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27話:再びラボへ

 会議のあと、私は蘭子さんと一言も交わせなかった。


 勝ったはずだった。

 すべて、終わったはずだった。


 けれど、胸を満たしているのが達成感なのか、戦い抜いたあとの虚脱感なのか、自分でもわからない。長いあいだ張り詰めていた糸だけが突然切れて、感情が置き去りになってしまったようだった。


 私はただ、流されるように午後が過ぎていくのを見送った。


 そして、夜。

 私は一人で、あの場所へ向かった。


 颯真の屋敷にある、私設ラボ。


 重い門をくぐり、玉砂利を踏み、屋敷のいちばん奥にある古い蔵へ入る。そこから、むき出しのコンクリート階段を地下へ下りていく。


 何度、この階段を下りただろう。


 眠気で足を踏み外しかけた夜もあった。結果が見たくて、一段飛ばしに駆け下りた夜もあった。途中から漂ってくる出汁の匂いに気づき、研究より先に胃袋が反応した夜も、一度や二度ではない。


 認証パネルへ手をかざす。

 短い電子音とともに扉が開き、HEPAフィルターを通った、冷たく澄んだ空気が頬を撫でた。


 ブルーのLEDライトを反射して、最新鋭の機材が静かに並んでいる。

 温度をコンマ一桁まで維持する恒温槽。非ニュートン流体の挙動まで測れる最新型のレオメーター。人の呼吸による風の揺らぎすら許さない、高精度電子天秤。


 このラボがなければ、私はとっくに研究員ではいられなくなっていただろう。


 並んだ機材の表面を、指先でそっとなぞる。


「――もう来ないと思っていたが」


 ふいに、背後から静かな声が落ちてきた。

 振り返る。

 むき出しのコンクリート階段を、颯真がゆっくりと下りてくる。


 今日も、一ミリの隙もない完璧なスーツ姿。

 けれど、よく見れば、ネクタイの結び目だけがほんの少し緩んでいた。あの颯真でさえ、嵐のような一日が終わったことに、わずかに安堵しているのかもしれない。


「私も、昼くらいまではそう思ってました」


「玄蕃も黒瀬も失脚した。『Blanche』のメスキータ社への移管は止まり、西城蘭子の嫌疑も、事実上崩れた」


 颯真はラボのフロアへ足を踏み入れながら、本日確定した戦果を淡々と読み上げていく。


「ついでに言えば、君の寮の閉鎖も撤回させた。――なのに、なぜ来た」


 あの怒濤の事後処理のさなかに、私の住環境までしれっと確保していたらしい。相変わらず、無駄に有能すぎるオカンである。


「さあ。なぜでしょうね」


 私は後ろ手で白衣の裾をつまみ、少しだけ笑った。


「颯真って、学生時代、夏休みの宿題はいつやる派でした?」


 あまりにも唐突な質問に、颯真の眉間へ浅い皺が寄る。


「計画的に終わらせていた」

「うわ、ぽい! ものすごくそれっぽい!」

「君は、最終日に泣きながらやるタイプか」

「ぶぶー。違います」


 私は人差し指を振った。


「最初に、あらかた終わらせるんです。それで安心して、いっぱい遊んで、完全に油断した頃に気づくんです。――実験レポートみたいな、めちゃくちゃ面倒な大物だけが、まだ残ってることに」


「結局、最後に泣くんじゃないか」


「そうとも言います」


「君らしいな」


 颯真が呆れたように、小さく息を吐く。

 私は白衣のポケットから両手を出し、静まり返ったラボを、ゆっくりと見渡した。


「……終わってない感じがするんですよね」

「なにがだ」

「だから、宿題」


 声から、ふざけた調子を消す。まっすぐに、颯真を見た。


「残ってるような。いちばん面倒で、いちばん重要な大物が」


 胸の奥で、止まっていた何かが、もう一度動き始める。


「それを解かないままじゃ、新しい白組の『新学期』を、気持ちよく迎えられない気がするんです。誰かに与えられた答えじゃなく――自分の手で、解きたい」


「つまり、具体的には、なんだ」


「颯真が私にくれた、あのココア缶。あの底に貼られていた、蘭子さんが流出させたとされた、『完璧なクリーム』」


 白組が五年かけても辿り着けなかった、奇跡のような完成品。


「あれは、いったい――」


 張り詰めた静寂の中、私は問いを突きつけた。


「誰が、どこで作ったんでしょう?」


 蘭子さんにかけられた疑惑を晴らすために、私は颯真のラボを借り、ずっとその正体を追いかけてきた。結果として、玄蕃専務たちの失脚という別の形で、疑惑そのものは晴らすことができた。


