↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
26/36

26話:凱旋

 『Blanche』の上市延期と、評価プロトコルの全面再検証が決まった、その翌日。


 座馬颯真(ざまそうま)は、反撃を開始した。


 九時――緊急内部監査。十三時――品質保証部との合同調査。十六時――監査役会への報告。十八時――臨時取締役会。以下、会議、会議、会議、会議――。


 社内スケジュールにびっしりと並んだ颯真の予定は、もはや会議日程ではない。敵陣へ時間差で撃ち込まれる、砲撃予定表だった。


 未完成の処方が、いつ社外へ展開されたのか。必須だった安定性試験が、誰の指示で「机上試験による代替可」へ書き換えられたのか。なぜ、玄蕃専務と関係の深いメスキータ社が、異様な速さで製造委託先に選ばれたのか――。


 そうなのだ。私に秘密のラボを提供し、なんなら毎晩ご飯まで作ってくれる、ちょっと過保護な御曹司だと思っていたら。


 この男、裏では黙々と、専務を追い詰める証拠を集めていたのである。しかも、ただ集めていたわけではない。時系列で整理し、経緯をつなぎ、言い逃れできない形になるまで、冷静に、執拗に、逃げ道ごと固めていた。


 そして――今。颯真は温存していたデータを、監査部門や上位の会議体へ次々と叩き込んだ。一発撃ち込むたびに、専務派の一人が黙る。もう一発撃ち込むたびに、別の一人が席を離れる。


 それまで社内の主流を占めていた玄蕃専務の陣営が、音を立てて切り崩されていった。



 崩れたのは、専務派の陣形だけではなかった。


 それまで社内を覆っていた沈黙にも、あちこちで亀裂が入り始めた。


 最初に耳へ飛び込んできたのは、廊下ですれ違った二人組の声だった。


「ねえ、白組がデータを持ち出したって話、あったじゃん」

「ああ、西城さんって人?」

「あれ、そもそもキラキラ組が仕組んだんじゃないかって」

「え。じゃあ、白組は丸ごと嵌められたってこと?」


 真新しい社員証を首から下げた、入社して間もなさそうな二人だった。私に気づいた瞬間、揃って口を閉ざし、気まずそうに足早に通り過ぎていく。


 社員食堂でも。


 昼の列で後ろに並んでいた社員たちが、トレーを抱えたまま声を潜めていた。


「なんでメスキータ社は、あんなに早くラインを動かせたんだ?」

「レシピを受け取ってから、あの期間で量産準備まで進められるわけないよな」

「じゃあ、もっと前から渡ってたってこと?」

「……誰が、って話になるよな」


 そこで声が途切れた。

 けれど、誰のことを指しているのかは、もう名前にするまでもなかった。


 そして、帰りのエレベーター。


 扉が閉まった直後、誰かがぽつりと言った。


「西城さんって人、本当に持ち出したのかな」

「むしろ、嵌められたんじゃない?」

「白組の人たち、ずっと犯罪者みたいに見られてたよね」

「……それ、本当だったらひどすぎるでしょ」


 狭い箱の中に、重い沈黙が落ちた。


 あの日。

 本社の正面車寄せへ並べられた警察車両。けたたましく回る赤色灯。刑事たちに前後を挟まれ、肩を小さく丸めて歩く蘭子さん――。


 大勢の社員の目に焼きつけられた、あまりにも分かりやすい一枚の絵。


 ――西城蘭子が、白組の技術を流出させた。


 説明などなくても、誰もがそう思うように作られた光景だった。けれど今、その一枚の絵には、まったく違う意味が与えられようとしている。


 事件が起きたから、白組が解体されたのではない。白組を解体するために、事件が作られたのではないか。


 みんなが、同じ疑問へ辿り着き始めていた。


 白組は泥棒ではなく、泥棒に仕立て上げられた側だったのではないか――と。


 そして、さらに数日後。


 玄蕃専務が、専務職と研究開発管掌から事実上更迭された。その一報を私へ持ち込んだのは、颯真ではない。営業の三村さんだった。


「玄蕃専務、飛んだぞ」


 玄蕃専務は、『Blanche』に関するすべての権限を剥奪された。メスキータ社との『Blanche』の委託契約も白紙。不透明な取引の経緯については、第三者を交えた調査が行われることになったという。


 そして、専務派の一人。

 新プロジェクト推進室――通称『キラキラ組』のトップである黒瀬さんも、『Blanche』のプロジェクト責任者を解任された。キラキラ組そのものも、第三者調査の結果が出るまで、いったん解散。


