第11話
「さて、残業の準備をするか」
窓の外には、静寂に包まれた夜の街が広がっている。
家族との約束は絶対に守る。
娘の平穏な明日を守るため、俺は静かに立ち上がった。
その直後だった。
背後の寝室から、パタパタと小さな足音が聞こえてきた。
「パパ……お水……」
目をこすりながらリビングに現れた愛海を見て、俺は即座に黒のジャケットを脱ぎ捨てた。
「ああ、ごめんな。今すぐ持っていくよ」
冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで手渡す。愛海はこくこくと喉を鳴らして飲み干すと、ふにゃりと笑った。
「えへへ、冷たくておいしい。パパ、まだ起きてたの?」
「ちょっと明日の仕事の準備をしてたんだ。さあ、もう寝なさい」
「うん……おやすみなさい」
愛海をベッドに寝かしつけ、布団をかけ直す。規則正しい寝息が聞こえ始めるまで、俺はその小さな頭を撫で続けた。
彼女の寝顔を見ていると、一日の疲れが嘘のように消えていく。この穏やかな寝息を守るためなら、俺はどんな無理でも通すつもりだ。
深夜のサービス残業は、明日に延期だ。娘の水分補給や睡眠より優先すべき任務など、この世に存在しない。
それに、週末に控えている新しく湧いた温泉への家族旅行を完璧なものにするためには、俺自身も体調を万全に整えておく必要がある。
旅行のしおりもまだ完成していない。焦ることはない。害虫駆除は、明日の定時後に確実に遂行すればいい。
◆ーーーー◆
翌日の午後。オフィスの自席で、俺はキーボードを叩きながら宣言した。
「課長、今日は定時で上がります」
「またか結城。お前、最近定時ダッシュ多すぎないか? 有給の次は定時退社って……」
背後から聞こえてきた山田課長の声には、深い疲労が滲んでいた。胃のあたりを押さえる彼を尻目に、俺は溜まっていた廃棄書類の束を掴み立ち上がる。
「すみません。今日はどうしても外せない用事がありまして」
「愛海のダンジョン探索か?」
「ええ、まあ、そんなところです」
曖昧に頷きながら、俺はシュレッダーの前に立った。
手元の分厚い企画書の束を持ち上げる。ホッチキスやクリップで留められたままの資料だが、外す手間はかけない。
指先で紙の束を弾き、空気を滑らせるようにして裁断機へ送り込む。機械のモーター音が悲鳴を上げる間もなく、紙屑は寸分違わぬ均等なサイズでゴミ袋に収まっていった。
まるで空間そのものを切り裂かれたかのような断面。
続いてデスクに戻り、未決書類のファイリングに取り掛かる。指先で紙の端を弾くだけで、書類は五十音順のインデックスへ吸い込まれるように収まっていく。
これも長年オフィスで鍛え上げられた、ただの事務処理スキルだ。
「結城……お前、また処理速度上がってないか?」
山田課長が呆気にとられた顔で呟く。
「気のせいです。ただの事務処理ですよ。それより課長、胃薬飲みすぎじゃないですか?」
「誰のせいだと思ってるんだ。お前がまた急な有給申請を出してくるんじゃないかとヒヤヒヤしてるんだよ。この前の申請だって、俺がどれだけ上に頭を下げたか……」
「感謝します。おかげで娘の成長を間近で見守ることができます」
ため息をつく上司に頭を下げ、俺は定時のチャイムと同時にパソコンをシャットダウンした。
オフィスビルを出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
駅へ向かおうとした俺の前に、派手な金髪と筋骨隆々の肉体を持つ男が立ちはだかる。
トップギルドの若きエース、獅子王凱だ。
「師匠! お疲れ様です!」
「……ここで出待ちするのはやめてくれませんか。目立つので」
周囲のサラリーマンたちが奇異の目を向けている。俺は足早に歩き出し、獅子王をビルの陰へと誘導した。
「いやあ、師匠の完璧なサラリーマンとしての所作、外から見てて感動しましたよ! あの書類整理の動き、完全に達人の領域ッスね! 無駄が一切ない!」