 けれど――。私の中では、まだ終わっていない。

 いちばん肝心な、技術的な謎だけが、丸ごと残されている。


「……それについてだが」


 颯真が、静かに口を開いた。


「あのサンプルは、白組が解体されるより前に、複数の取引先へ匿名で送りつけられていた。当然、メスキータ社が『Blanche』の開発へ着手するよりも前だ」


「つまり……玄蕃専務も、黒瀬さんも、メスキータ社も、あれを作っていないということですね」


 そこまでは、予想がついていた。玄蕃専務にもメスキータ社にも、白組のレシピを、あそこまで劇的に改良する動機も時間もない。


 彼らは、手に入れたものを完成品だと考えていた。わざわざ未知の技術へ挑んで、研究者の沼に首まで浸かる理由がない。


「まあ、『誰が』作ったのかは、今はいったん脇へ置きます」


 私は恒温槽から手を離し、颯真へ向き直った。


「それよりも、どうすれば、あの暴れ馬みたいなアルフレッドを手懐けられるのか。私は、それが知りたいんです。技術的にそれを解き明かさないと、本当の意味で、白組の『新学期』を迎えられない気がして」


「なるほどな」


「だから、謎が解けるまで、このラボを使わせてくれませんか? 本日は完全に気が抜けて、研究員としてほぼ使い物になりませんけど。そのうち勝手にエンジンがかかりますんで」


 颯真は小さく肩をすくめ、私を見た。


「このラボを貸す条件を、覚えているか?」

「ええっと……なんでしたっけ?」


 私は、わざとらしく首を傾げる。


「毎日、手紙を書く、でしたっけ?」

「違う」

「……冗談です。研究の結果は、すべて見せる。ですよね」

「そうだ。そして、その条件に『専務を更迭するまで』という期限の条項はなかった」


 颯真は、いつもの感情の読めない顔で、淡々と告げた。


「だから、条件が守られる限り――いつまでも使っていい」


「ありがとう」


 初めてこの場所へ連れてこられ、最新鋭の機材を見せられた夜。私は、彼に利用されているのだと思っていた。


 玄蕃専務の不正を暴き、社内の権力闘争に勝つ。そのための、都合のいい駒として使われるのだと。私も、望むところだと開き直って、その思惑へ乗っかった。


 けれど、今はわかる。


 この人は、採算も社内政治も関係なく、ただ純粋に、私の「研究者としての意地」を、最後まで応援してくれる人だということを。


「分かりました。じゃあ、お言葉に甘えて、これからも存分に使わせていただきます」


 私は、素直に笑った。


「――でも、今日は帰りますね。最近、かなりヘビーだったから」


「夕飯は食べていかないのか?」


「今日はいいかなあ。私、今日はここで何もしてませんから。夕飯だけご馳走になるのは、なんか違う気がします」


 颯真は、しばらく黙って私を見つめた。


「だったら、作るのを手伝うか?」

「え?」

「一緒に作って、一緒に食べる。それなら問題ないだろう」

「でも、前に言ってませんでしたっけ? コップに茶渋を残すような女を、厨房へ入れるわけにはいかない、とか」

「客に出す料理を作らせるならな。俺たち二人で食べるだけなら、多少のリスクは許容できる」


 リスク扱いされた。ただ、厨房への立ち入り許可は下りたらしい。


「うーん、どうしようかなあ。ちなみに、本日のメニューは?」

「アジアンは大丈夫か?」

「大好物です」

「なら、シンガポールチキンライスと生春巻きにしよう」

「いいですね!」


 口が即答した。


「それなら、ご相伴にあずかろうかな」

「よし。では、決まりだ」


 そう言って、颯真は迷いなく階段を上り始めた。


 私はその背中を、ぽかんと見送る。数段上ったところで、颯真が振り返った。


「どうした。さっさと来い」


「へ? どこへ?」

「母屋に決まっているだろう。ラボで料理をするつもりか?」

「あ、そっか。そりゃそうですよね。――って、母屋!?」


 思わず、声が裏返った。


 考えてみれば、当たり前である。


 料理を手伝う。つまり、颯真のキッチンへ行く。つまり、これまで一度も足を踏み入れたことのない、彼が暮らす母屋へ入るということだ。


 颯真の家に入り、颯真と料理を作り、二人で夕飯を食べる。


 ――それ、けっこう大きなイベントなのでは?


 私の脳内で今さら警報が鳴り始めたが、すでに献立は決まり、参加表明まで済ませてしまっている。研究者としてあるまじき、致命的な気づきの遅さだった。


 完全に、シンガポールチキンライスに釣られたあとだった。



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