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第十七話:座標変位1_二〇〇二年の夏 〜小学生必死編最終話〜

ジャポニカ学習帳に刻まれたカウントダウンは、ついに「一年」を切り始めていた。この四年間、俺は徹底して二重生活を貫いた。 表向きは、父・大毅の命じるままに泥臭いトレーニングに励む「従順なアバター」。 その裏では、放課後や長期休みのたび、大学院進学を控えたみことさんから、法学の深淵を盗み取り続けた。みことさんは、出会った頃よりもずっと鋭い顔つきになっていた。

「久世くんに負けてられないから」

そう言って笑う彼女は、片親の貧しい家計を支え、母を楽にするために弁護士を目指すという。彼女のその純粋な「目的」に、俺は静かな敬意を払っていた。だが、俺の日常には、いよいよ決定的な「仕様変更」が必要な時期が迫っていた。


「恒一、来年から中学だな。そろそろ体作りだけじゃなく、野球の『頭』を叩き込んでやる。暗くなっても関係ねえ、夜通し座学だぞ」


酒でだらしなく膨らんだ腹を揺らし、大毅が言った。 土木作業の疲れを酒で紛らわし、かつての肉体美が崩れ始めた男。 対して俺は、公園のブランコを懸垂バーに、鉄棒をフットワークの障害物に見立て、四年間一日も欠かさず自らを研磨してきた。 今の俺は、一キロ以上ある木製バットを、羽毛のように鋭く振り切ることができる。

俺は、人生のやり直しつまり、一九九七年から約五年経ち、小学六年生に進級している。体格は皮肉にも父譲りで、身長百七十センチ、六十一キロまで成長していた。


(……座学、か。それは由々しき事態ですねぇ)


夜通しの座学など、俺の「予備試験対策」の時間を物理的に奪うだけのノイズだ。 これまでは「暗くなったら終わり」という不文律を盾に、夜の時間を確保してきた。そのルールが崩れることは、プロジェクトの破綻を意味する。

俺は大毅の背中を、無機質な計算機のような目で見つめた。


(今の俺の筋力なら、このバットでこいつの膝の皿を砕き、病院送りにできる。……いや、頭を狙えば、物理的に黙らせることも可能かもしれない)


体が大きくなるにつれ、殴られる回数も増えたが、殴られても幼少期の頃ほど痛くはない。 大毅の拳は、人体工学的に鍛え上げられた俺の筋肉と骨格の前では、もはや脅威ですらなかった。


(暴力の記録は、四年分ある)


畳の裏に隠したノートには、大毅がいつ、どこで、どんな暴言を吐き、どの程度の暴力を振るったかが、裁判で証拠能力を持つのに十分な精度で記述されている。 少年院に送られるリスク、正当防衛が認められる確率、そして「父親」というシステムを完全に機能停止させるためのコスト……。

俺は脳内で、最速かつ最もダメージの少ない「排除」のシミュレーションを開始した。


「おい、聞いてんのか恒一! 返事ぐらいしろ!」


大毅の手が、俺の肩を掴む。 かつては恐怖の象徴だったその大きな手が、今はひどく脆弱で、無防備に見えた。


(……やるか。それとも、まだ『交渉』の余地を残すか)


なかなか決断できずに突っ立っている俺の指先が、バットのグリップに吸い付く。 十二歳の夏。蝉の鳴き声が止んだような、静まり返った夕暮れ。 俺と大毅の「力」の天秤が、音を立てて逆転しようとしていた。

三十五歳の精神を持つ俺が、目の前の「傲慢モンスター」に対して抱いたのは、憎悪だけではなく、冷徹なまでの「理解」だった。

親権が母親側にいくのが当然だった平成初期。にも関わらず、なぜ俺はあんな立派な実家を持つ母親ではなく、このろくでなしの父親に引き取られたのか。そこには、俺がまだ知らない、あるいはこの男すら抱えきれなかった「何か」があったのかもしれない。

だが、そんな感傷は、頬を打つ硬い拳の衝撃で吹き飛んだ。


「……ッ」


いつもより重い。酒のせいで膨れた体格が、そのまま質量となって襲いかかる。 だが、今の俺はかつての無力な子供ではない。


「……お父さん。今の、グーでしたよ。これは中々痛いですよ。」


俺は反射的に低い姿勢に変え、人体工学に基づいた最短ルートで拳を突き出した。 肋骨の隙間を縫い、レバー(肝臓)に拳を叩き込む。

考えるより先に身体が動いてしまっていた。


「が、はっ……!?」


大毅の顔から血の気が失せ、飲み干したばかりのビールと未消化のスルメが地面にぶちまけられる。 元プロのスポーツ選手。だが、今はただの、酒に溺れた三十七歳のサラリーマンだ。 鍛え上げ、研ぎ澄ました小六の拳は、すでに「大人」を破壊するだけの出力を備えている。


(もう考えるのはよそう。今、ここで決着をつける!!前世の俺の分まで、俺が納得いくまで!!)

