第10話
路地裏の薄暗がりの中、小柄で痩せこけた青年がガタガタと震えていた。
「ど、どうしても……話したいことがあって、来たんだ……!」
根津吉太郎。以前、ダンジョン庁の近くで逃亡した悪徳ギルドの情報屋だ。
俺は足を止め、静かに視線を向ける。
「……何の用ですか」
「あ、ああ……。あんたの娘を狙ってる連中の……ヤバい情報だ……」
根津は顔面を蒼白にしながら、必死に言葉を紡ぐ。まるで、絶対に関わってはいけないバケモノを前にしたかのような怯えようだった。
「あんた、ただの会社員だろ? なのに、娘の安全が第一だとか言って測定に付き添って……結果、あの子が前代未聞の数値を叩き出して測定器を粉々にぶっ壊した」
俺は無言のまま、根津の言葉を聞き流す。
平凡な会社員である俺にとって、娘の平穏な日常を守ることは最優先事項だ。そのための付き添いだったが、結果的に目立つことになってしまったのは否めない。
「それだけじゃない。遺伝の可能性があるって言われて、あんたもついでに測定を受けたら、予備の測定器まで完全に沈黙させたってな。親子揃って規格外だって、ダンジョン業界の裏側じゃ騒然としてるんだよ」
背筋に冷たいものが走る。
俺の測定結果は、愛海の登録と引き換えに隠蔽を要求したはずだった。だが、裏社会の情報網にはすでに漏れ伝わっているらしい。どこから情報が漏れたのかは後で調べる必要がある。
「おまけに、娘さんがトップギルドからスカウトされたら、未成年の規定を盾にして、あんたも有給使って同行してるんだろ? 娘の才能を狙う脅威から守るためだろうが、そんな目立つ真似したら狙われるに決まってる」
根津の言う通りだった。新たな日常が幕を開けたとはいえ、危険は常に付きまとっている。
「それで? その情報を教えに来ただけですか」
俺が淡々と問いかけると、根津はビクッと肩を跳ねさせた。
「あんた、なんでそんなに落ち着いてるんだよ……。普通、黒崎に狙われてるって知ったら、もっと慌てるだろ」
「慌てても事態は解決しませんから。必要なのは、正確な情報と迅速な対応です」
「……やっぱり、あんたはおかしい。俺は……あんたが昨夜、俺たちの仲間をどうやって片付けたのか、遠くから見てたんだ。ボールペン一本で、空間ごと切り裂くようなあの異常な技をな」
根津の歯の根が合わず、カチカチと音を立てている。
「俺は情報屋だ。強い奴には媚びるが、あんたは次元が違う。絶対に関わっちゃいけないバケモノだ。このまま黒崎についてたら確実に殺される。だから……寝返る!」
根津は震える手で、ポケットから小型のデータ端末を取り出し、差し出してきた。
「黒崎のアジトの場所、見取り図、戦力情報……全部入ってる。これを渡すから、俺を見逃してくれ!」
生存本能からの懇願。強い者にはへりくだる、彼なりの処世術なのだろう。
俺は無言で端末を受け取った。
「……感謝します。この情報は有効に使わせてもらいますよ」
「ひっ……!」
俺が事務的な口調で返すと、根津は短い悲鳴を上げ、脱兎のごとく路地裏の奥へと逃げ去っていった。
◆ーーーー◆
薄暗いアジトの一室で、氷川透は銀縁眼鏡を中指で押し上げ、苛立たしげに舌打ちを漏らした。
「昨夜向かわせた連中が、全員音信不通だと?」
「は、はい……。通信機からの応答も完全に途絶えておりまして……」
報告にきた部下が、怯えたように身をすくめる。
氷川は手元のタブレット端末に視線を落とした。画面には、結城誠とその娘に関する調査資料が表示されている。
「黒崎のやり方は常に力任せだ。だからこんな無様な結果になる」
氷川は冷徹な声で吐き捨てた。
規格外の魔力を持つ小学生。そして、それに付き従う平凡な顔をした父親。
資料によれば、父親はただの会社員に過ぎない。だが、プロの暗殺者たちを一晩で消し去るなど、一般人にできる芸当ではない。