窓の外から覗いていたのだろうか。勝手に感銘を受けている獅子王に、俺は小さくため息をついた。
「今日は愛海のダンジョン探索の日ですよね? 俺がバッチリ護衛しますんで!」
「助かります。ただ、少しだけ俺も様子を見に行きます」
「おおっ! 師匠の戦いが見られるんスね! 俺、まばたきせずに目に焼き付けますよ!」
「戦いませんよ。ただの授業参観です。それに、俺はただの会社員ですから」
俺たちは連れ立って、初心者向けダンジョン『緑風の洞窟』へと向かった。
ダンジョンの下層エリア。
そこでは、愛海が今日も元気いっぱいに駆け回っていた。
「えいっ!」
愛海の手から放たれた極太の光線が、群がるゴブリンたちをまとめて吹き飛ばす。轟音と共に洞窟の壁が崩れ落ち、土煙が舞い上がった。
「す、すげえ……小学生であの火力かよ……」
「トップギルドのスカウトが来るわけだぜ……俺たちプロでもあんな魔法撃てねえぞ」
周囲で様子を見ていたプロの探索者たちが、呆然と立ち尽くしている。
俺は少し離れた岩陰から、その様子を静かに見守っていた。
あいつが逝ってから、男手一つで育ててきた大切な一人娘。彼女の笑顔を守るためなら、俺はどんなことでもする。
「さすが愛海だ。今日も絶好調だな。あの魔力コントロール、天才としか言いようがないッス」
獅子王が腕を組みながら感心したように頷く。
だが、俺の目は別のものを捉えていた。
土煙の向こう側。崩れた壁の奥から、音もなく飛び出してきた黒い影。
上位モンスターである『シャドウパンサー』だ。初心者ダンジョンにいるはずのないイレギュラーが、鋭い爪を振り上げて愛海の背後へ迫っている。
愛海はまだ気づいていない。プロの探索者たちも、獅子王でさえも反応が遅れている。
俺はスーツの胸ポケットから、いつも会社で使っている安物のボールペンを抜き打った。
指先で軽く回し、空気を微かに震わせる。
そのまま、シャドウパンサーの眉間へ向けてボールペンを突き出した。
空間そのものを切り裂くような感覚。
音もなく、シャドウパンサーの巨体が空中で真っ二つに両断され、地面に崩れ落ちた。
ボールペンには血の一滴もついていない。
「……え?」
プロの探索者たちが、今度は俺を見て凍りついた。
「な、なんだ今の……あの親父、ボールペン一本で上位モンスターを……」
「見えなかった……ただペンを振っただけで、シャドウパンサーが真っ二つに……」
「娘以上のバケモノじゃねえか……!」
彼らが平伏するような視線を向けてくるが、俺は気にせずボールペンをポケットに戻した。ただの事務用品だ。少し扱い方を工夫したに過ぎない。
「パパ! 見てた? わたし、いっぱい倒したよ!」
異変に気づくことなく振り返った愛海が、満面の笑みで駆け寄ってくる。
「ああ、偉いぞ愛海。怪我はないか?」
俺はしゃがみ込み、愛海の頭を優しく撫でた。
「うん! 全然平気! もっと奥まで行ってもいい?」
「今日はここまでにしておきなさい。夕飯の時間に遅れるからな」
「はーい!」
愛海の安全を確認したところで、俺は立ち上がった。
「師匠……相変わらず次元が違いすぎます。俺、一生ついていきます!」
引きつった笑いを浮かべながらも目を輝かせる獅子王に、俺は向き直る。
「獅子王。この後の愛海の護衛、お願いできますか」
「えっ? 師匠は一緒に帰らないんですか?」
「ええ。少し、残業してきますので」
俺は左腕に巻いた、あいつが遺した、針の進みが不規則な腕時計を見た。
この時計が俺の異常な魔力を抑え込んでくれている。だが、今夜は少しだけリミッターを外す必要があるかもしれない。
「残業……ですか。わかりました、愛海は俺が命に代えても家まで送り届けます!」
「頼みます」
愛海に手を振り、俺は踵を返した。
外に出ると、すっかり日は落ちていた。
冷たい夜風が、火照った頭を冷やしていく。
俺の目的はただ一つ。娘の平穏な日常を脅かす害虫を、根こそぎ駆除することだ。
裏社会の連中がどこに潜んでいようと、関係ない。
腕時計の針が時を刻み、俺は夜の闇に溶け込む。