 私がそのフロアを訪れたとき、あれほど暴力的に発光していた空間は、段ボール箱の群れに占拠されていた。


 高級フレグランスによる空中の覇権争いは、完全終結。代わりにフロアを満たしているのは、粘着テープとコピー用紙の匂いだった。


 壁を飾っていた巨大な商品ビジュアルも、半分まで剥がされていた。満面の笑みで純白のクリームを掲げていたモデルは、今や顔の右半分しか残っていなかった。


 栄枯盛衰。キラキラ組の隆盛と没落が、剥がしかけのポスター一枚に凝縮されているようだった。


 フロアの中央で、黒瀬さんは私物を段ボール箱へ詰めていた。私の姿を認めると、彼女は何も言わず、デスクに残されていた分厚いファイルを引き寄せた。


「持っていって」


 差し出されたのは、『Blanche』に関するすべての進行記録。両手で受け取った瞬間、ずしりと腕へ重みがかかる。


 黒瀬さんが費やした時間も、欲しかった評価も、この商品で見ようとしていた未来も。そのすべてが、一冊の中へ綴じ込まれているような重さだった。


「……私が作りたかったのは、こんな終わり方じゃなかった」


 掠れた声だった。いつものように私を見下す響きも、鋭い虚勢もない。そこにいたのは、計算違いの結末に打ちのめされた、一人の企画者だった。


「まだ終わっていません」


 私は、ファイルの硬い表紙を指で押さえた。


「『Blanche』は、これから再始動します」


 黒瀬さんは、何も答えなかった。

 箱を抱え、誰もいなくなったデスクの間を歩いていく。

 最後まで、その背筋だけは真っ直ぐに伸びていた。


 やがてエレベーターの扉が閉まり、黒瀬さんの姿を覆い隠す。私は分厚いファイルを胸に抱えたまま、彼女が見えなくなるまで、その場を動かなかった。



* * *



 数日が経った午後。


 私は颯真に声をかけられ、技術参考人として臨時経営会議へ参加していた。


 大きな窓から、真夏の日差しがたっぷりと差し込んでいる。

 白い壁。磨き上げられた長机。容赦なく明るい会議室。

 上座にあった玄蕃専務の席は、空いている。その背後に控えていた黒瀬さんの姿も、もうない。


 会議は、ここ数日で決まった処分の確認から始まった。白組の解体を推し進めた専務派は、その多くが更迭。


 解体の経緯にも、調べれば調べるほど怪しい点が噴出。『Blanche』は、上市計画をいったん白紙へ戻し、あらためて研究開発フェーズからやり直す。


 それらの決定事項が、順番に確認されていく。


 ――そこまで決まったら。


 あとはもう、白組復活に決まってるでしょ!


 私の脳内では、まだ議題にすら上がっていない『白組再結成案』が、すでに全会一致で可決されていた。


 散り散りになったメンバーを呼び戻す。

 地下ラボの照明を点ける。

 実験台を奪還。


 私は早くも、白組再結成後の座席配置まで考え始めていた。


 でも次の瞬間。スクリーンへ、『Blanche』の新たな開発体制表が映し出された時、私の脳内会議で盛大に鳴り響いていた復活のファンファーレが、急停止した。


 どこにも、『研究開発部署』の箱がない。


 もう一度見る。やっぱり、ない。


 その代わり、研究開発の項目には、たった四文字が記されていた。


『外部委託』


「ちょっと、颯真。これ、どういうこと? 聞いてないんだけど」


 私は隣に座る颯真を肘で小突き、声を潜めたまま口を尖らせた。


「社内の研究開発機能を復活させるって、言ってたよね?」


 颯真は表情一つ変えなかった。


「研究組織の再編は進めている。だが、今すぐ白組を元の状態へ戻すことはできない」


 メンバーは、すでに複数の部署へ異動している。

 予算も、ほかの部門へ分配済み。

 地下ラボの機材は、減価償却と処分の手続きへ入っている。

 責任者だった蘭子さんは退職し、白組解体の経緯そのものも、まだ第三者調査の途中。


 一度システム上で解体された組織が、翌朝、魔法のように復活することはない、と颯真は淡々と話す。


「それは分かりますけど。じゃあ、『Blanche』の研究開発は、引き続きメスキータ社へ委託するってことですか?」


 颯真は答える代わりに、スクリーンの方を視線で示した。


 ちょうど議長役の取締役が、その説明に入るところだった。


「また、メスキータ社との契約についてですが、『Blanche』に関する開発および製造委託は停止します。ただし、同社へ委託している既存製品については、品質保証部による監督と追加監査を条件に、生産を継続します」


