第5章 運命は変えるためにある(2)
耳元で囁くと、彼の瞳が大きく見開かれた。
その迷いが揺らいだ瞬間、私はエーリヒの腕を取る。
エーリヒの体が硬直した。
「イリィチャ令嬢……」
「私が感謝の言葉を申し上げてもよろしいですか、エーリヒ?」
結局、エーリヒは私の手を振りほどかなかった。
「承知いたしました。ご一緒に」
「ありがとうございます! やっぱりエーリヒがいてくださって助かりましたわ!」
「はは……。それでは、入場いたしましょうか」
エーリヒにエスコートされ、会場の入り口へと進む。
華やかな照明の向こうに、星が一つ、二つと昇り始めていた。
――防御魔導具は、範囲が限られている。
すぐ側にいなければ、守れない。
……だから私は、あなたの側にいなければならない。
首に掛けた真珠のネックレスが、星明かりを受けたように輝いた。
これを使えば、あなたを救えるはず。
そう信じる。
そう祈るしかない。
***
黄金の装飾が繊細に施された扉の向こう。
紺碧の天井を戴く大広間が、視界いっぱいに広がる。
高い天井からは幾つものシャンデリアが光を落とし、金の燭台と壁一面の装飾をまばゆく照らす。
赤い薔薇と黄金の獅子。
帝国の紋章をかたどった意匠が、広間のあちこちを埋め尽くしていた。
空へ向かって前足を掲げる巨大な獅子像の下。
色鮮やかな礼装の貴族たちが、香水と化粧粉の匂いを漂わせながら賑やかにさざめく。
眩しすぎる光と甘く重たい匂い。
夢のように華やかで、息苦しいほど帝国らしい空間だった。
欲望と打算が満ちるその場所で――上級従者が、朗々と主役の入場を告げる。
「アルブレヒト・ルイス・ヴァルトヴィン・フォン・ローゼンハイト殿下でございます――!」
瞬く間に、人々はぴたりと口を閉ざした。
視線が一斉に、入場口へと向けられる。
今回の内戦の勝利者。
彼が帝国の皇太子になることを、誰もが知っていた。
そして、放蕩の末に病に冒された皇帝が死ねば、次に帝位へ就くのも彼であることを。
煌めく軍服に身を包んだアルブレヒトが、ゆっくりと歩みを進める。
赤地に金の装飾が映える、帝国礼装の軍服。
腰まで届く白金の髪は一つに結われ、背へと流れていた。
氷を思わせる青紫の瞳。
その奥には、刃のような寒気が宿っている。
びくり――。
視線がかすっただけで、貴族たちの肩が震えた。
アルブレヒトの口元に、薄い嘲笑が刷かれる。
今まで卑しい出身の皇子と見下してきた貴族たちの目に、恐怖が満ちていた。
――すぐに粛清される卑しい皇子。
そう見られていた。
だから婚約すらできず、今日この場に並ぶパートナーもいない。
今さら慌てて駆け寄るハイエナたちの手を、取る必要はなかった。
貴族たちが波のように頭を垂れていく。
その波の中を、アルブレヒトは壇上へ向かった。
やがて、澄んだ声が広間に響き渡る。
「リューネの日を迎え、今年も帝国に祝福を授けてくださった――
偉大なる創造神シャダイに感謝を。
また、本日この場に集った皆に、歓迎の意を示そう。
今宵は、心ゆくまで楽しむがよい」
盛大な拍手が広間に響く。
儀礼的な挨拶を終えたアルブレヒトは壇を降り、腹心たちの輪へと歩みを進めた。
軍服に身を包んだ屈強な青年たちは、肥えた鶏の群れに紛れ込んだ鷹のようだった。
彼らは右腕を胸に当て、深く頭を下げる。
「お越しになりましたか、殿下」
「ああ」
銀髪の男が、楽しげに口を開いた。
「人々の怯えた表情が見ものですな。
どうやら、素晴らしい余興が待っているという噂は、十分に広まっているようですね、殿下」
「おい、フランツ!」
茶髪の男が肩を掴んで制する。
だがアルブレヒトは、片手を上げただけだった。
「構わない、マティアス。
今日の『メインディッシュ』が何か、ここにいる者は皆、知っているだろう」
温度のない嘲笑が、彼の唇をかすめる。
すらりとした長身の銀髪の美男、フランツ。
小柄ながら、がっしりとした体格のマティアス。
似ていない友人同士として、二人はよく知られていた。
貧しい男爵家出身のフランツと、平民出身のマティアス。
二人に共通する点は、ただ一つ。
――貧しさを乗り越えるために軍へ身を投じ、アルブレヒトを主君として選んだこと。
そして、決定的に違うのは女関係だった。
マティアスは幼馴染との結婚を間近に控えている。
一方のフランツは、稀代の女たらしとして悪名高い。
……それでも、これほど仲がいいのだから不思議なものだ。
まあ、エーリヒも俺とはそこまで似ていないが――。
そう考えたところで、アルブレヒトはふと気づく。
エーリヒが、まだ来ていない。
アルブレヒトの端整な顔の眉間が、かすかに歪んだ。
「エーリヒは?」
「こちらに向かっていると連絡が」
「それでは、なぜ――」
人々の波が割れる。
奇跡を起こす魔法使いのように、エーリヒがこちらへ歩いてくる。
――問題は、その隣にいる女だった。
エーリヒにぴたりと寄り添う、見覚えのない女。
鮮やかな赤髪を見た瞬間、誰なのか察する。オブロフの『あの』使節だ。
アルブレヒトの眉がぐっと吊り上がる。
心優しいエーリヒは、彼女を置いて来られなかったらしい。
……審美眼が非常に高く、並の美人には手を出さないというオレスキーだ。
なるほど、あの男の娘というわけか――。
蒼白なほど白い肌が、波打つ赤髪によってより鮮やかに際立つ。
光を受けて髪がきらめいた瞬間、理由もなく胸が疼いた。
……雪原に咲いた、赤い薔薇のようだ。
アルブレヒトは思わずそう考え、すぐに首を振った。
視線を追っていたフランツが、小さく口笛を吹く。
「エーリヒの隣にいるということは、あの女性がオブロフの使節ですか?
おおー! これは驚きですね。オブロフの使節が、まさかあれほどの美人とは!」
「思ったより若く見えますね。何歳ですか?」
感情の読めない灰色髪の男が、眼鏡を押し上げながら答えた。
「エカテリーナ・アースナヤポリャーナ・イリィチャ。年齢は二十二。
終身統領オレスキーが認めた唯一の娘で、オブロフ社交界の女王とも呼ばれている」
「ふむ……神も、本気を出す時があるようですな」
フランツの視線は、舞踏会の灯りを受けて輝く赤髪に吸い寄せられる。
「こんな美しい女性がオブロフにいたとは……」
その親友を不安げに見やり、マティアスが低く釘を刺した。
「……頼むから、外国の使節には手を出さないでくれ」
だが、フランツは悪びれもせず肩をすくめる。
「あれだけ多くの令嬢たちの中でも、一瞬で視界を奪うなんて――。
圧倒的な存在感だ。無視する方が、むしろ失礼だろう?」
「君の好みじゃない女性もいるのか?」
「もちろんだとも。女性は誰もが美しく、敬意をもって讃えねばならないんだぞ」
フランツの視線が賑やかな人波の向こうを捉え、興味深そうに口角が上がる。
「――フランツ」
「……申し訳ございません、殿下」
「使節の前で、だらしない姿を見せるな」
そのやり取りが終わるころ、エーリヒが女性を伴って到着した。




