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第7章 再会を告げる風

人の足が届かぬ北の氷原ひょうげん

そこで生まれた風は、雲を追いやりながら、悠々と流れていく。


峰を越え、灰色の海を渡り、ただ南へ――さらに南へと。


華やかなアウフェンバルト帝国を大きく旋回し、風は向きを変える。

幾百もの帆を浮かべた海の彼方、大洋を統べる島国へと。


――まるで、遠い約束をたどるように。


吹き込んだ風が、烏の羽のような黒髪をかすかに揺らした。


青年は主座に座したまま、部下たちの報告に耳を傾けていた。

濃紺の礼服の内側には、同色のウエストコート。

そのボタンの一つ一つには、いかりにとまる烏の紋が精巧に彫り込まれている。


「……まさかオブロフが、あんな爆弾を作っていたとはな……」

「はい。あの綿密なアルブレヒト皇子ですら、そこまでは読めなかったでしょう」

「さすが今回も、公爵様の予測どおりですね」


黙って聞いていた青年が、音もなく書類を置いた。


「それで、あの二人はどうなったのですか?」

「それが……アルブレヒト皇子とハルデンベルク子爵――

お二人とも、無傷でご無事のようです」


室内の空気が、凍りついた。


「公爵様の予測が、外れた……だと?」

「……私も人間です。外すことくらい、当然ありますよ」

「ぐぅっ、それはごもっともですが……」


黒髪の青年――若き公爵は、驚きも怒りも顔には出さなかった。

ラピスラズリの印章指輪いんしょうゆびわをはめた指が、卓上を軽く叩く。


「戦勝の宴で三皇子が自爆した。そこまでは間違いないのですね?」

「はい。そこまでは、すべて閣下の予測どおりでした」


護衛騎士オーガスティンが、こてんと首を傾げる。


「……おかしいですね。爆弾が炸裂したのに、二人とも傷一つ負っていないと?

どういうことでしょう?」

「今回の件には、どうにも『イレギュラー』があったようですね」

「イレギュラー、ですか?」


公爵が静かに頷いた。


「三皇子も、アルブレヒト皇子も。そしてハルデンベルク子爵も――

すべてが予測どおりでした。

なのに、結果だけが外れた。それはつまり、『イレギュラー』があったということです」

「場所も時間も、変わりはありませんでした。となると、残る変数は……」

「――『人』です」


補佐官セドリックは、主君の横顔を見つめた。

公爵の澄んだ紫の瞳は、いつものように静かで、深かった。


「想定外の誰かが、あの場に介入したということですか?」

「はぁーっ……」


ちょうどその時、大きな欠伸がその言葉を遮った。


まるで死体のようにだらりと寝そべっていた、大柄な男。

彼が、ゆっくりと体を起こす。


「それなら、私が少しばかり心当たりがあります」

「ネッド卿?」


セドリックが舌打ちした。


「聞いていたのか、不良騎士さん」

「もちろんですよ。

帝国の連中を撒いて帰還した末に得た、貴重な休暇だったんですから。

少し飲みすぎただけで、何の問題もありません」

「……言いたいことは山ほどあるが、それは後だ。で、何を聞いた?」

「昨日、飲みながら耳にした話なんですがね。リューネの日の件です。

我々は潜在的な敵国ということで、特別な使節は送らなかった。

ですが、オブロフは素早く送ったらしいですよ。

しかも、あのオレスキー終身統領の娘を直々に」

「庶子とはいえ、終身統領の娘を、帝国までわざわざ……?」


オーガスティンが、また首を傾げた。


「……待ってください。オブロフって、あの結晶型爆弾を作った国じゃないですか?」


こほん、と。

グリウェンスフォード公爵家の不良騎士ネッドが、わざとらしく咳払いした。


「そして、その女……さすがはオレスキーの娘といったところか……」

「……?」

「到着するなり、素早くハルデンベルク子爵に接触。

あっさりとリューネの日のパートナーになったとか。

当然、戦勝の宴でも、子爵の隣にいたらしいですよ」

「ふむ……」


公爵が静かに顎に触れる。

セドリックは、主君の横顔を見ながら意見を仰いだ。


「噂好きな放蕩騎士にも、たまには使い道があるようですね。

閣下は、どうお考えです?」

「……情報が足りない以上、断定はできません。

ただ、私が読み切れなかった筋の一つではありますね」

「でも閣下。オブロフの使節が、アルブレヒト皇子を助ける必要があったんでしょうか?

