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28話:生春巻きとコンタクトレンズ

 地下ラボを出て、コンクリートの階段を上がる。


 重い木の扉を抜ければ、そこは颯真の屋敷のいちばん奥――かつて蔵として使われていた一角だ。


 いつもなら、そのまま玄関へ直行して帰る。彼が実際に暮らしている居住エリアへ足を踏み入れるのは、今日が初めてだった。


「こっちだ」


 颯真は、いつもとは反対方向へ歩き出した。


 その背中を追いかけながら、私はほんの少し、心臓を跳ねさせている。


 夜遅くに、男性のプライベート空間へ招かれるのだ。多少、戸惑いや緊張があって然るべきシチュエーションなのではないだろうか。


 しかも相手は、色白で長身、黒髪、吸血鬼系美形。黙って立っているだけなら、嫁入り前のスッピン白衣の心拍数を一・五倍くらいに引き上げる性能はある。


 だが、そんな甘酸っぱい緊張感は、重厚な引き戸を抜けた瞬間、それ以上の衝撃によって跡形もなく消滅した。


「なんだ、ここは……」


 広い。

 でかい。

 高そう。


 颯真の住処は、私の予想を遥かに超える豪華さだった。


 見上げれば、首が痛くなるほど高い天井に、見事な太い梁が黒光りしている。足元から奥へと続く長い廊下は飴色に磨き上げられ、横を向けば、障子越しに淡くライトアップされた中庭が浮かび上がっていた。


 古い日本家屋の骨格をしているのに、古臭さがまったくない。リノベーションされたばかりの、高級旅館のような雰囲気。そしてそれが、やたらと広いのだ。


 玄関から三回角を曲がり、二つの中庭を横目に通り過ぎてもまだ、目的地は見えてこない。私の住んでいる独身寮なら、今の距離で建物を縦に三往復しているほどの距離なのに。


 そして、ようやくたどり着いたキッチン。そこも常軌を逸した広さだった。


 中央に置かれた黒い石天板の巨大なアイランド型。壁際には、業務用の大きな冷蔵庫。調理器具は大きさ順に整列し、包丁は一本ずつ専用のホルダーへ収まっている。


 さながら料理番組の収録スタジオか、有名レストランのオープンキッチンのようだ。


 颯真はジャケットを脱いで白いシャツの袖を肘までまくると、見覚えのある藍染めのエプロンを身につけた。


 吸血鬼系御曹司で、次期社長候補。事業戦略部長のくせに、口うるさいオカンで、藍染めエプロン。颯真はいつも通りに属性が渋滞気味だ。


 颯真は私にも、無地のエプロンを差し出してきた。

 私はそれを白衣の上から締める。


 彼は少し眉根を寄せていたが、「服が汚れるよりはいいだろう」と諦めた様子だった。


「シンガポールチキンライスの仕込みは俺がやる。君は生春巻きの具材と、付け合わせのカットを頼めるか?」

「了解です。切るのは得意です」

「その自信は、どこから来るんだ」

「刃物を持つ研究員は強いですよ」

「怖いことを言うな」


 二人で並んで、広いキッチンに立つ。


 颯真の手際には、実験プロトコルのように一切の無駄がない。鶏肉へ生姜とネギを揉み込み、調味液の量を正確に量り、長粒種のジャスミンライスと一緒に炊飯器へセットする。


 一方、私は野菜荒い専用のシンクで野菜を洗い、包丁を握った。


 きゅうり、パプリカ、たっぷりのパクチー。


 生春巻き用のパプリカを、小ぶりの包丁(ペティナイフ)で慎重にカットする。

 一切れ目は四ミリ。二切れ目は七ミリ。三切れ目――なぜか一・五センチ。


 隣でソースを作っていた颯真が、私の手元を見て、小さく息を吐いた。


「……ずいぶんと個性的な細切りだな」

「工場生産では出せない手作り感を演出しました」

「その演出、必要か? 細切りの定義から外れかけているものが混ざっているが」

「多様性です」

「化粧品を〇・〇一グラム単位で調整する人間と、同一人物とは思えん」


 作業の心地よいリズムがキッチンを満たしていく。


 包丁がまな板を叩く音に鍋の中で湯が沸く音、そして鶏肉のスープで炊き上がるジャスミンライスの、甘くてエスニックな香りが広大なキッチンを広がっていく。


 私がライスペーパーをぬるま湯で戻し、エビと、個性の強い野菜たちを巻き上げる頃には、颯真が三種類の特製ソース――ダークソイ、ジンジャー、チリ――を小皿へ整えていた。


