第13話
重厚な鉄扉の向こうから、ガチャリと無骨な金属音が響いた。
ゆっくりと開かれた隙間から漏れ出すのは、むせ返るような血と暴力の匂いだ。俺はビジネスバッグの持ち手を握り直し、ネクタイの結び目を軽く整えた。
「あァ? なんだてめぇ。迷子のおっさんが来る場所じゃねぇぞ」
扉の奥から姿を現したのは、顔に大きな傷を持つ巨漢だった。見上げるほどの体躯に、はち切れんばかりの筋肉。その全身からは、獲物を前にした肉食獣のような好戦的な気配が立ち上っている。
俺は相手の威圧感を正面から受け止めつつ、営業スマイルを浮かべて一礼した。
「夜分遅くに恐れ入ります。結城と申します。本日は、うちの娘に対する不適切なアプローチについて、少々お話を伺いに参りました」
「……はっ。なんだそりゃ。てめぇ、あのガキの親父かよ」
男は呆れたように鼻で笑うと、首の骨をボキボキと鳴らした。
「わざわざ殺されに来るとは、泣かせる親愛じゃねぇか。俺は赤城だ。てめぇみたいな弱そうな獲物をいたぶるのが、三度の飯より好きでね」
赤城と名乗った男の目に、嗜虐的な光が宿る。
俺は小さくため息をついた。どうやら、言葉による平和的な交渉は不可能な相手らしい。
「そうですか。では、これより物理的なクレーム処理に移行します」
「舐めてんじゃねぇぞ、てめぇ!」
赤城の巨体が弾かれたように躍り出た。丸太のような腕から繰り出される右ストレートが、俺の顔面を正確に狙って迫り来る。風を切り裂くその一撃は、まともに受ければ首の骨など容易くへし折るだろう。
だが、俺の目には、それがただの『処理の遅い未決書類』にしか見えなかった。
俺は左足を半歩引き、飛来する拳を最小限の動きで躱す。拳が頬の横を通り過ぎる瞬間、俺はビジネスバッグの角を赤城の脇腹に軽く押し当てた。
「なっ……!?」
ただそれだけの動作で、赤城の巨体がくの字に折れ曲がり、数メートル後方へと吹き飛んだ。
「ぐはっ……! て、てめぇ、今何をしやがった……!」
コンクリートの床を転がり、赤城が呻き声を上げる。
「ただのファイリングですよ。適切な場所に、適切な圧力をかけただけです」
俺は乱れたスーツの裾を払いながら、淡々と答えた。
会社での書類整理と同じだ。膨大な量の資料を五十音順のインデックスに素早く振り分けるには、無駄な力みは必要ない。対象の重心と空気の流れを読み取り、指先で軽く弾くだけでいい。
「ふざけやがって……! まぐれで一発当てたからって、調子に乗るなよ!」
赤城が血走った目で立ち上がり、腰のホルダーから分厚いサバイバルナイフを引き抜いた。刃渡り三十センチはあろうかという凶悪な刃物が、薄暗い照明を反射してギラリと光る。
「死ねぇっ!」
咆哮と共に、赤城が再び突進してくる。今度は単調な突きではない。上下左右、あらゆる角度から急所を狙う、実戦で培われたであろう連続攻撃だ。
しかし、俺の処理速度からすれば、その動きはあまりにも鈍重だった。
「入力データが多すぎますね。少し整理しましょう」
俺はビジネスバッグを盾にするように構え、赤城の刃を的確に弾き落としていく。革製のバッグに鋭い刃が何度も叩きつけられるが、俺がバッグに込めた物理的な反発力が刃の威力を完全に相殺し、傷一つつけさせない。
「どうなってやがる……! なんで斬れねぇんだ!」
焦燥に駆られた赤城が、大上段から渾身の力でナイフを振り下ろしてきた。
俺はバッグを下げ、空いた右手でその刃を迎え撃つ。
「不要な添付ファイルは、破棄させていただきます」
指先を揃え、手刀の形を作って刃の側面に滑らせる。
会社で日常的に行っている、廃棄書類の高速裁断。その指先の動きを、ほんの少しだけ鋭く、速くしただけだ。
パキンッ、という甲高い音と共に、分厚いサバイバルナイフの刃が根元から真っ二つに切断された。
「……は?」
赤城の動きが完全に停止した。手元に残った柄と、床に落ちた刃の残骸を、信じられないものを見るような目で見つめている。
「さて、現状の課題はクリアしました。次は決裁をお願いします」
俺はビジネスバッグの持ち手を両手でしっかりと握りしめ、野球のバットのように大きく振り被った。
「ま、待て……!」
赤城が恐怖に顔を引きつらせて後ずさる。
だが、俺は容赦なくバッグをフルスイングした。
「承認!」
ドゴォォォンッ!!
バッグの平らな面が赤城の腹部に直撃した瞬間、爆発のような轟音がアジトの入り口に響き渡った。
赤城の巨体が砲弾のように吹き飛び、背後の分厚いコンクリート壁に激突する。壁には放射状の亀裂が走り、パラパラと瓦礫が崩れ落ちた。
「あ……が……っ……」
壁にめり込んだまま、赤城は白目を剥いて口から泡を吹いている。もはや立ち上がる力はおろか、言葉を発する気力すら残っていないだろう。
ただの会社員から放たれた、理解の範疇を超える理不尽な暴力。戦闘狂としての彼の矜持は、たった数分の事務処理によって完全に粉砕されたのだ。
「お疲れ様でした。本日の業務は終了です」
俺は赤城に向かって一礼すると、再びネクタイの結び目を締め直した。
左腕の腕時計に目を落とす。針は深夜の二時を指そうとしていた。この時計は時々時間がずれるのが玉に瑕だが、今は正確に時を刻んでいるようだ。
「いけませんね。あまり残業が長引くと、明日の朝食作りに支障が出ます」
俺は小さく息を吐き出した。
週末には、旅行ガイドブックの隅に小さく載っていた、最近湧き出たばかりの温泉へ家族旅行に行く予定がある。愛海もずっと楽しみにしているのだ。
その平穏な予定を、こんな裏社会の連中の都合で台無しにされるわけにはいかない。有給休暇を使ってまで確保した家族との時間を脅かす存在は、この日のうちに全て処理しておく必要がある。
「さて、まだ上に稟議を通す必要がありますね」
俺は倒れた赤城を一瞥することなく、アジトのさらに奥へと続く薄暗い廊下を見据えた。
この先に、娘を狙う計画を企てた首謀者たちがいるはずだ。
ビジネスバッグを片手に、俺は静かに歩みを進める。
革靴の足音が、冷たいコンクリートの床に規則正しく響き渡った。
この奥で待ち受ける連中がどんな手札を持っていようと、俺のやるべきことは変わらない。
すべての脅威を物理的に解体し、娘の笑顔と週末の予定を死守する。
ただそれだけだ。
俺は感情をフラットに保ったまま、闇の深部へと足を踏み入れた。




