第12話
夜の冷たい空気が、火照った頭をゆっくりと冷やしていく。
俺の目的はただ一つ。娘の平穏な日常を脅かす害虫を、根こそぎ駆除することだ。裏社会の連中がどこに潜んでいようと、関係ない。
腕時計の針が不規則に時を刻む音を聞きながら、俺はネオンの消えた裏路地を歩いていた。
頭の中で、今年度の有給休暇の残日数を計算する。
「……あと十四日か」
思わず、重いため息が漏れた。
娘の学校行事、保護者会、そして何より、週末に控えた家族旅行。これらを完璧にこなすためには、一日たりとも無駄な休暇は消費できない。
それなのに、どこの馬の骨とも知れない連中が娘の才能に目をつけ、余計なトラブルを引き起こそうとしている。そのせいで、俺は貴重な休息の時間を削って、深夜の残業を強いられているのだ。
怒りはない。ただ、果てしなく面倒だった。
感情に任せて暴れ回るのは三流のやることだ。俺はあくまで一人の会社員として、淡々と、そして徹底的に、目の前の障害を排除するだけである。
アスファルトを踏みしめる革靴の音が、静寂の街に響く。
手元のスマートフォンには、奪った通信端末から割り出した敵の本拠地が示されていた。
「さて、さっさと終わらせて帰ろう。明日は早起きしてお弁当を作らないといけないからな」
俺はネクタイの結び目を少しだけ締め直し、目的地である廃工場跡へと歩みを早めた。
◆ーーーー◆
「あのガキの力さえ手に入れれば、ダンジョン産業の勢力図は一変する」
黒崎のギルド本部、最上階の豪奢な執務室。
分厚い革張りのソファに深く腰掛けた黒崎巌は、紫煙を吐き出しながら強欲な笑みを浮かべていた。
「表のトップギルドどもを出し抜き、俺たちがすべてを牛耳るんだ。未成年のガキ一人攫うくらい、造作もないことだろう?」
「おっしゃる通りです、マスター」
氷川透は表面上は恭しく頷きながら、内心で冷たく嘲笑した。
(力と金。相変わらず短絡的な思考だ。だが、あの少女の力は確かに我々のビジネスを飛躍させる)
氷川は手元のタブレットを操作し、壁面の大型モニターに次の拉致作戦の概要を映し出した。
「対象の行動パターンは解析済みです。学校とギルド本部の往復、その隙を突きます。護衛の男は少々厄介ですが、分断すれば問題ありません」
「まどろっこしい真似はしなくていい」
部屋の隅でソファに寝そべっていた巨漢が、面倒くさそうに身を起こした。
用心棒の赤城剛だ。彼は愛用の巨大な戦斧を布で磨きながら、残忍な笑みを浮かべる。
「次は俺が直接行って、あのガキを攫ってきてやるよ。護衛の男ごと叩き潰せば済む話だろ?」
「赤城、貴様は少し黙っていろ」
黒崎が威圧的な眼光で巨漢を睨みつけた。
「これはビジネスだ。確実に手に入れるための手順というものがある。俺の命令には絶対服従だということを忘れたか?」
「……チッ、わかってるよ」
赤城は舌打ちをし、再び戦斧の手入れに戻る。
氷川は銀縁眼鏡の位置を直しつつ、冷ややかに場を収めた。
「マスターの仰る通りです。我々の目的は、あくまで少女の確保。無用な騒ぎを起こしてダンジョン庁の介入を招くのは得策ではありません」
その時、執務室のインターホンが鋭い電子音を鳴らした。
『マスター、正面ゲートに妙な男が……』
警備室からの報告に、黒崎は苛立たしげに眉をひそめる。
「妙な男だと? 同業者か、それとも警察の犬か」
黒崎が手元のリモコンを操作し、メインモニターの映像を監視カメラのものに切り替える。
そこに映し出されたのは、くたびれたスーツ姿の中年男だった。片手にはビジネスバッグを提げ、もう片方の手でスマートフォンを操作している。
「なんだ、この冴えないおっさんは」
赤城が鼻で笑った。
「道に迷った酔っ払いか、それとも借金の取り立てか? おい氷川、うちのフロント企業にこんな取引先いたか?」
「……いえ、私の記憶にはありません」
氷川はモニターの男を注意深く観察する。
(おかしい。ここは厳重な警備が敷かれた私有地だ。一般人がここまで入り込めるはずがない)
「ただの迷い犬だ。つまみ出せ」
黒崎が吐き捨てるように命じた。
だが、氷川の胸の奥で、警鐘のようなものが鳴り続けている。
モニターの中の男は、監視カメラの存在に気づいているのか、まっすぐにレンズを見上げた。
その目には、一切の感情が浮かんでいない。ただ、淡々と業務をこなすような、冷徹な光だけがあった。
◆ーーーー◆
アジトの重厚な鉄扉の前に立つ。
周囲には有刺鉄線が張り巡らされ、いくつもの監視カメラがこちらを向いているのがわかった。
中には、娘の平穏を脅かす連中が揃っているはずだ。
俺はビジネスバッグを持ち直し、深く息を吸い込んだ。
感情をフラットに保つ。怒りに任せて暴れては、ただの野蛮人だ。これはあくまで、娘の安全を確保するための事務手続きに過ぎない。
「夜分遅くに申し訳ありません」
誰にともなく呟き、俺は鉄扉に向かって手を伸ばした。
そして、取引先を訪問する時と同じように、静かにノックする。
コン、コン、コン。
硬質な音が、夜の闇に吸い込まれていった。
単身で乗り込んだこの先に何が待ち受けていようと、俺のやるべきことは変わらない。
明日の朝、娘と笑顔で朝食のテーブルを囲むために。
俺は扉が開くのを、静かに待ち続けた。