「…これ、初めての親子喧嘩ですね。俺、今まで何回殴られたか執念深く数えていましてね。まだまだこんなものでは足りないんですよ。概算ですら殴られた回数は千回超えてますからね。」


俺は腹を括り、膝をつく大毅を見下ろしながら冷たく言い放った。 立ち上がりざま、大毅が放った執念の右アッパーが俺の顎を跳ね上げる。

視界が一瞬、火花を散らして揺れる。脳が揺れる感覚。


(……さすが。これが一時期は野球に本気で取り組んでいた「なごり」なのかな。仕事でも重量あるもの持っているだろうし、腕力はすごい。)


恐怖はある。俺は小心者なのだ。

しかし、これまでの四年間(前世を含めた数十年分)の鬱憤が、熱いエネルギーとなって血管を駆け巡る高揚感だ。自分のテンションが高くなってくるのがわかる。前世から感情的にならないように自分を押し殺し、無惨に殺された自身の姿がフラッシュバックする。


「さあ、お父さん!生まれて初めての親子喧嘩、楽しんでいこう!!!」


俺の言葉に、大毅の目が獣のように見開かれた。


「この……ガキがぁ!!」


夜二十時の公園。 街灯の下、百七十センチの少年と、崩れかけの巨漢が正面から衝突する。 人体工学に基づいた精密な打撃と、粗削りだが圧倒的な質量による暴力。

鈍い打撃音と、荒い呼吸。 俺は今、法や理屈ではなく、この拳一つで「父親」という巨大な不条理と、本当の意味で対峙していた。それは、俺がこの人生で「自分の足で立つ」ために、避けては通れない、文字通りの血の儀式だった。


時は流れ二十一時。夜の静寂を切り裂くような打撃音と荒い呼吸が、ようやく止んだ。

街灯の下、血まみれの父と子が、泥だらけになって地面に座り込んでいた。 俺の膝蹴りで父の鼻は潰れ、俺の顔も腫れ上がり、視界の半分が塞がっている。 客観的に見れば、ただの凄惨な家庭内暴力の現場だろう。いつ通報されて警察が来てもおかしくなかった。

だが、俺の胸のうちは、驚くほど澄み渡っていた。


「……お父さん、こんなものでは全然!全く!足りないけれど、昔よりかは(前世よりかは)、幾分か気持ちがスカッとしましたよ。」


掠れた声で呼びかける。 感情を爆発させ、全力でぶつかり、本音を拳に乗せて叩き込む。 「法改正」や「ロードマップ」といった理屈をすべて剥ぎ取った後に残ったのは、一人の人間としての、生々しい咆哮だった。

ふと見ると、大男である父が、肩を震わせて嗚咽を漏らしていた。 それは、かつてのプロ野球選手としてのプライドが折れた音か、それとも息子に「負けた」ことへの絶望か。あるいは、俺と同じように、彼もまたこの「家族」という歪な形に苦しんでいたことの証だったのかもしれない。


この喧嘩の結果、父は肋骨や指など合計四ヶ所に骨折やヒビを負った。 三十七歳の「大人」が、十二歳の「小学生」に、骨を折られるまで追い詰められたのだ。

とはいえ俺も酷い打撲が身体の至る所に刻まれている。全身もとにかく重い…

それからの数ヶ月、家の中に奇妙な沈黙が訪れた。 大毅は俺を殴らなくなった。どころか、俺と目を合わせることすら避けるようになった。 支配関係が崩壊し、彼は俺の中に「理解できない、制御不能な何か」を見て、本能的に距離を置いたのだ。

しかし、俺は習慣を崩さなかった。 夜、父の影が消えた庭で、俺は一人バットを振り続けた。 それは父への従順ではなく、自らの肉体を鍛え上げるための、神聖なルーティン。 風を切る音だけが、闇夜に鋭く響く。


拳で語り合った時間は、確かに「和解」の第一歩だったのかもしれない。だが、俺が目指す頂までの道のりに、この男は必要ない。そして「和解」に対して踏み込んでいくほどの余裕もまだない。

ふいに訪れた父との沈黙。 その空白の時間が、俺の「中三までに旧司法試験突破」に向けた、最大の加速期間となる。


【久世恒一:ステータス:二〇〇三年三月】

身長: 百七十三センチ

体重: 六十五キロ

握力: 右_五十キロ / 左_五十一キロ

五十メートル走: 六・八秒

属性: 三十五歳(中身)/ 十二歳(外見)/ 童貞


【スキル】

・前世の記憶

・IT営業の経験

・愛想笑い

・人体工学(格闘・トレーニング応用)


【通信簿・A〜E評価】

算数:A

国語:A

社会:A

英語:B

理科:C


【法律学習・自己評価】

憲法:C(概念は理解したが、判例の読み込み不足)

民法:C(分量が多すぎて厳しい)

刑法:B(最も情熱を注いでいる分野)

論文式:D(前世の頃から読解力が低い)

過去問題試験:正答率六十五%(七歳の頃、ひとまずの目標として掲げた、四年後には八十%まだあげる!には届いていない)


【特記事項】

大毅の沈黙: 暴力による支配が「恐怖による相互不干渉」へ移行。

隠し資産: 祖母からの小遣いや自販機の釣り銭などから小銭を貯めた。合計一万一千二百円

みこととの約束: 長期休み勉強会により、刑法の解釈が深化。

【特殊能力】

女神たちの加護?

次からは、間話を挟み、中学生トラブル編です!!

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