第5章 運命は変えるためにある(3)
「遅れて申し訳ございません、アルブレヒト殿下。
事情があり、パートナーであるイリィチャ令嬢を同伴いたしました」
女性は優雅に裾を持ち上げ、帝国式の礼をとる。
――わざと引き離すために呼んだというのに。
ヒルのように離れず付いてくるとは。
アルブレヒトの眉間に、思わず深い皺が寄った。
……やはり気に入らない。
短い沈黙ののち、アルブレヒトは口を開いた。
「そなたが今回、オブロフから来た使節か。話はよく聞いていた」
『よく』にだけ、鋭く力がこもる。
礼儀は保っている。けれど声は、普段よりも冷ややかだった。
その声音だけで、歓迎の意思など欠片もないことは明らかだった。
だが、目の前の女はまるで気づかないふりで、朗らかに笑って応じる。
「高貴なる黄金のローゼンハイトに栄光を!
本日、皇子殿下の尊顔を拝し、光栄に存じます。
オブロフから参りました、エカテリーナ・アースナヤポリャーナ・イリィチャと申します。
どうか気軽に、エカテリーナとお呼びくださいませ」
「……!」
一見すれば、無礼にも見える挨拶。
アルブレヒトの声に肩をすくめていた人々が、一斉に息を呑む。
礼法を破ってはいない。
だが相手は、青い悪魔と呼ばれる七皇子。
今や帝位を目前にした男だ。
その男に、これほど明るい声をかけた者がいただろうか。
危うい沈黙が落ちる。
表情を取り繕えず、目を見開く者たち。
その中で驚きが薄かったのは、二人だけだった。
数日でエカテリーナに見慣れたエーリヒと、常に冷静な参謀ユルゲン。
アルブレヒトの眉が、わずかに動く。
強烈な予感がした。
この女のせいで、これから胃を痛めることになる――そんな、確信に近い予感が。
それなのに、ごくわずかに視線が逸れない。
胸の奥には、小さな熱さえ残った。
「……そうか。帝国の宴を楽しむがいい、オブロフの使節」
エカテリーナは、本当に嬉しそうににこやかに微笑んだ。
「恐れ多いことです、皇子殿下。やはり噂通り、お優しい方なのですね」
「……はっ!?」
「ほう……」
その瞬間、誰かの小さな悲鳴が空気を切った。
すでに凍りついた会場が、さらに深く沈黙する。
抜き身の刃を思わせるアルブレヒトの瞳が、彼女を射抜く。
しかし、その視線を真正面から受けながらも、彼女は微笑みを崩さなかった。
乱れた銀髪を耳の後ろへ流しながら、フランツはふと唇の端を上げる。
……アルブレヒト殿下に『噂通りお優しい』だと?
高度な皮肉か、ただの無鉄砲か。
だが、殿下のあの視線を受けて平然としていられるなど――並の女ではない。
一方で、参謀ユルゲンの見立ては少し違った。
彼は表情を変えず、眼鏡を押し上げる。
世間で言われているのは、美男子や華やかな物ばかりを追いかける愚かな女。
だがその通りなら、とっくにアルブレヒト殿下の威圧に押し潰されていただろう。
まともに立っていることすら、できなかったはずだ。
マティアスが、フランツに小声で囁く。
「皇子殿下の命令を破って、エーリヒと共にここまで来た……やはり並ではないな」
「うむ。一見すれば恭しい。だが、態度は堂々としている。
賓客に許されるぎりぎりの線を、完璧に突いているな」
「今日は戦勝の宴だからな。皇子殿下が、賓客である自分を咎めにくいと踏んだのだろう」
二人の会話を黙って聞いていたユルゲンもまた、目の前の女を値踏みする。
視線を引きつけながら、追及をかわす。
あの明るい微笑みまで含めて。
さすが、狸の中でも特に狡猾と噂されるオレスキーの娘だ――と。
会場の視線は依然として、二人の男女に釘付けだった。
「……」
「……」
不快な沈黙の中。
アルブレヒトの冷ややかな眼差しが、彼女の瞳を正面からとらえる。
――エカテリーナ、だったか。
オブロフが王政だった頃、帝国に嫁いだ皇后の中にもいた名だ。
オブロフ統領オレスキーも、古い王家の傍系だと聞く。
シャンデリアの光を受け、青緑の瞳が多彩な輝きを放った。
一瞬、視線を外しそびれる。
異様なほど鮮明で、強烈な瞳だった。
……今すぐでも牢に放り込みたくなるほど生意気だ。
だが、その度胸だけは認めてやろう。
香水の匂いを漂わせながら扇子ばかりあおぐ貴婦人たちの濁った瞳とは違う。
この女は、自分の視線を正面から受けても、一切怯まず見返してくる。
着ている服も、噂とは違った。
白く滑らかな肩と腕を惜しげもなくさらす、銀灰色のドレス。
華美ではないが、澄んだ清潔感と、目を引く静かな美しさがある。
裾には灰色の毛皮が豊かにあしらわれ、彼女の出自を示すようだった。
そして首には、控えめに輝く真珠のネックレス。
控えめなネックレスだ。
そう考えたところで、アルブレヒトはふと視線を外した。
そしてエカテリーナは、相変わらず微笑んでいた。
――冷や汗をかきながら。
わあ……本当に噂どおり。
北極の氷でも敵わないくらいの氷点下男。
できるだけ平然と演技しながらも、背中に冷や汗がにじむのを感じる。
ただそこに立っているだけで、周囲の空気をまるごと凍らせてしまうなんて。恐ろしい。
……そして肖像画が美化だなんて思ってた自分を、反省します。
あれは現実の方がずっと危険な美貌だ。
緊張感がすさまじすぎて、外見に圧倒されている暇もなかったけど。
ぴたりと体に馴染んだ礼装軍服は、彼の肉体の延長にすら見える。
痩せて見えるのに、その下には鍛え抜かれた力強さが隠れているのが分かる。
整いすぎた顔立ちは、並の女性よりずっと美しい。
それなのに、不思議と女性的な柔らかさは感じさせない。
鋭い顎のラインと、研ぎ澄まされた剣のような気配のせいだろうか。
気づけば、鋭く炯々とした瞳に目を奪われ――無意識に唾を飲み込んでいた。
しかも、その絶世の美男子が、熱烈な視線をこちらに向けている。
普通なら嬉しい場面のはずなのに……全然嬉しくない!
好意なんて一粒も混ざっていないんだ。
斬り捨てるようなそれが、容赦なく突き刺さってくる。
痛い。ほんとに痛い――!
助け船を出そうとしたエーリヒも、殿下に『口を出すな』と目で睨みつけられ、足を止めた。
……はい、孤立無援確定。
はぁ……イメージ管理など必要ないのかな、この人。
いや、する必要ないか。
どうせ皆粛清して、皇帝になる男だもんね。
冷や汗を背中に感じながらも、私は最後まで図太く、知らんぷりを貫いた。
むしろ逆に、いっそう明るい笑顔を向けてやる。
――さすがに、笑顔を返さず毒を吐くなんてしないでしょ?
……と思ったら、あっさり顔を背けられた。
内心びびっているくせに、私はむっとした。
ちょっと、ちょっと!
見たくないものを見たみたいに顔をそらすの、わざとですか。
いくらこちらが狙ったことでも、胸に刺さるんですけど。
ねぇ? あの? 皇子殿下!?




