていただければ幸いです。
――帝国は本当に美形が多くて、毎日が目の保養でございますわ。
では、ごきげんよう。
――愛をこめて、エカテリーナより》
……自分で書いたけれど、図々しいね。
でも、これで父の怒りも少しは収まるはずだ。
……私は父の性格を、よく知っている。
真面目に謝れば、本気で詰問してくる人だ。
だけど、こんなふてぶてしい手紙なら――その意外性と度胸に、きっと笑って済ませる。
父もまた、私と同じく『面白いもの好き』だから。
……度を越さない限りは、ね。
――それが、私の父。
オレスキー・ディアノヴィチ・セルゲイノフ。