「完成だな」


 皿の上には、艶やかに炊き上がったシンガポールチキンライスと、少し不格好な生春巻きが並んでいる。


「……ちゃんと料理になりましたね」

「そうだな」

「私も、共同制作者を名乗れるくらいは貢献しましたよね?」

「ああ。太さの違うパプリカを量産してはいたが」

「食感に変化をつけた、と言ってください」

「ものは言いようだな」


 私たちはキッチン横のカウンターに並んで座り、手を合わせる。


「いただきます」


 一口、食べる。


 鶏肉の濃厚な旨味が染み込んだジャスミンライスへ、生姜の香りとダークソイの深い甘み、チリソースの辛味が重なった。


「美味しい……! 和食だけじゃなくてエスニックも得意とは」

「最近、研究を始めた」

「生春巻きも美味しいですよ。太さの不揃いなパプリカが、いい味を出してますよ」

「そこは無理に強調しなくていいんじゃないか?」


 広すぎる屋敷の、広すぎるキッチン。

 そこで私は颯真と二人、自分たちで作った料理を食べている。

 数週間前まで、彼は近づき難い創業家の御曹司で、日和見主義の冷血漢だと思っていたのだが、今は白衣のまま彼の家へ上がり込み、アジアンを食べている。

 そう思うと、なんだか妙な気持ちだった。


「……あれ?」


 ふと顔を上げ、私は箸を止めた。


「颯真、眼鏡なんですね」


 いつの間にか少し大きめの黒縁眼鏡をかけていた。


「今、気づいたのか」


 呆れ半分――そして、ほんの少しだけショックを受けたような顔をする。


「ふーん。意外と似合ってますね」


 私はパクチーが盛大にはみ出した生春巻きを口へ運びながら、眼鏡姿をまじまじと観察した。


実際のところ、かなり似合っていた。


 いつもの隙のないスーツ姿より、少しだけ柔らかい。それでいて、知性と冷たさは消えていない。深夜の図書館で難解な洋書を読んでいそうな、勤勉な学生の雰囲気がある。


「視力、どれくらいなんですか?」

「両目とも〇・一以下だ」

「ふっ。私は二・〇です」

「視力でマウントを取られるのは、小学校以来だな」


 私が勝ち誇ってふんぞり返ると、颯真は呆れたように小さく息を吐いた。


「でも、白組は眼鏡だらけですよ。大半が眼鏡女子です。みんな新入社員の頃はコンタクトだったのに、一日中データと睨めっこしているうちに、次々と眼鏡派へ転向していきました。目が乾いて仕方ないですから」


「ああ、その気持ちは完全には同意する。俺も、今日は朝から会議続きだったから、やたらと乾いて目が痛かった」


 颯真は、黒縁眼鏡の位置を指先で直した。


「コンタクトレンズは乾燥するとすぐに硬さが増して、目に張りついてくる」


「素材がハイドロゲルっていう、水を抱えて膨らむ高分子の網目構造ですからね。含んでいる水分量によって、物理的な硬さが劇的に変わるんです」


 私はリケジョの蘊蓄(うんちく)を披露しつつ、皿の上に並んだ生春巻きへ、もう一度箸を伸ばした。


「これと同じです」


 生春巻きをつまみ上げ、もっちりとした皮を颯真へ見せる。


「ライスペーパーも、さっきまではプラスチックの板みたいにカチカチで、曲げたら割れそうだったでしょう。でも、ぬるま湯で水分を吸わせれば、こんなに柔らかく弾力が出ます」


「なるほどな。そういうことなら、表面が乾く前に食べるとしよう。水分が飛んだたらまた硬くなって、具材との一体感がなくなってしまうからな」


「賛成です」


 言いながら、生春巻きをピーナッツソースの小皿へ運ぼうとして――。

 私はピタリと、箸を止めた。


『水を含んでいる間は、柔らかく弾力がある』

『水分が飛べば硬くなり、衝撃で割れる』


 頭の中で、二つの言葉が繰り返された。


 私は箸の先に挟まれた、半透明の生春巻きを凝視した。


 水をたっぷり含み、ぷるぷると揺れる薄い膜を。


「これだ!」


 気がつくと、私は叫んでいた。


「どうかしたのか? 由芽?」


「これですよ。なんで気づかなかったんだろう」

「何の話をしている」

「あの完璧なクリーム!」


 椅子を蹴るように立ち上がった。


「アルフレッドの外側に、水分量で性質が変わる膜を着せたんですよ!」


「膜?」


「水を含んでいる間は、柔らかく膨らんで衝撃を吸収する。水が抜ければ、硬く脆くなる。そうだ、それなら――全部つながる!」


 胸の奥で、心臓が暴れ回っている。


「成分分析が一致した理由も! 密閉した測定器の中では四十度を超えても崩れなかった理由も! 肌の上ではきれいにとろけた理由も! あの均一な粒径分布も! これなら、全部説明できます! ハイドロゲルの装甲です!」


 私はテーブルを叩いた。

 食器が一斉に跳ね、スプーンが、カチャリと悲鳴を上げた。


「今すぐ確かめてきます!」


 ターンと踵を返し、地下ラボへ猛ダッシュしようとした、その瞬間。


 ――くいっと、白衣の裾が、後ろへ引かれた。


 リードを引かれた小型犬のように、私はその場で見事な急停止を決めた。


「離してーー。 今、私の目の前で科学の扉がフルオープンしたんです!」


「フルオープンはいいが、夕飯を食べてからにしろ」


 颯真は箸を持ったまま、もう片方の手で私の白衣の裾をちょこんとつまんでいた。真ん中に寄せられた眉が、「お母さんは許しませんからね!」と言っているかのようだった。

 颯真のこの顔には、私は心底、弱いのだ。


「はっ! わかりました!」


 私は椅子に戻ると、猛烈にシンガポールチキンライスを食べ始めた。


「よく噛め。米を気管に詰まらせたら、研究どころじゃなくなるぞ」


「んぐっ……げほっ! み、水……っ!」


「ほら、言わんこっちゃない! レモングラスで口と鼻が貫通でもしたら乙女の一大事だぞ!」


 颯真からグラスを渡され、盛大にむせ返る。


「くっ、こんな時に! 科学が……科学が、気管支へ……!」

「入ったのはタイ米だ。科学は関係ない」


 背中をぽんぽんとさすられながら、私はいつまでも咳きこんでいた。



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