 今回問題になったのは、『Blanche』の評価プロトコルと、その決定過程だ。


 メスキータ社の生産能力そのものや、現在問題なく流通している既存製品まで、すべて不適格と判断されたわけではない。


 ここで感情的に全契約を打ち切れば、既存製品の供給が止まり、メスキータ社の社員だけでなく、取引先や使用者へ迷惑をかける。それでは、企業として責任ある態度とは呼べない。


 そこは、私にも納得できる。


 納得はできるのだが――。


 では、『Blanche』の研究開発は、いったいどこへ委託するというのか。


「『Blanche』の再開発については、こちらの企業を、委託先の最終候補として選定しました」


 議長の言葉と同時に、スライドが切り替わった。

 スクリーンいっぱいに、企業名とロゴが映し出される。


「――っ!」


 その名前を目にした瞬間、私は声を失った。

 そこに大きく記されていたのは――。


『ヒラルダ社』


 ヒラルダ社。


 蘭子さんが転職した、化粧品の研究開発会社だった。



「それでは、『Blanche』の再開発計画について、先方の責任者よりご説明いただきます。お入りください」


 スクリーン脇の扉が、ゆっくりと開いた。


 コツ、コツ、と。


 ヒールの音が、明るい会議室へ響いた。

 白いシャツにチャコールグレーの細身のスーツ。肩口で綺麗に切りそろえられた黒髪。知的な銀縁眼鏡。


 背筋を真っ直ぐに伸ばし、その人は並み居る役員たちの視線を正面から受け止め、演台へ歩いていく。


 あの日、警察車両の赤色灯が回る中、刑事たちに前後を挟まれ、小さく肩を丸めて会社を去った人が――今度は、夏の日差しに満ちた会議室へ、自分の足で、顔を上げて帰ってきた。


「ヒラルダ社、新研究所所長の西城蘭子です」


 役員たちへ深々と一礼する蘭子さん。


 私の手から、危うくペンが落ちかけた。


 蘭子さんがヒラルダ社の新研究所へ移ることは聞いていた。

 けれど、まさか『Blanche』の新しい委託候補として、アルカサスへ戻ってくるなんて思わなかった。



 蘭子さんが端末を操作すると、スクリーンへ再開発計画が映し出された。


 処方と原料規格の再検証から、量産条件の確立、安全性と長期安定性の確認まで。製品化に必要な試験が、すべて組み込まれている。


 しかも、試験条件や測定ログ、生データは、アルカサスへ完全共有。判定基準に曖昧さはなく、都合の悪い結果が出た場合の報告手順まで、最初から明記されていた。


 専務一派が「時間がかかる」と削り落としたものを、一つ残らず拾い上げた、技術的に隙のない計画書だった。


「私たちは、上市日を守るために品質を証明するのではありません」


 蘭子さんの凛とした声が、会議室を満たす。


「品質を証明できた日を、上市日にします」


 胸の奥が、熱くなる。そうだ。これが、研究開発だ。

 決められた発売日へ、試験結果を無理やり押し込むのではない。試験を積み重ね、その先に発売できる日を見つける。


「『Blanche』の処方開発も、量産化も、品質管理も、ヒラルダ社新研究所が責任を持って行います」


 蘭子さんは、はっきりと言い切り、顔を上げた。


 並んだ役員たちの先。末席に座る私を、真っ直ぐに見た。


 銀縁眼鏡の奥の瞳が、優しく細められた。

 たったそれだけで、五年間の記憶が一気に蘇った。


 実験台を挟んで叱られた日。失敗した試作品を、夜中まで一緒に作り直した日。

 結果が出なくて俯いていた私へ、高い栄養ドリンクを叩きつけてくれた日。


 ずっと追い続けてきた、白衣の背中。目の奥が熱くなる。膝の上で握った手が、かすかに震えた。




 その後、臨時経営会議は満場一致で、ヒラルダ社への開発委託を承認した。

 さらに、旧白組のメンバーも技術協力という形で再開発へ参加する。

 将来的な社内研究開発機能の再構築を見据え、ヒラルダ社と共同で知見を蓄積していく方針も、あわせて確認された。




 すべて解決したように見えた。白組はまだ復活してないけれど、信頼できる人の研究所が担当し、旧白組もそれに協力できるというなら、私に不満はない。


 ようやくすべてが、正しい場所へ戻り始めたのだと――私は、心からそう信じていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。