第9話
気絶した男たちの懐から転がり落ちた通信端末を、冷たい目で見下ろした夜。
有給の残日数を頭の中で計算しながら、俺は静かに決意した。娘の笑顔と平穏な日常を守るためなら、深夜の残業も辞さない、と。
それから一夜明けた翌朝。
キッチンに立つ俺の手元で、リズミカルな包丁の音が響いていた。
まな板の上のキャベツが、寸分違わぬ均等な幅の千切りへと変わっていく。長年の会社員生活で培った書類の高速裁断とファイリングの作業。その無意識の技術は、日々の自炊にも大いに役立っていた。
指先が触れるか触れないかの絶妙な力加減で、刃先は空気を滑るように食材を断ち切っていく。
「よし、こんなものか」
ボウルに山盛りになった千切りキャベツを横目に、フライパンに火をかける。ジュワッという音と共に、ベーコンの香ばしい匂いがダイニングに広がった。
「パパ、おはよう!」
背後から、元気いっぱいの声が飛び込んできた。振り返ると、ツインテールを揺らしながら、娘がリビングに駆け込んでくるところだった。
「おはよう。ちゃんと顔は洗ったか?」
「洗ったよ! 今日はパパも一緒に学校行くんだよね?」
「ああ。先生とお話ししてくるからな」
娘は嬉しそうに頷き、ダイニングチェアによじ登ってフォークを握りしめた。
この平穏な日常を守るためなら、どんな手でも使う。
俺は出来立ての目玉焼きを皿に移し、テーブルへと運んだ。
ランドセルを背負った娘と手を繋ぎ、小学校へ向かう。
すれ違う近所の人たちに挨拶を交わしながら、穏やかな朝の空気を吸い込む。
「パパ、今日はお仕事遅刻しない?」
娘が心配そうに見上げてくる。
「大丈夫だ。午前休を取ってあるからな」
有給の残日数が脳裏をよぎり、胃の奥が少し重くなるのを感じたが、娘のためなら安いものだ。
校門で「行ってきます!」と手を振る娘を見送り、俺はそのまま職員室へ向かった。
午前休を取得しているため、スーツ姿だがネクタイは少し緩めている。
チャイムが鳴り、教師たちが慌ただしく教室へ向かう中、俺は来客用の受付に立った。
「お父様、こちらへどうぞ」
担任の白鳥麗子先生が、応接スペースへ案内してくれた。眼鏡の奥の真面目な瞳が、俺を真っ直ぐに見つめている。
温かいお茶が出され、俺は一口飲んで息をついた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。あの子の覚醒について、学校側としても方針を確認しておきたかったのです」
白鳥先生は手元の資料に目を落とす。
「学校でのあの子は、今まで通り元気いっぱいです。お友達とも仲良く遊んでいますし、給食も残さず食べています。図工の時間に、あの子が描いた絵を見ました。お父様と手を繋いで、大きな公園を歩いている絵でした。とても温かい色使いで……あの子にとって、お父様との時間がどれほど大切か、よく伝わってきました」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ありがとうございます。私も、あの子との時間を何より大切にしていますから」
「ただ、ダンジョン庁からの通達を拝見しました。測定の際、あの子が測定器を破壊するほどの数値を記録したそうですね。前代未聞の事態だと、教育委員会でも少し騒ぎになっています」
俺は苦笑いを浮かべ、頭を掻いた。
「ええ、お騒がせして申し訳ありません。実はその際、遺伝の可能性を指摘されまして。私もついでに測定を受けたんです」
「お父様もですか?」
「はい。そうしたら、予備の測定器まで完全に沈黙させてしまいまして。親子揃って規格外だと、業界を騒然とさせる事態になってしまったんです」
白鳥先生は目を丸くし、持っていたペンを取り落としそうになった。
「えっ……お父様も、覚醒者でいらっしゃるのですか?」
「ただの会社員ですよ。少しばかり、事務処理が得意なだけで」
俺は謙遜したが、白鳥先生は少し空回り気味に身を乗り出してきた。
「素晴らしいです! 男手一つで仕事と育児を両立されているだけでも大変なのに、そこまでの才能を秘めていらっしゃったなんて。あの子がいつも元気で優しいのは、お父様の愛情と、その隠された才能による安心感があるからなのですね!」
少し解釈が飛躍している気もしたが、俺は曖昧に頷いておいた。
「それで、今後のことなのですが」
俺は表情を引き締め、本題に入る。
「あの子は、トップギルドから正式にスカウトされました」
「トップギルドに……小学生で?」
「はい。ただ、未成年の規定があります。私が有給を使って、保護者として同行することになりました」
白鳥先生は息を呑み、心配そうな顔をした。
「ダンジョンは危険な場所です。あの子はもちろん、お父様もお怪我のないように……。それに、お仕事との両立は大丈夫なのでしょうか?」
「ご心配をおかけします。ですが、あの子が普通の小学生として過ごせる平穏な環境は、私が何としても守り抜きます。ダンジョンの危険からも、あの子の才能を狙う脅威からも。有給休暇は正当な権利として行使しますので、仕事の方はなんとか調整します」
俺の言葉には、昨夜の襲撃を思い出した静かな決意が込められていた。
白鳥先生は俺の目を見て、深く頷いた。
「私にできることがあれば、何でも言ってください。学校は、あの子にとって安心できる場所であり続けますから」
「ありがとうございます。その言葉だけで、十分です」
面談を終え、俺は学校を出る。
春の陽気が心地よい。校庭からは、体育の授業を受けている児童たちの元気な声が聞こえてくる。
時計を見ると、会社に向かうにはまだ少し時間がある。
昨夜の通信端末の件を思い出す。裏社会の連中。
週末の旅行までに連中を片付けるべく、奪った端末の解析ツールを起動した。
その時、校門を出た先の路地裏から、ガサリと音がした。
俺は足を止め、視線を向ける。
小柄で痩せこけた青年が、電柱の陰からこちらを窺っていた。以前、ダンジョン庁の近くで逃亡した情報屋、根津吉太郎だ。
根津は極度の恐怖でガタガタと震え、顔面は蒼白だった。まるで、絶対に関わってはいけないバケモノを前にしたかのような怯えようだった。
「……何の用ですか」
俺が静かに問うと、根津はビクッと肩を跳ねさせた。
「ひっ……! あ、あんた……いや、お父さん……!」
根津は怯えながらも、必死に言葉を紡ぐ。
「ど、どうしても……話したいことがあって、来たんだ……!」
「話?」
「あ、ああ……。あんたの娘を狙ってる連中の……ヤバい情報だ……」
根津の言葉に、俺の目は冷たく細められた。
恐怖に震える根津がもたらす情報。それは、俺の次なる行動を決定づけるものだった。