オブロフなら、帝国が弱るほど得をするはずでは?」

「ん? どうしてですか?」


オーガスティンが、まるで理解できないという顔で尋ねた。


「大陸の情勢を考えろ。

アウフェンバルト帝国と、我ら反帝国連合。

その間の仲介貿易で、大きな利益を得ているのが、オブロフだ」

「その通りだよ、オーガスティン。

オブロフのような小さな中立国は、帝国が強くなりすぎることを望まない」


公爵の補足に、オーガスティンはぽりぽりと頭をかいた。


「うわっ、なんか難しい話ですね……」

「お前にもわかりやすく言ってやろう。

うちに入ってくる帝国産ワインって、ほとんどオブロフ経由だ。

だからあんなに高いんだ。あいつら、そこでがっぽり儲けてる」


そう言われて、オーガスティンはすぐにピンときた。


「そんな……! こっちは涙をのんで買っているのに!」

「たぶん、帝国内で買うより三倍はするぞ」

「ぐはっ……! なんと卑怯な! そんなの、反則でしょ反則!」

「はあ? 国同士の関係に、卑怯も何もあるか」

「これは、オブロフの統領が有能ってことだよ。

情勢を敏感に読み、仲介貿易と技術開発で国を発展させるのは――そう簡単なことじゃない」


そう言っていた公爵が、ふと考え込んだ。

セドリックが、慎重に問いかける。


「……閣下? 何か、気になることでも?」

「……ネッド卿。オブロフの統領の娘について、他に何か聞いているか?」

「もちろんあります。名前はエカテリーナ。そして実はですね……」


その瞬間、紫の瞳にかすかな波紋が広がった。


エカテリーナ。


「ネッド卿、続きを」

「その……実は、私が帝国行きの横断列車に潜り込んだときに、会った女性かもしれません。

特等客室で」

「は? 何だと?」


どうして列車に潜り込んだ先で、よりにもよって統領の娘に出くわすんだ。

セドリックが呆れて口を開きかけた、その時だった。


公爵はそっと手を上げ、再び問う。


「どんな人物だった?」

「え? あ、ああ。

ターコイズブルーの瞳に、珊瑚色と薔薇色の間のような鮮やかな髪の――

とんでもない美人でしたよ」

「……!」

「気が強くて、頭も切れるタイプでした。

私が給仕に不慣れなことも、ロイトン出身だということも、一発で見抜かれましてね」


公爵の唇が、わずかに開いた。


「……カーチャ」

「へっ?」


側近たちは、一斉に息を呑んだ。


公爵が、笑っていた。


いつもの静かで穏やかな微笑みではない。

本当に、嬉しそうな顔だった。


「セドリック卿」

「はい、公爵閣下」

「アルブレヒト皇子の皇太子冊封式は、いつ頃になりそうですか?」

「……リューネの日にあの事件があった以上、帝国側もすぐには動かないでしょう。

おそらく、二ヶ月から三ヶ月の間になるかと」

「オブロフと帝国との距離は、横断列車でも丸十日……。

一度使節を派遣した以上、今さら呼び戻すとは考えにくい。

新たな使節を送り直すこともないでしょう」

「はい。その通りだと思います」

「ありがとう」


公爵は、軽く頷き、ゆっくりと立ち上がる。


「女王陛下にお目通りを願わねばなりません。準備を」

「少々お待ちください。ま、まさか……?」

「ええ、帝国の皇太子冊封式です。

関係が良くなくても、各国は祝賀の使節を送るでしょう。

我が国も例外ではありません」

「そ、そうでしょうが……。公爵様ご自身がお出向きになるおつもりですか?」

「どうしても行かなければならない理由が、できました。

アウフェンバルト帝国に」


カーチャ。


全身が告げている。

今度こそ、君だと。


青年は空を仰ぎ、静かに微笑んだ。


幼いころ。

親でさえ、ほとんど僕を諦めかけていた頃だった。


──その時、君に出会った。


言葉さえうまく話せなかった僕に、いつも明るく笑いかけてくれた君。

つらい日々の中、その笑顔が……どれほど僕の救いだったか。


風に乗って、鳥の鳴き声が聞こえる気がした。

君の笑顔が、胸の奥によみがえる。

僕の腕を見て、声をあげて泣いた君のことまでも。


彼は目を閉じ、胸に手を当てる。


十四年。

遠回りしていた風がいま、彼の背を押す。


――治ったら、会いに行く。


あの日の言葉は、ずっと胸の奥で息づいていた。

君に会いたいと願うたび、何度も。


今度こそ、君に会いに行く。

そして今度は、君の答えを僕に聞かせてほしい。


誰よりも恋しい、カーチャ。

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