「ダンジョン庁の測定器を破壊した小学生。そして、予備の機械を沈黙させた父親。……ふざけた報告書だ」
氷川は神経質そうに指先でデスクを叩く。
黒崎は強引に娘を奪うつもりでいるが、正面からぶつかるのは愚策だ。もっと確実で、凶悪な手段が必要になる。
「あの父親……何か裏があるな。力押しではなく、まずは親と子を分断するべきだ」
氷川は冷徹な思考を巡らせる。
父親が会社に行っている間、あるいはダンジョン探索中で分断された瞬間を狙う。いや、それすらも危険か。ならば、周到な罠を張るしかない。
「黒崎には適当に報告しておけ。私が直接、計画を練り直す」
「よ、よろしいのですか?」
「構わない。下がれ」
部下を追い出すと、氷川は暗い欲望を瞳に宿した。
組織のトップに立つ黒崎のやり方には、以前から不満を抱いていた。黒崎は昔気質の暴力で成り上がった男だ。だが、これからの時代は情報と計算が支配する。
あの娘の規格外の魔力……手に入れれば、ギルドの力関係を根底から覆せる。黒崎を失脚させ、自分がトップに立つための最高のカードになる。
「結城誠……お前が何者であろうと、私の計算を狂わせることは許さない」
氷川は冷たい笑みを浮かべ、次なる強硬手段の構築へと没頭していった。
◆ーーーー◆
夜。自宅のリビング。
愛海はすでにベッドに入り、規則正しい寝息を立てていた。
妻が他界してからの日々、男手一つでこの子を育ててきた。「父親として十分やれているか」という不安は常に付きまとっているが、娘の無邪気な寝顔を見るだけで、その迷いは少しだけ晴れる気がした。
俺はダイニングテーブルにノートパソコンを広げ、根津から受け取ったデータを展開した。
画面には、黒崎のアジトの所在地、詳細な見取り図、警備の配置、そして所属する構成員のリストが整然と並んでいる。
「……なるほど。これなら一晩で片付きそうだ」
長いサラリーマン経験で身につけた情報処理能力が、敵の戦力を瞬時に分析していく。
構成員のリストを表計算ソフトに取り込み、脅威度順にソートする。魔法使いは後衛から潰すのが定石だ。物理特化の相手なら、ボールペン一本で十分対処できる。
アジトの入り口は三箇所。だが、監視カメラの死角を突けば、裏口から侵入できる。警備の巡回ルートは十五分間隔。その間に三人を無力化し、中央の制御室を押さえる。
まるで明日の会議の資料を作るかのように、分刻みで敵の殲滅計画が頭の中で組み上がっていく。
愛海の安全と笑顔を何よりも優先する。娘の日常を脅かす害悪は、迅速に排除しなければならない。
しかし、これ以上有給休暇を消費するわけにはいかない。
今年度の有給の残日数を頭の中で計算する。来月の保護者会、再来月の運動会……ギリギリだ。
有給は正当な権利として行使するが、週末に控えている新しく湧いた温泉への家族旅行のために残しておくべきだ。山田課長も、これ以上急な申請を出せば胃に穴が開くと嘆いていた。
ならば、どうするか。
俺はノートパソコンを閉じ、深夜の『サービス残業』に出向くことにした。
残業代は出ないが、愛海の笑顔が報酬だと思えば安いものだ。
俺はクローゼットを開け、動きやすい黒のジャケットとスラックスを取り出した。
手元には、いつも会社で使っている安物のボールペン。指先で軽く回すと、空気が微かに震えるような感覚があった。
そして、妻が遺した、針の進みが不規則な腕時計を腕に巻く。
この時計が俺の異常な魔力を抑え込んでくれている。だが、今夜は少しだけリミッターを外す必要があるかもしれない。
「さて、残業の準備をするか」
窓の外には、静寂に包まれた夜の街が広がっている。
家族との約束は絶対に守る。
娘の平穏な明日を守るため、俺は静かに立ち上がった。




